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2014年1月30日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑬夢窓との距離

 足利直冬をして長門探題に据えるべく、高師直は執事を罷免されましたが、その直後中国地方の守護、元守護達を集めて足利尊氏邸を高師直は囲みました。その多くが足利直冬の長門探題就任で影響を受けた、中国地方の元守護や守護達だったわけですが、そうでない人々もいました。土岐頼康、頼兼、頼雄ら、土岐一族です。時の土岐氏の惣領は土岐頼康でしたが、彼の先代の頼遠は、東北軍団を引き連れてきた北畠顕家を青木ヶ原で撃退した一大武勲の持ち主でもありました。その功に驕ったのか、酒に酔った勢いで光厳上皇の乗った輿に向かって矢を射かけるという不敬を働いてしまいます。佐々木導誉の時は幕府も比叡山延暦寺を挑発するという目的があったので、導誉の罪はうやむやのうちに不問に付されましたが、北朝の上皇は征夷大将軍足利尊氏の身分を保障するものであり、かつ、幕府権力の源泉でもありました。当然、直義は頼遠の逮捕を命じます。酔いがさめた頼遠は美濃国に逃げ帰った後、臨川寺に夢窓疎石を訪ねてとりなしを求めますが、夢窓疎石はこれを幕府に引き渡します。土岐頼遠は結局斬罪に処されました。土岐一門は存続を許されましたが、足利直義と夢窓疎石に恨みを含むことになります。
 中国地方の守護達だけなら直冬探題の就任撤回だけですんだかもしれませんが、直義と夢窓疎石に恨みをもつ土岐一門衆がこの決起に合流することによって、要求が足利直義弾劾にエスカレートしてしまったようです。

 その他、その中にいるべき人物が一人ばかりいませんでした。赤松円心入道則村です。彼もまた、バサラ大名の一人であり、一見、足利直義よりも高師直に利害が近いように思われますが、この時点においては高師直よりも臨済宗の僧に近い立場にいたのではないかと思われます。

 赤松円心は紫野大徳寺開山である宗峰妙超に援助を行い、赤松氏は大徳寺の檀越になっていました。宗峰妙超は浦上氏出身の僧であり、浦上氏は赤松氏の被官でもあり、深い関係にありました。
 長門探題は現在の下関市にあり、日元貿易で得た物資が集まる博多から畿内に物資を送ろうとすれば、必ず関門海峡を通ることになります。渡来・留学僧はその利権にコミットしていたと考えるべきでしょう。
 関門海峡は極めて狭いので、臨検を非常に楽に行える海域です。よってここを差配されるということは、対元貿易の実利を差配するに等しいということになります。赤松円心は播磨国守護ですが、その長男は摂津国守護となっておりました。山陽道の海路の東部を赤松親子で経営することになっていたわけですが、足利直義派に関門海峡を抑えられてしまうとなれば、これと対立すれば海路の利潤が減りかねません。元との交渉においては、禅僧の交流が活発に行われていたのですから。
 足利直冬を長門探題にする事は、天龍寺建立、全国一寺一塔建立運動の延長線上にある政教一致の興禅
政策の一環でしたす。そればかりではなく、九州にはまだ懐良親王、菊池氏、阿蘇氏等の南朝の残党勢力が肥後国を中心に根を張っており、筑前国博多を拠点とする一色範氏、仁木義長がこれと対峙しておりました。足利直冬はその後方に強力な基盤を築き、一気に九州を制圧するためのテコ入れであり、それが上手くいけば元帝国との通商や仏教交流を強化する道が開けます。

 ただ、禅宗のパトロンとしての赤松円心にとって、足利直義が敷いた政策は必ずしも居心地の良いものではなかったようです。1341年(暦応四年)に、光厳上皇より足利尊氏に五山の再選抜を任されます。尊氏はこの仕事を弟の直義に丸投げするわけですが、直義は五山の上位にあった大徳寺を十刹の第九位にまで落としてしまいます。京都五山の第一は夢窓疎石が住持を務める南禅寺だったわけですね。大徳寺はこの扱いに甘んじることを潔しとせず、十刹位を辞退し、自らを禅林体制の外にあるもの、林下と称するに至ります。
 また留学帰国僧の雪村友梅を1337年(建武四年)播磨国金華山法雲寺の開山として招きます。彼は若いころに元に留学し、相当な苦労をして禅宗を身に着けました。老境に入り帰国した時、彼は中風にかかっていたのです。そんな彼にとって法雲寺は余生の場と思っておりましたが、足利直義は興禅活動の為、雪村友梅の病身を押して京都万寿寺やら建仁寺の住持をやらされ使い潰したりもしておりました。
 故に、決してもろ手を挙げて足利直義を支持していたわけではなかったようです。高師直がクーデターを起こして、足利直義が政務から身を引くに当たり、その後は足利尊氏や高師直達と行動を共にするようになったわけです。

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2014年1月28日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑫合成の誤謬

 合成の誤謬というのは経済学の用語で、複数の利害関係者が個別に最も合理的な行動をとったとしても、結果としては関係者全員が損をしてしまう現象のことを言います。例えば、政府が財政難で増税をしたケースを考えてみましょう。消費者は使える金が税に持って行かれて減るので日用品の購入量を減らすでしょう。すると企業は商品が売れなくなって損をします。購入量が減るのですから、商品を作れば作るほど損が膨らみます。なので設備投資をやめて、人件費を下げたり、投資の為に借りていた金を返済したりします。結果として企業は以前ほどもうからなくなります。すると企業のもうけは減ります。企業のもうけが減ると企業から国家に支払われる税金が減ります。また人件費の削減をされた消費者はさらに所得が減りますが、所得が減れば所得税も減ってしまいます。消費がさらに減れば消費税も思うようにとません。結局増税で国庫を潤すはずが却ってさらに金策を講じねばならない羽目に至るのです。
 足利直義や一門衆も、禅宗勢力も、高師直も、佐々木導誉ら畿内武士団の者たちも征夷大将軍足利尊氏を中心とした幕府の利害関係者であるはずなのに、それぞれが自己の利益を追求した結果、全員が損をする羽目になってしまいました。これが、これからお話しする内容の骨子です。

 僧妙吉は果たした役割が重要である割に、わからないことの方が多い人物です。そもそも妙吉は太平記の中にしか出てきませんし、太平記の中では妖怪にとり憑かれて高師直の讒言をすることになっております。その内容が高師直のキャラクター性を決定づけたりしてるのですね。
「どうしても天皇が必要だと言うなら、木を削って造るか金で鋳るかして天皇をこしらえておけばよいのだ。生きてる上皇や天皇はどこかへ島流しにして捨ててしまえ」
 秦帝国の滅亡をもたらした宦官超高を高師直になぞらえて、彼を驕り高ぶった人物として描写した挙げ句に勤皇精神を否定させてしまったのです。ただ、これは妙吉の讒言の中身であり、実際に高師直が言ったかどうかはわかりません。それこそが、太平記の中にしか書かれていないことなのです。
 ただ、比定される人物はいます。大同妙喆(だいどうみょうてつ)という名の、夢窓疎石と同じ高峰顕日に学んだ僧で足利直義は彼の為に四条大宮あたりに北禅寺(後に安国寺に指定される)を建てて住まわせたそうです。
その後、北山にある如真寺に移り、さらには関東にわたって浄智寺の住持になったと言われます。戦国時代の初期に書かれた鎌倉大草紙(別称、太平後記)には関東下向の原因が高師直に憎まれた為と書かれています。彼が関東に移ったタイミングがどうやら観応の擾乱が起こったころのようなのですね。

