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2013年12月 7日 (土)

中漠:法華編⑫執事戦争

 上杉重能は足利直義の執事です。彼をはじめとする足利直義の側近衆が危険視する勢力がいました。足利尊氏の執事である高師直です。高師直は足利尊氏に忠実な執事であり、直義よりも軍事能力に秀でていました。
 足利尊氏が京を掌握し、幕府を開いて以来、足利家は従来の足利家の譜代衆や一門衆だけではなく、関西にいて土岐頼遠や佐々木高氏(導誉)ら、非一門衆の協力をとりつけて軍団を指揮監督する必要が出てきました。従来の譜代・一門衆は足利直義が、そして、関西に拠点を持つ非一門衆は高師直が対応するようになっていたのです。高師直はいわば今の会社組織でいうところの新規事業担当役員であったわけですね。足利家一門衆や譜代衆は昔からの気心の知れた人々ですが、高師直はそういう人々とは毛並みの違った人々を相手にする気苦労の多い役目を負わされていたわけです。

 そんな中、摂河泉地方で楠木正行が示威行動を始めます。南朝方は貞和年間までに楠木正成、名和長年、千種忠顕、新田義貞、脇屋義助、北畠顕家等、主力メンバーの大半が討ち取られておりました。残存の最後の有望株が楠木正行だったわけです。しかしながら、彼のフィールドである摂河泉地方においても、まともに戦えるだけの戦力はありませんでした。そこでやむなくとった先方が父親である楠木正成譲りのゲリラ戦法でした。足利直義はこれに対応するために細川顕氏と山名時氏を派遣します。ともに足利家の譜代衆でした。楠木正行を何とかしさえすれば、南朝による組織的な反攻はほぼ不可能になります。であるからこそ、足利直義派一門・譜代衆である細川・山名を差し向けて関西の諸豪族に対する足利家のプレゼンスを示したかったはずでした。しかし、結果としては楠木正行の注文相撲に見事にはまって敗北します。
 この後始末を託されたのが新規事業担当役員の高師直だったのです。彼は圧倒的な兵力で楠木正行を押し包み、四条畷の合戦において楠木正行を討ち取ることに成功しました。さらにその余勢をかって南朝の根拠地である吉野まで攻め入ります。後村上天皇は吉野からさらに山奥の賀名生に逃れ、南朝勢力はほぼ壊滅。南北朝の争いの趨勢はほぼ決っしました。高師直は与えられたミッションを完遂しました。同時に、高師直自ら率いる非一門・非譜代で構成した軍団の実力を立証したわけです。

 逆に足利一門・譜代衆は面目を失うことになりました。その後の政治的駆け引きがあって、1349年(貞和五年)六月に高師直は執事職罷免を突如言い渡されます。足利直義が兄、尊氏に迫ったためです。表向きには上杉重能、畠山重宗等の直義側近による高師直についての糾弾がありました。彼らが言うことには高師直は土岐頼遠に近いものの考え方をしているということでした。すなわち、天皇が人間である必要はない。物言わぬ木石で十分であると。もっともこれは太平記にある言葉で、必ずしも高師直本人の考えではないかもしれません。

 これは当然起こりうる権力闘争であったと思われます。主は違えど高師直と上杉重能はともに執事でした。鎌倉幕府を事実上取り仕切った北条家はもともと源家の執権、すなわち執事であります。発足間もない足利氏の幕府はいずれ執事によって切り盛りされることは容易に予想されることです。よって、上杉重能は足利尊氏の執事である高師直をのぞかねばならなかったのです。

 この政争で高師直は後の先をとりました。一旦、執権職の罷免を受け入れ逼塞したように見せたのです。上杉重能は追い打ちをかけるように、高師直を暗殺しようとしましたが、それよりも早く高師直は動きました。
 1349年(貞和五年)十二月、高師直は兵を率いて足利直義の屋敷へ迫ります。密かに畿内の豪族たちに動員をかけていたのです。足利直義派もこの事態を予想して洛中に兵を集めるつもりでしたが、直義の支持基盤は関東に拠点を持つ有力一門衆や御家人衆でした。ことを起こすに当たり、関東にある彼らの強力な兵力を事前に洛中の本国寺あたりに集結させていたなら、高師直には手も足も出す余地はなかったものと思われます。師直は畿内の豪族、悪党層に絞って声をかけて迅速な動員を成功させたのです。
 師直の貫録勝ちでした。足利直義は兄尊氏の屋敷に逃げ込み、師直はその屋敷を囲んで直義の身柄引き渡しを要求します。もはや直義はどこにも逃げられませんでした。直義は政務の職を辞して出家、上杉重能と畠山重宗も出家の上流罪が申し渡されましたが、間もなく上杉と畠山は暗殺されます。高師直はやることにそつはありませんでした。

 政務を退いた直義にかわる足利尊氏を補佐として鎌倉にいる千寿王が指名されました。元服して足利義詮と名乗ります。彼は上洛すると、京都近辺の諸寺(実相寺、妙顕寺、桂宮院、恩徳院、備後浄土寺)に天下静謐を祈らせます。その折の法華宗代表は妙顕寺でした。直義は没落し、上杉重能は暗殺されています。その上で、天下静謐を後醍醐天皇の勅願寺として指定された妙顕寺に祈らせることは、すなわち本国寺に対する妙顕寺の優位を足利幕府が認めたという意味もあったのかもしれません。

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