« 中漠:法華編⑮北朝復活 | トップページ | 中漠:法華編⑰バランス・オブ・パワー »

2013年12月17日 (火)

中漠:法華編⑯自己実現の物語と町衆の具足山

 観応の擾乱の説明と並行して妙顕寺の動向を見てゆきましたが、大略南朝に尊氏が働きかけをするタイミングで妙顕寺に祈祷の依頼やら褒賞などが来ています。さらに深く考えてゆくと、日像が京都に妙顕寺を建てることができたのは、大覚妙実を自らの教団内に取り込むことに成功したためではないかと思われます。日像は三度京都を追放されていますが、大覚妙実が日像の宗門に入ったのは二度目の追放の後です。三度目の追放の折はすぐに後醍醐天皇に許されて、上京に寺地まで与えられているのですね。それは大覚妙実がとりなしを行ったためではないでしょうか。彼は近衛経忠もしくは後醍醐天皇の子息であると言われており、僧籍に入って大覚寺で学んでいたところを日像と出会い、師事したわけです。一方もし、後醍醐天皇が自らの子、もしくは側近の子息が三度も追放を食らう程『過激』な宗派に入っていたと知ったなら、どのような行動をとるでしょうか。徹底的に引き離して隔離するのも一法ではありますが、穏便な手立てを考えるなら、寺地とそれなりの寺格をあたえるということもありうる話です。

1294年(永仁二年) 日像、上洛する。以後妙顕寺を建てるまでに三度京を追放される。
1297年(永仁五年) 大覚妙実、生誕。
1307年         日像、土佐配流
1308年         日像、紀伊流罪
1313年(正和二年) 大覚寺で学んでいた大覚妙実、真言宗から改宗して日像の弟子になる。
1318年(文保二年) 後醍醐天皇、即位。
             日印、鎌倉殿中問答に勝利し、幕府「題目宗」の布教を許す。
1321年(元亨元年) 日像、洛内追放
             後醍醐天皇、日像に対し洛中に妙顕寺を建てることを許す。
1324年(正中元年) 正中の変。
1328年(嘉永元年) 後醍醐天皇、鎌倉本国寺(京都本国寺の前身)を勅願寺とする。
1334年(建武元年) 妙顕寺、勅願寺となる。

 建武の中興の崩壊後、京に入った足利尊氏は一時後醍醐天皇の身柄を拘束しましたが、脱出されて吉野に朝廷を作られてしまいました。直義は北朝を正統とすべしと考えていたようでしたが、尊氏は選択肢として南朝の正統性も認めて両統迭立のオプションを捨てきれなかったフシがあります。その構想に大覚妙実が乗って足利幕府と南朝のパイプ役を果たしたと考えれば、観応の擾乱の折の妙顕寺の動向もわからなくありません。
 当初は光厳上皇に警戒されていた妙顕寺も、拉致された上皇達の返還への尽力によって後光厳天皇に認められて洛中に居場所を確保でき、それに伴って日蓮は大菩薩、日朗、日像は菩薩号を受けるにまでいたります。これはまさに大覚妙実の自己実現の物語と言えるかもしれません。

Photo_8

 大覚妙実の後を継いだ朗源は鎌倉幕府における有力御家人であった千葉一族出身で、日朗、日像らと同様関東出身です。もともとの形に戻ったといえるかもしれません。よって、朗源の代における幕府からの祈祷依頼は1366年(貞治五年)の一回だけでした。大覚妙実の祈りは天に通じて雨を降らせ、勅語や寺地の恵みをもたらしていました。ことに後光巌天皇の勅の中の四海唱導には四条門流の宗徒達は大いに勇気づけられたことであったでしょう。このまま活躍し続けていれば、いつかは帝や将軍も法華に帰依して、日蓮が掲げた立正安国が実現するのではないか。そう思われたと思われます。大覚妙実が示寂して、その夢は醒めました。天皇や将軍は妙顕寺に祈祷を依頼します。しかし、それは今まで信じていた他の宗旨を廃してまで日蓮や法華経を信じるということではありませんでした。将軍家はもともとは真言宗で、鎌倉の北条家の影響で禅に傾倒している形です。法華宗だけではなく、天台宗その他さまざまな寺院に対して加持祈祷を依頼し、その法力を権力の源泉にしていたわけですね。本質的な状況は日蓮の時代と何ら変わっていなかった訳です。

 そんな中、妙顕寺が分裂します。なかなか部外者にはこの辺りの事情を知りがたいのですが、朗源の後継を日霽と争った結果、日実という僧が妙顕寺をでて、一寺を建立したのです。驚くべきことにそのパトロンとなったのは天皇や公家、武士階層ではなく、商人でありました。京の町衆である小野妙覚が日実の後ろ盾となり、四条櫛笥にあった妙顕寺のすぐそば、四条大宮に具足山妙覚寺という寺院を建てたのです。ここには小野妙覚の邸宅があったそうです。寺号の妙覚はパトロンとなった小野妙覚の法号で、それだけならまだ納得できるのですが、この寺の山号は具足山といい、妙顕寺と同じものが付けられました。後醍醐天皇の勅願寺となり、後光巌天皇も四海唱導と謳った妙顕寺と同格であると主張しているのと同じことでした。戦闘的な日蓮の教団であれば、普通こういうものはすぐさまつぶされるように思われます。現に、比叡山延暦寺はもっと過激に他宗の寺院を破却しまくってます。しかし、どういう事情かこの妙覚寺はこの後も具足山を山号にしたまま生き残ってゆきます。もしこれが一介の商家出身の宗徒に過ぎない小野妙覚の調整の賜物であるとすれば、京の町衆の実力の凄さを感じることができるかもしれません。尚、戦国時代に入ってからですがこの寺で修行した僧から戦国大名が出ております。美濃の蝮こと、斎藤道三です。

Photo_9

|

« 中漠:法華編⑮北朝復活 | トップページ | 中漠:法華編⑰バランス・オブ・パワー »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/58414236

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:法華編⑯自己実現の物語と町衆の具足山:

« 中漠:法華編⑮北朝復活 | トップページ | 中漠:法華編⑰バランス・オブ・パワー »