 大同妙喆が住んだという如真寺は京都の北側にあり、太平記に書かれる妙吉の為に直義が用意した堀川一条戻橋の寺も方角がやや異なりますが、北側にあります。もっとも堀川一条戻橋って晴明神社のある場所でもあります。狐の子である阿倍野晴明になぞらえて出自のあやしさを強調する悪意が感じられます。また、太平記では通いが不便だから一条戻橋に寺を建てたとありますが、四条大宮(北禅寺のあった場所)から三条坊門高倉邸(足利直義の住居)に向かう方が、一条戻橋や如真寺から通うよりもよほど近いはずです。なので、大同妙喆のプロファイルは妙吉のそれと必ずしも一致しません。
 また、観応の擾乱をきっかけに京を追われた臨済宗の高僧は他にもいて、等持寺の開山となった古先印元などもそうです。彼も1345年(貞和元年)に如真寺にいたという記録(園太暦)があり、1350年(貞和六年)に鎌倉の浄智寺に移っています。そして、二度と京都に戻ることはなかったと言います。

 妙吉は夢窓疎石の弟子なのですから、臨済宗の僧として道号があるはずなのに、それも書かれていない所を見ると、大同妙喆や古先印元らの複数の臨済宗僧をモデルとして作られたキャラクターであると見た方がよさそうです。そして、その複数の僧の中には観応の擾乱を期に京を追われて関東へどころか、人生の舞台からの退散をした、夢窓国師自身ももしかしたら含まれているかもしれません。

 夢窓疎石は一山一寧から得たものは中国の風景への憧憬でした。彼と同時代を生き、同じ学び舎で学んだ同朋、例えば雪村友梅などは実際に元に渡り、黄土の山河を目の当たりにしており、その体験を日本に持ち帰りました。夢窓疎石は一山一寧から受け取ったイメージを日本の風景の中に求め続け、その精華を天龍寺に結晶化しました。その為に足利直義の興禅に手を貸したのですね。それも、本来の臨済宗の教義とはかけ離れた漢字かな交じりの書物を出版してまでです。それだけ、天龍寺には費えを要しました。天龍寺船は元の官憲が取り締まりを緩めた間隙をついたギャンブルでもありました。それに打ち勝ち、財を日本にもたらし、日本の中心たるべき禅宗寺院が出来上がったのです。さらに元との貿易を進め、それを原資に国を安国寺で埋め尽くすこと。その安国寺の威容を天龍寺に匹敵するものに引き上げること。足利の一門衆を全国に配し、安国寺を守らしめ、同時に日本の安寧を保たせしむこと。それらを通して、理想の王国は完成するはずだったのだろうと思います。その第一歩として、足利直冬の長門探題は必須条件であったのでありましょう。

(※園太暦、師守記に妙吉に関する記述はあるそうでどうやら実在したらしいです)

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2014年1月25日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑪バタフライエフェクトⅢ

 実際に、足利直義が兄に迫って高師直を執事の座から引きずりおろすまでの間に高師直が何をしていたのか、推測する材料として、実際に起こってしまった事象から原因を掘り下げてゆきたいと思います。

 まず、1349年(貞和五年)四月に足利直冬は長門探題に任じられます。その年の閏六月七日になって、足利直義は兄尊氏に迫って、高師直の執事職を取り上げます。その背後には直義の執事である上杉重能、畠山直宗などの側近衆や僧妙吉の讒言があったと言われております。それからまもなく、八月十三日になって高師直は俄に足利直義討伐の軍を起こします。直義は足利尊氏邸に逃げ込みますが、高師直はその屋敷を囲み、直義の引き渡しを要求するに至るのです。

 ここでまず、1349年(貞和五年)四月の足利直冬の長門探題補任がどういうものだったかを考察してみます。長門探題は単に長門国(現在の山口県西部)に置かれた出先機関ではありませんでした。その権限は中国地方全域の軍司令官と言ってよいものです。その為に、直冬の長門探題補任に伴う、周辺諸国の守護職の交替を伴うものだったのですね。まず、直冬が探題赴任するまで長門国守護だった厚東武村は足利直冬に守護職をゆずります。その隣国の石見国(現在の島根県西部)守護の上野頼兼は解任され、守護不在となります。周防国(現在の山口県東部)守護は大内(鷲頭)長弘は、足利直冬被官である上総左馬助に交替されます。上総左馬助はその三年前に因幡国(現在の鳥取県東部)守護に任じられておりました。その前任者は吉良貞家という一門衆です。また、長門探題補任の直前、足利直冬は細川頼春に替わって備後国(現在の広島県東部)守護を
任じられておりました。
 つまり、足利直冬は長門探題補任によって、長門、周防、備後、因幡の五ヶ国を事実上の直轄地としてしまったわけです。それらの国に加えて備中、安芸、石見、出雲、伯耆の成敗権を得て、九ヶ国の支配者となりました。さらに無主地となった石見国の三隅氏は足利直冬シンパでもありましたので、これによる中国地方における足利直冬のプレゼンスは極めて大きいと言わざるを得ません。

 次に1349年(貞和五年)八月十三日に足利尊氏邸を囲んだ高師直軍のメンツを見てみます。山名時氏は伯耆国(現在の鳥取県西部)と隠岐国(現在の島根県隠岐島一帯)守護です。今川頼貞は但馬国(現在の兵庫県北部)守護にして足利一門。それに付き合って同族の今川範国(心省)もいます。吉良貞経は父親が因幡国と但馬国の守護の前任者なのですね。細川清氏は同族の細川頼春が前備後国守護を、顕氏が備前国守護をしておりました。(但し、頼春と顕氏ら自身は足利直義と一緒に尊氏邸にとどまっておりました。)佐々木秀綱、秀定、氏綱、氏頼、直綱、定詮時親らは、一門の長である佐々木導誉が出雲国守護を務めています。そして佐々木一族の富田秀貞が美作国(現在の岡山県東北部)守護をしている関係があります。武田信氏はおそらく武田信武の誤植で安芸国(現在の広島県西部)守護をしています。大平義尚は足利直義失脚後備後国守護に任じられました。厚東駿河守は厚東武村のことです。厚東武村も元長門国守護でした。大内民部大輔もおそらくは大内長弘本人もしくはその一族だろうと思います。大内長弘は元周防国守護です。主力となった高一族も、高南宗継という者が備中国守護に任じられておりました。その他に土岐一族他中小武士団がこぞって顔を出しているわけですが、ここまで長門探題の人事に被る人間が揃っているのであれば、これは中国地方の守護配置の急激な変更に対する反発であったと見るべきではないでしょうか。執事を罷免された高師直はそういった声を拾い集めて逆襲の手ごまにしたわけですね。

 楠木正行が戦死し、南朝が吉野から賀名生に追われて一年余で中国西部八ヶ国を束ねた小幕府を作る構想はあまりにも拙速であったと言るでしょう。しかも、その僅か三ヶ月後に高師直を執事職から罷免しております。高師直は四条畷合戦で勝利し、南朝を賀名生に追いやった功労者であったことも含めて考えれば、足利直義は非常に焦って強硬策に討って出たとしか考えられません。その強権が、高師直の一声で集められた兵によるクーデターで権力を喪う程脆かったとなれば、なおさらです。
 太平記では足利直義の側近や僧侶達が煽って、高師直を罷免させたということになっております。その記述の通り、足利直義を強硬策に打って出るよう教唆した勢力は確かにいたものと思われます。私はそれは夢窓疎石と在京の臨済僧集団達ではなかったかと推測しております。

