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2013年12月28日 (土)

中漠:法華編㉑寛正の盟約

 1465年(寛正六年)、比叡山延暦寺は非常にきな臭くなっていました。それまで天台宗青蓮院門跡の配下にあって、天台宗の看板を掲げることで存続を認められていた大谷本願寺の蓮如が天台色を一掃、延暦寺に対する上納金の支払いを拒否して浄土真宗の宗旨を鮮明にしたことに対して、延暦寺が大谷本願寺の破却をしたところから始まります。
 何十年かに一度、比叡山延暦寺はこんな風に過激な挙に出ますが、その被害を過去に何度も受けたことのある妙本寺ら洛内の法華寺院達にとってこれは他人事ではありませんでした。個々の寺院は細部に教義の違いがあって仲が悪かったりするのですが、今回の延暦寺の過激さは過去に類例を見ないものでありました。何しろ近江国に逃げた蓮如を追って金森で合戦を行ったりしたいたのですから。これまでは妙本寺が集中的にターゲットとされてましたが、今度延暦寺を敵に回したら妙本寺だけでは済まないだろうというのが彼らの一致した意見ではなかったかと思われます。そんなピリピリとした雰囲気の中、空気を読まない僧侶が室町殿に対して諌暁を試みます。鹿苑寺参詣の途上、足利義政を待ち伏せして『妙法治世集』という書物を手渡します。内容は調べが追いつきませんので想像するしかないのですが、『立正安国論』のような法華経を進める内容でありましょう。それは直訴という強硬手段で実現したものではありましたが、日親と足利義教の時のような拷問と呪詛の如き、毒の含んだ対話ではなく、穏やかな雰囲気なものであったらしいです。この行為を行ったのは本覚寺の日住という僧でした。

 しかしながら、延暦寺はただでは済ませませんでした。しかもターゲットとしたのは事を起こした本覚寺のみではなく、洛中の法華諸寺院に糾弾の書を送りつけて、寺院を破却すると脅しつけたのでした。そこで洛中の法華諸寺院は会合をもちます。個々に対応していたのでは潰されるに決まっている。そこで、教義の多少の違いには目をつぶりつつ、洛中の法華宗を奉じる寺院が一揆を作って互助しようということになりました。これを称して寛正の盟約と言います。この当時、京の町衆の半数がそれらの寺院の檀家であると言われておりました。もし、山門が予告通りに強硬手段に討って出たなら、本願寺教団門徒宗との金森一揆に数倍する戦いが洛内で展開したことでしょう。結局、この一件に関しては法華信徒でもある京極持清が間に立って事なきをえています。この盟約も山門に対する抑止力として働いたということもあったように見えます。

 延暦寺だけではなく、この年には随分と時代そのものがきな臭くなっています。盟約がなった1466年には改元があって文正元年とされますが、この年の九月六日に政所執事の伊勢貞親と政治顧問の季瓊真蘂(きけいしんずい)が失脚することで足利幕府の内部抗争が止められないものとなって、翌年応仁元年一月十八日、応仁の乱が勃発します。
 1470年(文明二年)の頃には京における武家や貴族、寺社などは土御門内裏を除いてその大半を焼失したといいます。なので、この盟約を結んだ寺院も例外ではなかったことでしょう。応仁の乱前後の京の町は全く様相を異にしたといいます。これらの寺院はそれぞれの場所に再建を果たしたでしょうが、新たに建てられる町割りは戦国の時代を生き抜くにふさわしい形に変化してゆきました。

 1485年(文明十七年)八月に洛中で徳政一揆が発生します。酒蔵や土蔵が襲われて証文などが破り捨てられました。酒蔵や土蔵たちは洛中法華寺院のスポンサーでもあります。一方、襲撃側は応仁・文明の乱に駆り出された地方武士達でした。もともとは在国で土豪をやっていた守護の被官たちです。乱の最中はその乱暴狼藉で京の町衆たちに恐れられていた連中ですが、戦後処理を守護達が鳩首会談している最中に平和維持軍として洛内に駐留していた人々です。都市生活は色々金がかかるものですが、彼らは滞在が長期にわたった為に困窮して酒屋土蔵に借金をしたのですが、それが返せなくなった為の仕儀でした。彼らを率いていたのが三好之長というこの時二十七歳の若武者でした。阿波守護細川政之の被官で、応仁の乱を初陣に細川軍の部将の一角をなした人物であり、ならず者と京雀たちに怖れられた人物でもありました。時に、都の南においては畠山政長と畠山義就が山城守護の座を巡って戦争しておりました。おそらく、両畠山の戦いが激化すれば、戦火が洛内に及ぶかもしれません。そうすれば、三好之長は細川軍に動員されることは必定でした。戦には金がかかります。しかも、彼は小なりとはいえ、一軍を任されている立場でした。三好之長はその時に備えて、戦支度をしたかったのでしょう。このやり方しか知らなかったというのはやや問題がありますが。幕府は伊勢貞宗と京極政経(法華宗徒京極持清の三男)を徳政一揆にあたらせます。三好之長は主人の細川政之のもとに逃げ込みました。幕府は三好之長の身柄の引き渡しを要求しますが、細川政之は三好之長を庇って言います。「今回の首謀者は三好だけではなく、細川京兆家や、備中守家の被官も加担している、彼らを処罰するなら、三好も処罰すると」伊勢・京極には他家の被官を処罰する権限を与えられておらず、幕府の追捕使は引き上げざるをえませんでした。結果徳政一揆は鎮圧できなかった訳ですが、細川政之は領国の阿波で国人騒動があったことを口実に十月には三好之長を連れて京を引き上げます。

 洛中駐在の守護大名被官達が徳政一揆をおこした原因となった、両畠山の争いですが、これを片付けたのは南山城の住民たちが自らの手で解決しました。戦争ともなれば耕作地は踏み荒らされますので、山城国南部地帯の住民たちは一揆を汲んで結束し、両畠山軍の退去を要求したのです。領民の援助が得られない軍隊は孤立しますので、やむを得ず両畠山軍は引き上げることになりました。以後、山城国は守護不在の数年間を一揆衆が采配することとなります。これが世にいう山城国一揆です。
 一方の洛中の町衆たちですが、山城国一揆衆の団結で守護の軍勢を撤退させたことが一つの教訓となったようです。三好之長が起した徳政一揆に対して無防備だったことの反省を踏まえて、京の街のグランドデザインを彼ら自身の手で変えてゆくこととなりました。

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