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2014年1月23日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑩バタフライ・エフェクトⅡ

 高師直がバサラ大名として非難にさらされている内容の多くは事実無根なものです。それにもかかわらず、四条畷の戦いの後、高師直は足利直義派の論難によって執事罷免に至ってしまいます。それは、彼の幕府内での果たした役割に大きくかかわっておりました。
 彼は足利尊氏の執事です。尊氏は自らの役割の多くを直義に譲って政務を見させておりましたが、軍権のみは手放さず、高師直に任せておりました。高師直も有能な人物で、与えられた軍権を有効に使って足利尊氏の武功を演出していったわけです。但し、彼は足利の一門衆ではありませんでした。高階氏の出身で平安時代に源義家が関東に下向した折に、それに付き従って仕えた一族の末裔でした。故に、執事という役職にあっても、一門衆の序列の外に位置付けられていたわけです。それでも足利尊氏が鎌倉幕府の御家人や、後醍醐天皇に仕えていた時代は足利家の家政のみを見ていればよかったのでその分楽ではありました。
 しかし、足利尊氏が征夷大将軍となり、武門の棟梁としての役割を果たしだすとそれだけでは済まなくなります。すなわち、武門の棟梁が率いるのは足利一門だけではないということです。足利一門衆は北条家滅亡後最大の武士団勢力となりましたが、それでも一門衆のみで日本国の武力を擁することは不可能です。他家の兵を動員し、指揮・監督する役目を果たす必要がでてきたのです。足利尊氏はその役目を高師直に負わせました。
 高師直の役目に対して、おそらくではありますが足利一門衆はあまり協力的ではなかったと思われます。足利一門衆の序列に別家が入ってくるということだからです。同時に高師直の高家は代々足利家総領に仕える執事の家柄ではありましたが、足利一門ではありません。尊氏の代行とはいえ、その命令に従って他家の隷下に入ることは流石に抵抗があったのではないでしょうか。故に、高師直は足利一門以外の畿内の武家に接触するようになります。赤松円心や佐々木導誉、土岐頼遠などですね。それでも普段の軍務は一門衆が主として担っており、一門衆の働きも目覚ましかったので、それほどの問題は起きませんでした。但し、楠木正行が挙兵するまではです。

 楠木正行の挙兵に対して、当初和泉国守護の細川顕氏ら一門衆を差し向けていたのですが、これが敗れたために主力を投入せざるを得なくなったわけです。楠木正行の挙兵を期に、南朝は吉野を喪うことになったわけですが、これに付随して高師直は四条畷での楠木正行との戦いに勝利することによって、大きな発言権を得ることに成功しました。そして、それは足利直義にとっては大変不都合なことだったのです。
 四条畷の戦いの翌年、足利直義は自ら養子にしていた足利直冬を長門探題につけます。この動きが足利家執事として徹してきた高師直が足利直義の職分である政務に巻き込まれざるを得なくなってしまうのですね。

 長門探題というのは元々守護しかいなかった長門国に対元防衛拠点として設けられた、軍事を含む強力権限を持つ出先機関です。しかも、鎌倉時代における実運用においてはその権限は長門一国にとどまらず、隣国周防国をはじめとする中国地方全域に及んでおりました。長門国は筑前国博多とは指呼の間にあります。博多は対元貿易の入り口でありかつ、一門衆である一色範氏・仁木義長がいて、肥後国隈府城にいる南朝方の鎮西将軍懐良親王勢に睨みをきかせていた場所でもありました。そういう意味で足利家のプリンスである足利直冬は中国地方の統括者としてふさわしい人物であると言えるでしょう。
 但し、それでは困ると考える者もいました。この中国地方の領域には塩谷高貞粛清後、佐々木導誉が守護職を得た出雲国、後醍醐天皇による恩賞が不服で足利方に寝返ることで赤松円心が守護職を獲得した播磨国が含まれていました。この両人はいずれも、高師直とは昵懇の間柄だったのです。

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2014年1月21日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑨バタフライ・エフェクトⅠ

 世の中、一寸先は闇と言います。我々はちょっとした未来をも見通すことはできないという戒めです。1347年(貞和三年)時点の南北朝の戦力差は絶望的に開いておりました。しかし、ここで楠木正行が行った文字通り身を捨てての死に狂いの抵抗が結果として足利幕府の内訌を生み、足利直義と夢窓疎石の安国寺構想を粉砕したと言い切ってしまうことは、春秋の筆法に過ぎるというものでありましょうか。

 1347年(貞和三年)、楠木正行は河内国で挙兵、紀伊国隅田城、河内池尻、八尾城を転戦し、九月十七日には藤井寺で細川顕氏の軍と衝突し、これを撃破しました。とはいっても、楠木軍は七百騎と小勢もいいところで、細川軍三千と楠木軍の戦力差は四倍以上までにも開いていたそうです。楠木正行はこれに奇襲でもって対抗したわけです。細川軍は和泉国守護と言っても手勢は四国遠征で征服した土地からかき集めた者達で構成されており、精鋭化されてはおりませんでした。地の利を得ており、楠木正成・北畠顕家の死後、十年以上の安寧を得ていたこの土地で鍛えた兵の練度で勝っていた楠木正行が勝利したのです。
 この事態に足利直義は同じく一門衆の山名時氏を援軍に加え、先の戦力を倍にした兵六千を細川顕氏に与えて再戦を命じます。ここで山名・細川軍は兵力の運用に致命的な失敗を犯します。折角の大兵力を天王寺と住吉に陣地構築の為に分散させてしまったのですね。そして山名時氏は千の兵をもって楠木軍の主力を迎え撃たんとさらに住吉南方の瓜生野にまで進出します。楠木正行は自軍を集中させ二千をもって対抗しました。先の先勝で動員兵力があがったようです。山名時氏はこの戦いで負傷し、戦線が崩れ、山名軍は天王寺に向けて敗走します。楠木軍は騎虎の勢でこれを追い散らして、立て直しの余裕を与えませんでした。
 天王寺には二千の兵がいて、楠木軍に十二分に拮抗できるはずでしたが、敗残兵に浮き足立ち、また天王寺は背水の陣でもありました。それでもここに陣を敷いたのは寺域・神域で敵兵も攻めにくいだろうという判断があったのですが、最前線から攻め上げてくる楠木正行の勢いに戦争どころではなくなり、パニックに陥ってしまいました。天王寺の細川軍は戦うこともなく、撤退。その際、淀川にかかる橋は小さく兵が渡りきれずに川に落ちたりして甚大な損害を出したとも言われております。楠木正行はそんな敗残兵を助けて食料や馬も補給した上で京に帰してやるという仁将ぶりを発揮したとも言われております。

 二度にわたる幕府軍の敗退は予想外なものでした。それでもなお戦力差は圧倒的でしたが、このまま手をこまねいていることはあり得ませんでした。というのは、鎌倉幕府が滅亡した時と状況がかぶっているからです。鎌倉幕府は軍も政治も掌握しておりましたが、天皇が反幕府に蜂起し、小勢のゲリラ軍が倒せない状況のまま手詰まりとなってさらに蜂起の連鎖を呼び込んで滅亡に至ったわけです。
 発足間もない足利幕府は北条政権よりもなお、政権基盤がぜい弱でした。それ故手段を選んでいる余裕がありませんでした。差し向けたのは足利尊氏直属の主力軍。率いるのは足利家執事、高師直です。その数ざっと六万。前回の十倍の軍勢でした。これに対して楠木正行は必死の抵抗を試みますが、衆寡敵せず四条畷で討たれてしまいます。高師直はさらに軍を吉野に進め、これを焼き払いました。南朝は吉野からさらに山奥の賀名生に逼塞するに至ります。
 足利幕府軍の完勝でした。しかし、それに至るまでの勝ち方が幕府の権力構造に大きな亀裂をもたらすこととなったのです。そのあたりを理解するにはまずは足利幕府の権力構造を理解する必要があります。

 三条坊門高倉邸に開かれた幕府の中心人物は言わずと知れた征夷大将軍の足利尊氏ですが、政権奪取後の彼は遁世を決め込んで政務にはほとんどタッチしなくなりました。その面を補ったのが副将軍である彼の弟足利直義です。彼は兄に代わって政務だけではなく、一門衆の束ねも司っておりました。但し、そんな足利尊氏も軍権だけは直義に譲ってはおりません。その軍権を代行させていたのが執事である高師直だったのです。

 高師直は毀誉褒貶の大きい人物ですが、その原因の第一は足利家中にあって足利一門ではなかったこと。第二は彼には足利一門衆と畿内近辺の武士団との調整役を担わされていたこと。第三はその畿内武士団の長には佐々木導誉、土岐頼遠、赤松円心等、名うてのバサラ大名達がいたことです。高師直自身にも塩谷判官高貞の妻にふられた腹いせに讒言で粛清したり、天皇や上皇を島流しにして御所には木像を安置してそれを奉ずればよいなどの暴言があったりしますが、それらのエピソードはほとんど信憑性がありません。塩谷高貞が粛清されたのは事実ですが、その動機が塩谷の妻に懸想したからというものは、太平記などの物語以外にはなく、木像一件にしても反高師直派が彼を貶める目的で政敵から言い立てられたものでそれが事実として確認できるものはないのですね。では、なぜ彼がそれほどまでに貶められなければならなかったか、それを次稿で述べてみたいと思います。

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2014年1月18日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑧全国一寺一塔建立運動

 正中の変から元弘の変、建武の乱をへた騒乱の中、数多くの人が亡くなりました。その原因の一角である後醍醐天皇が崩御し、南朝は吉野の山中に逼塞するに至り、天下は北朝の天皇を奉じる足利氏のものにほぼ帰趨は決しました。為政者としては、それを全国津々浦々に知らしめる必要がありました。
 足利兄弟は夢窓疎石と相談し、日本六十六か国に一つずつ寺を建てることを計画しました。これが安国寺です。その発案そのものは高峰顕日より印可を受けて以降、虎渓山永保寺や吸江庵など、中国の情景に通じる土地に寺院を建て続けた夢窓疎石の興の延長線上にあったものです。すなわち、日本中のすべての国に永保寺や吸江庵を作ろうとしたのですね。
もちろん、政治的な意味の方が大きいです。安国寺は臨済宗の寺院として計画されましたから、これが実現すれば、日本国すべてに臨済宗のネットワークが張り巡らせられることになります。奈良時代の国分寺に匹敵する一大国家事業でありました。

 1338年(建武五年)五月二十二日、北畠顕家が戦死しました。奥州兵を率いて上洛をもくろんだものの青野ヶ原で土岐頼遠に進軍を阻まれ、伊勢・伊賀と迂回を余儀なくされた挙げ句吉野にたどり着くも、すぐに再出撃を命じられ、高師直に捕捉されての玉砕でした。散華の地は今の堺、石津あたりです。その直後、同じ和泉国にある久米田寺に利生塔が建立されました。この時点ではこの施設は石津をはじめとした合戦の戦没者供養塔でしかなく、そもそもここは禅宗寺でもない真言宗の寺です。しかし、その翌年に後醍醐天皇が崩御し、天龍寺開山が着手されるに至って天龍寺建立構想が討ちたてられるに至り、全国一塔の試みが、天龍寺を頂点とする禅寺ネットワークの構築に転化してゆくのです。

 1341年(暦応四年)、光厳院は院宣を発して五山の選抜を足利尊氏に一任しました。五山の第二位に天龍寺は位置づけられ、五山の下には十刹が制定され、その下には諸山と呼ばれる諸寺院が格付けされました。安国寺はその序列の中に入り、足利幕府の権力基盤を形成したのです。余談ですが、この五山選抜の主導権を握っていたのは尊氏の弟直義であり、この時の選により、それまで五山の上位を占めていた大徳寺が除かれます。幕府に従順ではなかったというのがその理由ですが、大徳寺の檀越だったのが、播磨国守護赤松円心入道でした。この沙汰に対して、後に禍根を残すことになります。

 閑話休題。当時寺を建てるということは、単に寺院の建物を建設することに留まりません。寺院が自活可能なように寺領を寄進し、自給自足できるようにするばかりではなく、その寺領が不法占拠や略奪にあわないように保護をする禁制を出す所まで含まれます。それはまさしく幕府が行う公共投資と言うべきものであり、それに対して不離不即の距離を保ったのが守護大名なのです。というのはその禁制を出すのは各国の守護であり、その多くが今回の政権交代で新たに選任された足利一門衆だったりするからなのですね。
 北条一門は禅宗に深く帰依してその領地に禅宗寺院を建てていたわけですが、それを国家事業規模で行ったという所に足利幕府の新しさがあったのです。

 しかし、これには数々の困難がありました。経済的な問題です。全国の安国寺の総本山たるべき天龍寺を建立するにあたってすら、天龍寺船による外資導入を余儀なくされているのです。当時の日本国は六十六州あると言われておりましたので、六十六の寺院と寺領、そしてそれを守護する軍事力を用意する必要がありました。金はいくらあっても足りることはないでしょう。
 にもかかわらず、ことは拙速と言っていいほどのスピードで進められました。調整に間に合わない所は既存の臨済宗寺院に『安国寺』を名乗らせました。その地域に臨済宗寺院がない場合は、利生塔という供養塔を地元の有力寺院内に置かせてもらい、祀らせたのです。もちろん、そうしたものは五山の序列の外にあるものです。足利幕府から守護に選ばれた一門内外の武家達は、安国寺を建てるための財を求めました。その主たるものが滅びかけの南朝派荘園などの支配地でした。足利幕府配下の北朝支持派の武家達はこぞって南朝派武家の所領の侵略に血道を上げたのでした。

 南朝は滅亡寸前でした。後醍醐朝を支えた三木一草(楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕)や、新田義貞、北畠顕家等主力級の戦力は悉く潰え、いつ本拠地の吉野に攻め込まれてもおかしくない状況でした。そんな中、北朝派の守護達が安国寺のような国家事業に血道を上げておりました。秩序をもたらすための資源を求めながらです。それは南北朝両勢力のマージナルラインをじわじわと蚕食し、圧迫していったのでした。南朝軍にはもはや単独で京都を奪還して北朝の帝を駆逐し、建武の中興を再現する能力などはありませんでした。その絶望的な状況下で最後の抵抗を試みた人物がいました。楠木正成の嫡男、正行です。

 建武政権下で摂河泉三国の守護を兼ねた楠木正成が湊川に散華し、北畠顕家が石津合戦で討たれた後、河内・和泉国の守護となったのは足利一門衆の細川顕氏でした。楠木正行は南朝から摂津守・河内守の受領職を奉じております。されど彼我の差は歴然としています。その差を埋めるために取ったのがゲリラ戦術でした。

1336年(建武三年)五月二十五日 楠木正成、摂津国湊川で戦死。
1338年(暦応元年)五月二十二日 北畠顕家、和泉国石津で戦死
             五月       和泉国久米田寺に利生塔を建立する。
1339年(暦応二年)八月  十五日 後醍醐天皇、崩御
1348年(貞和四年)一月   五日 楠木正行、四条畷で戦死。

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2014年1月16日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑦保津川に黄金龍舞う

 大覚寺統は亀山天皇から始まる皇統の一系です。院庁を京都の西側、嵯峨野にある大覚寺に置いたところから大覚寺統と呼ばれるようになりました。その大覚寺統ですが、後醍醐天皇が足利尊氏との戦いに敗れ、吉野に落ち延びます。そして京都への帰還を志した後醍醐天皇は吉野で崩御します。その結果、嵯峨野大覚寺は保護者を失うことになってしまいました。
 そこに目を付けたのが夢窓疎石です。足利直義と諮って後醍醐天皇の菩提を弔う天龍寺という寺院を建てる計画を立てました。もちろん、政治的な意味を考慮してのことです。寺を建てると言っても、それは後醍醐天皇が遷った吉野の朝廷の許可をえたわけでもなく、後押ししたのは足利幕府でありました。別稿で記した通り、建立資金調達の為に、寺社造営料唐船を仕立てております。それだけ資金・資材を必要とするプロジェクトでありました。寺域は現代においても名高い曹源池の庭の借景としている亀山(嵐山公園のある場所)から嵐山電鉄(嵐電)帷子ノ辻駅あたりに至るエリアです。ちなみにそのエリア内に嵐電の駅は嵐山、嵐電嵯峨、鹿王院、車折神社、有栖川、帷子ノ辻となんと6駅まるまる入っております。これは本来大覚寺統所有地でしたが、ここに幕府が寺を建てるということは、大覚寺領を簒奪したに等しい行いであったことでしょう。

 そして、ここにおいても足利幕府は政治的な嫌がらせを試みております。創建当初、天龍寺は創建時は暦応資聖禅寺という寺号とされる予定でした。暦応というのは創建プロジェクトが開始されたの年号をとったもので、もちろん北朝側の年号です。その時南朝は別の年号を使っていたわけでここに後醍醐天皇を祀った寺社を建てるということ自体、南朝の年号には何の正統性もないという主張を天下に示すことでもあるのですね。この寺は建設途上で五山の第二位に指定され、勅願寺にもされ、開山式典には光厳院の臨席も予定されておりました。

 これに反応したのは、南朝ではなく延暦寺でした。その言い分は北朝年号云々ではなく、寺号に年号を使うことを許されたのは歴史上延暦寺のみであったということでした。つまり、先例破りではないかと攻めたわけです。そこを突破口に夢窓疎石の配流を求めて強訴の構えをみせたのですね。
 延暦寺の強訴は段階がありまして、まず寺域にある三つの社に収められている神輿を根本中堂に収めます。そこで要求が聞き入れられないとなると、その神輿を担いで山を下りて洛中御所前に神輿を投げ捨てるのですね。これを勝手にいじると神罰が下ると信じられておりましたので、それだけで都の政務はストップするというシステムでした。もちろん、朝廷から加持祈禱を頼まれても行いません。普通、朝廷はそれだけで音を上げて妥協するのでした。それでもダメなら日頃はライバル関係にある奈良興福寺や園城寺など、旧仏教系の諸寺院と共闘することもあります。
 この時は神輿を根本中堂に収めるところまでやりましたが、幕府も朝廷もその要求をスルーしました。空気を読まずに洛内に等持寺を建て、妙顕寺や本国寺を置いた足利直義です。彼は先に佐々木導誉が比叡山の神獣でもある猿の皮の敷物を用いたパレードをして挑発しても、結局実力行使はないことを見越しておりました。延暦寺は他寺院に共闘をよびかけたようですが、それもあまり効果はなかったようです。

 とはいえ、拳の卸どころに困った延暦寺に足利直義は少しだけ妥協しました。開山その日の光厳院の行幸は取りやめたのですね。それでもその翌日には行幸は実施されておりますが。そして、『暦応』を取りやめました。替わりに用意されたのが『天龍』です。
 『暦応』はその政治的意図が露骨すぎたので、誰もがドン引いたものと思われます。しかし、替わりに用意されたのが、これなのですね。足利直義、えげつないです。その由来というのが足利直義の夢からでした。その夢の内容とは創建中の寺の寺域を流れる大堰川(保津川)に黄金龍が舞い、天に昇ってゆくというものだったと言うのです。龍の夢は吉夢には違いないのですが、それを見たのは天皇でもなければ、将軍である足利尊氏でもない、その弟に過ぎない直義の夢によるものと言うのが、やや腑に落ちないところではあります。

 このことが意味するのは、天龍寺建立の最終的な責任者が朝廷でも足利尊氏でもないということですね。朝廷は比叡山の強訴姿勢に腰が引けて判断を幕府にゆだねておりました。幕府の長は他でもない足利尊氏ですが、ことこのプロジェクトに関しては尊氏が引き受けるにせよ、リスクが残っていたということかもしれません。それにしても、野心的な現実主義者である足利直義に似合わないロマンチックな夢であります。案外、この夢を見ていたのは直義ではなく、足利尊氏の方だったのではなかったか。そんな気がします。

 足利直義がそのリスクを引き受けたわけですが、そのリスクを引き受けてまで行う目的がありました。その一つはここまで述べました延暦寺に対する挑発行動です。延暦寺を挑発し、暴発させ、本来の目的である国家守護の役割から引きずりおろすことにありました。但し、足利直義が執政となっている期間中、朝廷には圧力はかけてもある程度自制した動きをしておりました。しかし、それもまた足利直義や夢窓疎石らのもくろみ通りのことでした。その真の目的とは、国家鎮護の役目を果たさなくなった延暦寺に代わり、それに替わる国家鎮護の寺院を完成させることでした。
 それこそが、天龍寺建立の真の目的であり、その手足として用意された諸国に置かれた安国寺と利生塔であったわけです。

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2014年1月14日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑥夢中問答

 足利幕府の比叡山への挑発と延暦寺の自重は京近辺の宗教勢力図に空白地を生み出しました。そこを少しばかり埋めたのが法華宗(日蓮宗)だったわけですが、足利直義にとっての本命はそれではなく、臨済宗でした。三条坊門高倉の居館の敷地を拡げて古先印元に等持寺を建てさせましたが、彼は臨済宗の僧です。足利直義はここを橋頭堡にして臨済禅をねじ込んでいったわけです。そして足利直義は後醍醐天皇の引き立てで禅林の重鎮となった夢窓疎石との知己を得て、興禅活動に邁進してゆくわけです。その邁進の仕方が、先の等持寺建立のいきさつと被ってある意味破天荒なものとなっておりました。

 すでに何度か触れておりますが、禅宗には不立文字、すなわち真の仏の教えは文字では伝わらないという考え方があります。時には間の肉体言語も含めた師の厳しい指導の実践を通し、自身に内在する仏性を呼び起こして真理に気付いてゆくのが禅宗のおおまかなプロセスです。曹洞宗の開祖となった道元などは、せっかく中国に渡って禅の修行の果てに印可を得たのに、経典はほとんど持って帰ることはなかったりしています。そういうものは時に修行の邪魔にすらなるのですね。
 にもかかわらず、『よくわかる禅宗入門』のような本を作ってしまったのが、この足利直義でした。彼は夢窓疎石を師として招き、足しげく通ってはその説法を書きとどめていたのです。夢窓疎石とてこの若き権力者に禅というものを理解させようと、比較的わかりやすい表現で噛み砕いて説明しました。そして、暫くして足利直義が夢窓疎石に今まで聞いた話を取りまとめたからこれを説法集として出版したいと迫ったのでした。夢窓疎石は呆れかえりながらそもそも禅宗とはそういうものではないと窘めましたが、足利直義があまりにも真摯な態度で許しを請うのでやむを得ず許した、とその本、『夢中問答集』の跋文にあります。書名も極めてストレートです。夢中の『夢』とは夢窓疎石の号からとったものであり、夢窓疎石との問答記録集と味も素っ気もないものになっています。

 しかも、原書は漢字かな交じり文です。夢窓疎石とその後継者達は五山を頂点とする禅林の中で五山文学と呼ばれる極めて難解な文法の中に教義を織り込んでゆくわけですが、夢中問答集は当時の人々とって極めて判りやすく、問答を漢字かな交じりで描写したわけなのですね。考えに考え抜いて自らの仏性に気付くというよりは、言葉を重ねて仏教の全体像の描写を試みた本というべきでしょう。足利直義は、ことごとくあるべき禅宗の姿とは逆の方向に行っちゃってるわけです。

 そういう意味では佐々木導誉や土岐頼遠、巷間言われる高師直等のバサラ振りに一脈通じる所があります。禅宗のパトロンとしては過去に北条時頼がいましたが、足利直義が手にしている権力は朝廷も比叡山も圧倒し、事実上何でもできてしまう状況です。彼がこの後なした興禅のための構想はそれらバサラ大名達よりスケールが一回り大きいのではないか、と思います。佐々木導誉などは判ってやってるし、どこまでやれるか測りながらやっていることがありありと判るのですが、足利直義は時に明らかに暴走しますから、ひょっとしたら素でやっている所もあるのかもしれません。

 無論、この本で悟りを得られるとは足利直義本人すら思ってはいないでしょう。しかし、彼の興禅構想にとってはこのような本は是非とも必要だったのです。そのキーワードは公共事業です。
 豊臣秀吉が天下を取った後、大坂城や伏見城を建てました。徳川家康は江戸城、名古屋城、二条城など天下普請で全国の大名に労働力を吐き出させて戦国の気風を薄めようと試みました。明治の代に入ってからは富国強兵、殖産興業の旗印に八幡製鉄所をはじめとする種々の国家プロジェクトが立ち上げられています。事業を興せば物資が動き、人が動き、金が動いて人々が豊かになります。豊かになれば平和を維持したいという期待が高まり、治安が安定するわけです。これらの例だけでなく、政権交代を行い、自らの権力基盤を強固にするために公共事業を興すことは政治の常道と言っていいものです。
 足利直義にとってもそれは同じでした。この当時、大坂城のような大城郭は存在せず、禁裏は公家の邸宅を間借りさせていれば十分という認識でした。寧ろ、権力を握った上皇は洛外に大覚寺のような大寺院を建ててそこを住まいとしました。すなわち、この時代、金のかかかる建築物と言えば、寺院そのものをさしていたのです。

 しかし、禅宗を興そうとしても彼や兄だけではどうしようもありません。足利尊氏が征夷大将軍になることによって、足利一門はその藩屏として位置づけられるに至ります。とは言ってもついこの間までは下野と三河国に散在する地方の土豪に毛の生えた程度の存在でしかありませんでした。鎌倉期に禅寺を構えられたのは宗家と精々尾張守家(斯波氏)と吉良家くらいで、一門衆には禅を嗜む機会すらなかったのです。
 足利直義は一門衆を手早く禅宗に帰依させて、興禅運動の一翼を担わせる必要があったのです。夢中問答集は悟りを得るために書かれた本ではなく、興禅運動の価値観を手っ取り早く一門内で共有するために、是非にでも作っておく必要のあった書物だったわけですね。

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2014年1月11日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑤第二天台

 足利幕府が次に行ったのは延暦寺対策でした。先稿でも述べたとおり、京の攻防戦で比叡山延暦寺は後醍醐天皇を匿い、足利尊氏軍の比叡山攻めの折には高師重をはじめとして多くの犠牲を強いた場所でもありました。新田義貞をはじめとしてここに籠もっていた宮方の武将は駆逐したものの、延暦寺はそれ自体これは後白河法皇も自らの意のままにならぬものと諦めざるを得ない程の強力な力を持った勢力でもありました。
 これに対して近江国守護の京極佐々木導誉がまず動きます。

 佐々木一族は代々天台宗徒ではありましたが、鎌倉幕府有力御家人として、北条家がはまった臨済宗にも帰依をしておりました。近江国守護として支配権を強化するためには延暦寺との折り合いをつける必要があります。前回の戦争で延暦寺は宮方について、結果敗北しております。流石に政治への口出しは影を顰めましたが、それでも宗教的権威のもと、強力な力を維持していることは足利幕府にとって脅威でもありました。帰趨は決したとはいえ、南朝の残党はまだ健在です。そこで佐々木導誉は一計を案じ、比叡山延暦寺に喧嘩を売りました。それが妙法院焼き討ち事件です。

 きっかけは鷹狩り帰りの佐々木の郎党が妙法院の紅葉を勝手に伐採したことに端を発する些細な喧嘩ですが、それに近江国守護本人が乗り出してきて、妙法院全部を焼き払ってしまったのです。普段だったら、延暦寺は神輿と神木を担いで下山してデモをやらかすのですが、今回は宮方について降伏していた身分です。だからそれは仄めかすだけに控えて朝廷に抗議しました。おそらくは佐々木導誉や足利直義には想定内のことだったでしょう。だから朝廷や延暦寺が様子を見ている間に次の手を打ちます。足利直義は朝廷に配慮して佐々木導誉を流罪に処します。これで一旦は延暦寺も安堵するのですが、ほっとしたところに佐々木導誉が不意打ちを食らわすのです。
 流罪を得た道誉が都を発つその行列は、見送りの若党二百余騎に、猿皮の矢壺と腰かけをつけさせ、手にウグイスの籠を持って付き従い郎党はきらびやかな遊女を侍らせ、行く先々で盛大な酒宴を催しながら、東下りと洒落込む風情であったのでした。猿皮というのは比叡山で祀ってある山王権現は猿の神様なのですね。それを皮になめして尻に敷くということは延暦寺の権威に対する反逆であり、ある意味延暦寺の強訴よりもいっそう洗練されたデモンストレーションです。もちろん、これは挑発であったものと思われます。

 しかも彼は一年余りで京に戻ってしまって罰も何もうやむやになってしまいました。いつもの延暦寺でしたらブチ切れるところですが、自重しています。それだけ幕府が怖いということでしょう。

 しかし、佐々木導誉と足利直義にとっては失敗ではありました。だから、次なる一手を打ちます。後醍醐天皇が法華宗(日蓮宗)の日像に、御溝傍今小路(上京区)に与えていた寺地を四条櫛笥に移したのです。法華宗(日蓮宗)は天台宗から見るなら、彼らが根本経典とする妙法蓮華経のみに帰依する過激な分派でありました。天台宗は法華宗を異端と見なしており、当初は朝廷も無視していたのですが、後醍醐天皇が上京に寺地を与えていたものです。都の慣例からして三条坊門に等持寺という禅寺を建てるだけでも腹立たしいことなのに、さらに異端の法華宗に洛内に寺地を与えること、これは腹立たしいことに違いなかったでしょう。しかし、またしても延暦寺は自重しています。

 そこで、足利直義はさらなる一手を打ちます。1345年(貞和元年)、同じ法華宗(日蓮宗)の日静に光巌上皇を通して洛内に寺地を与えたのです。東西に堀川通り、大宮通り。南北に七条通り、六条坊門通りに囲まれた領域で、その広さは東寺に匹敵します。当時京にあった里内裏や武家の館に比べても破格の広さです。日静はここに本国寺という寺を建てました。日静自身は勧修寺家から分かれた上杉家出身で、彼の甥にあたる上杉重能は足利尊氏・直義の側近でもあります。本国寺は東寺との三条坊門殿との中間地点にあり、真言宗の洛中道場に匹敵する規模の寺を法華宗(日蓮宗)に与えたということは、幕府と朝廷が天台・真言両宗派に匹敵する正統性を法華宗(日蓮宗)に与えたということでもありました。いわば第二天台宗と認めたと言っていいでしょう。

 これが端緒となって、洛内の町衆達が日蓮宗に染まってしまう結果となります。
 この政権が続く限り、この手の挑発はエスカレートしてゆく一方でしたが、延暦寺は自重する以外に方法はありませんでした。しかしながら、この政権が崩壊するにあたって、延暦寺はフリーハンドを取り戻すに至ります。

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2014年1月 9日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅰ④三条坊門幕府

 先稿で、再上洛した足利尊氏が大谷本願寺を炎上させてしまった事件を取り上げましたが、そのあたりの事情をもう少し巨視的に見てみます。

 上洛した足利尊氏は本陣を東寺におきました。足利氏は禅宗に帰依してますが、もともとの宗旨は真言宗であり、寺域は洛中にあって多くの軍勢をとどめ置けるだけの規模を有する広さがあったので、ここに本拠をおきました。弟の直義は三条坊門にあった以前の自分たちの京屋敷に入りました。
 一方の後醍醐天皇は比叡山延暦寺に籠城します。これを坂本、水呑、三石の三ルートから攻めました。中でも水呑~雲母坂~四明嶽に至るルートは激戦地であり、ここで宮方三木一草の一人千種忠顕は戦死します。武家方も高師直の弟の師重が捕虜となり、討たれてしまいました。武家方は大軍を擁しておりましたが、ここで攻めあぐねたことで宮方の反撃を許してしまいます。大和方面から宮方の援軍として四条隆資率いる軍団が八幡経由で東寺を襲ったことを皮切りに、一時は総大将新田義貞が洛中に突撃し、足利尊氏との一騎打ちを求めて東寺まで迫ります。
 それを何とか撃退した足利尊氏は、興福寺を武家方につけることに成功。両者は持久戦に入り、佐々木導誉が湖上水運を止めて宮方は孤立するに至ります。その過程で名和長年も戦死し、三木一草は悉く滅びるに至ります。さすがの後醍醐天皇も降伏を選び、比叡山を降ります。
 それをもって京における合戦は終息に至るわけです。その後後醍醐天皇は吉野に落ち、そこで南朝を建てますが、畿内はほぼ足利尊氏と北朝の制圧下に入りました。

 晴れて京を支配下に置いた足利尊氏は三条坊門殿に入り、そこで政務をとります。清浄華院が立ち退いたのはこの頃にあたります。1338年(暦応元年)八月十一日に足利尊氏、征夷大将軍となり、自らの居館はそのまま幕府となりました。前代未聞の洛内における武家政権です。これは平清盛も鎌倉幕府の京における出先機関である六波羅探題も避けていた事態でありました。
 それから間もなく北陸で新田義貞も戦死し、後醍醐天皇も吉野で崩御いたします。

 これをもって北朝と足利幕府の基礎が出来上がったわけですが、戦争によって荒らされてしまった現実を取り戻す必要がありました。後醍醐天皇が作り上げた宗教秩序を改めて、足利色に染め上げる作業です。
 これを専ら行ったのが、足利尊氏の弟、足利直義でした。

 三条坊門幕府と言うものが前代未聞と書きました。その振る舞いはさらにエスカレートいたします。足利尊氏の三条坊門邸は、北は二条通、南は三条坊門(現在の御池通り)に及ぶ広大な敷地だったわけですが、まず足利直義が、坊門三条等持院にて法華八講を主催します。屋敷内で亡父足利貞氏の追討を行ったものです。そして、自らが追い出した後醍醐天皇の訃報を聞いた足利尊氏が、自邸に寺を作って百箇日供養を行ったという記述が師守記にあります。
 どうやらこれは京のルールではなく、鎌倉のルールであるようです。北条時頼が引退出家して最明寺入道と号して後も権力を手放しませんでした。最明寺は鎌倉にあり、以後の得宗たちも出家したからと言って別段鎌倉の外にでるようなことはしませんでした。鎌倉育ちの足利尊氏がそれを当たり前のことと考えても何らおかしいことはありません。足利尊氏・直義の屋敷の仏堂はそのまま等持寺と号す寺になりました。後に北山にこの寺の別院が設けられて、足利尊氏以後歴代将軍の墓所がそこに葬られることになりました。等持寺は応仁の乱で焼け、以後再建されることなくその別院が本院となりました。これが現在の等持院です。

 足利家も三代目の義満の代になると、尊氏がやったことの異様さに気づいて洛外の今出川室町に幕府を移してその隣接地に寺を建てるようになります。これが相国寺です。

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2014年1月 7日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅰ③専修なる寺号

 法然は浄土宗を開き、数多くの優秀な弟子たちを育てました。その中でも一際異彩を放っていたのが親鸞です。法然は博覧強記の人でした。比叡山にある豊富な仏典を研究し尽くした結果、聖道門という修行による解脱の道の他に浄土門という阿弥陀仏の他力本願による解脱という道もあることを見出したのです。親鸞は法然の説く浄土門とは何かを研究し同時に実践した人でもありました。親鸞は法然と同じ時期に弾圧を受けて俗人に落とされたうえで越後国に流罪になりましたが、許された後も僧に復帰することを潔くせず、自らを愚禿(おろかなるはげ)と呼んだのです。しかも彼の代表的著書である歎異抄にはもし、浄土門なるものがなく、自分が師である法然に騙されていて結果として無間地獄に落ちたとしても後悔はしないと宣言した大変人間味あるキャラクター性の持ち主でした。流罪が許された後も、すぐには京には戻らず関東で布教を行った後、京都に帰って亡くなりました。彼は師である法然の傍に葬られましたが、結局親鸞の弟子たちは他の法然の弟子たちとは同調せず、自ら親鸞派浄土宗を任じて分派しました。これが浄土真宗です。親鸞の弟子筆頭の真仏は関東を拠点としました。浄土真宗の関東における拠点は高田専修寺です。専修寺なる寺号は専修念仏からきているのでしょう。浄土門の教学の根本をなすものです。それだけに、浄土真宗にとって『専修』なる号は大変重要なものでもありました。
 親鸞の墓は京都東山大谷にあります。浄土真宗教団はここに師を偲んで廟堂を建て、教団の共同管理体制を敷きました。管理人には親鸞の血族をおいて管理させました。後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して倒幕運動を繰り広げていたころ、大谷の廟堂を管理していたのは覚如という親鸞の曾孫でした。親鸞嫡系というわけではないのですが、親鸞の直系の孫如信から大谷墓所の管理を覚信尼(如信の叔母、親鸞の娘)に任されその孫にあたります。墓所管理の役目も父覚恵が一時叔父唯善に奪われるなどして大変だったようです。その係争中に覚恵が亡くなりますが、その子覚如が大谷墓所を相続する為に、覚如は唯善を廃し、墓所を統括する妙香院門跡(青蓮院門跡が兼務)と浄土真宗教団を統括する東国門徒衆を説得せねばなりませんでした。
 1310年(延慶三年)覚如は大谷墓所の留守職継承を認められます。それとともに立場の強化を図ろうとします。すなわち、それが大谷墓所の寺院化でした。それは1312年(応長二年)に覚如は専修寺なる寺号を大谷墓所に掲げ、寺院化を宣言します。これがうまく行けば後の本願寺は大谷専修寺として認知されていたことでしょう。ところが、これは比叡山延暦寺の強硬な反対にあって扁額撤去を余儀なくされてしまいました。

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 親鸞の墓所は天台宗の門跡の一つである妙香院門跡が管轄する土地にありました。専修とは一向専修の一部をなす言葉で念仏だけをひたすら修行することになります。天台宗は日蓮が叡山は濁れる山と評したとおり、法華経しかやらない、浄土教しかやらないといった他を排して一つの教学に専念するというスタンスは取りません。法然たちの活動に専修による弊害があると感じたから、朝廷に働きかけて法然や親鸞を流刑に処したわけです。その管理下にある元流罪人の墓所に「専修」寺なる寺号を許せば、親鸞流罪は誤りであったことを自ら認めることになってしまうからです。覚如はこの過激な専修の寺号を掲げることを諦め、ほとぼりがさめるのを待ってから墓所を寺院化することにしました。さすがに専修寺の寺号を使うことをはばかったわけですが、これが大谷本願寺の始まりです。ところが、この大谷本願寺は創建草々戦火に焼かれてしまいます。
 時に、1336年(建武三年)の頃です。湊川で楠木正成を屠った足利尊氏は京に侵入します。後醍醐天皇は比叡山延暦寺に籠もって抵抗しますが、京の街は戦火に覆われます。そのあおりをくって大谷本願寺が炎上するのですね。覚如はこの焼けた本願寺を復興する為に奔走するのですが、その手を貸したのが下野国高田の専修寺でありました。浄土真宗の租である親鸞が京の大谷に葬られていると言っても、教団の中心は関東にありました。この高田専修寺はその関東門徒の束ねであったわけです。時の住持であった専空は覚如の為に、洛内他所から堂宇を調達して大谷本願寺に運び入れて復旧させたそうです。

 京には寺はほとんど建てられていなかったわけですが、この専空の堂宇がどこにあったかのか考えるヒントがあります。その当時、三条坊門高倉に清浄華院があり、ここを拠点に浄土宗鎮西派一条流の証賢が布教活動をしておりました。ここにはもともと『専修院』寺院というものがあったと言われるのですが、証賢が清浄華院を二条万里小路に再興した後に、三条坊門高倉の専修院の土地も譲り受け、証賢はそこをもっぱら拠点として活動していたそうです。(註1)

 その清浄華院の隣に足利尊氏・直義兄弟の三条坊門殿がありました。足利軍の再上洛で政権奪取をした折に三条坊門殿が拡張されて、清浄華院は土御門室町に移転させられるわけですね。足利尊氏は先に述べたとおり、その一方で覚如の大谷本願寺を焼いておりました。清浄華院の移転先である土御門室町は亀山天皇皇女・昭慶門院の御所跡を寄進されたものでした。ですので、寺院の建物を移築する必要はありません。とするならば、専修寺の専空が移築した堂宇は三条坊門高倉にあった清浄華院のものであったのではないか、と考えられます。
 私はこの専修寺が①洛中に寺院を持っていたこと。②そこが延暦寺を刺激する『専修』なる寺号を掲げていたこと、の二点について奇異に感じていました。この点は今後も検討してゆきたいと思います。(註2)

お詫びと訂正:
(註1)
三条坊門高倉専修院を元々持っていた所有者は専空といい、私はこれを高田派の専空と思って当初記事を書いておりましたが、これは別人であり同名の証賢の兄弟弟子(然空の弟子)との指摘がありましたので、文言を修正させていただきます。
 

元文言
ここはもともと高田の本寺の拠点『専修院』というものがあったと言われるのですが、証賢が清浄華院を二条万里小路に再興した後に、専修寺の専空が三条坊門高倉の専修院の土地を証賢に譲渡し、証賢はそこをもっぱら拠点として活動していたそうです。(註)

 

(註2)
上記により元文書の下記引用個所は意味をなさなくなりましたので、削除しました。
 

元文言
中世における所有権は現代とは異なり曖昧なものであり、専空も証賢も存命であったとすれば、移転の際に両者が話し合い専空が堂宇を引き取ったということはありうる話でしょう。さらに言えば、もともとそこには『専修院』なる寺院は存在せず、高田門徒の武家の所有する土地があり、そこを専空と証賢の合議で清浄華院の為に提供されたのかもしれません。大谷本願寺の覚如からみれば、それは専修寺の専空から送られたものであった為、復興された堂宇の元を『専修院』と認識し、記録したのかもしれません。かように考えれば、この二つの奇異な点の説明はつくと思うのですが、いかがでしょうか。

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2014年1月 4日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅰ②洛中寺院前史

 前稿にて京の条坊には寺はあまり建てられなかったと書きましたが、その例外をいくつか拾って傾向を見ようと思います。調べた範囲なのでほかにもあるかもしれませんし、他にも中世から近世にかけて廃寺になった古代由来の洛中寺院があったかもしれません。そのあたりはおいおい調べてみたいと思います。

 最初に取り上げるのは東寺。そもそもの平安京造営時の計画に盛り込まれていた寺院で、朱雀大路(今の千本通り)の南端、羅城門の両脇に設けられた二つの寺院のことです。東側に建てられたのが東寺、西側に建てられたのが西寺といいました。ともに真言宗寺院です。西寺が建てられた右京(平城京の西半分)は桂川流域の湿地帯であり、住居とするには不適でした。また東寺に対して歴代天皇や室町将軍の庇護があったのに対して、西寺はそれほど手厚く保護されていなかったため、戦国時代の戦乱のさなかに廃寺となってしまったようです。一応大永年間(1520年代頃)までは存続していたという記録が残ってます。

東寺は 金剛峰寺と並んで空海が開いた真言宗の総本山の一つです。密教習得の為に唐留学から帰国した空海は、朝廷の命によって学習成果を本邦に移植すべく国内の適地を物色します。その結果、紀伊国の高野山を選んだのです。深山幽谷もいいところです。彼らの持ち帰った仏教(特に密教)は修行によって解脱を求めることが目的の宗教ですから、俗世の欲に影響されない隔絶された場所で思いっきり修行三昧することを理想としていました。だから寺院の立地は深山幽谷になってしまったわけですね。

 留学僧としてはすでに最澄が帰国して平安京の北、比叡山に延暦寺を建てていたわけですが、空海が建てたこの金剛峰寺は空海にとっての理想形であっても、スポンサーである朝廷のニーズに必ずしも一致してなっていなかった訳です。そもそも平安京は平城京においては仏教勢力が強すぎるのを嫌って彼らの影響力を廃したところに新しい都を建てたかったことに端を発するわけではありますが、国政に役立つ形で仏教を活かしたかったのですね。そもそも、この時代には科学はありませんでした。科学無き世の智慧の体系として仏教は存在していたわけです。桓武天皇や嵯峨天皇は現代でいうところの科学者を唐に送り込んで国家と宗教の理想的な関係を学ばせ、移植しようと思っていたわけですね。ところが、最澄の実質的な留学期間は一年も満ちておらず、到底密教の奥義を学び尽くせているとは言えない状況であり、密教をみっちり学んだ空海に高野山の山奥に引きこもられてしまっては、唐に送り込んだ意味はなんだったのかということになります。最澄もまた、唐で学んできた学業の完成の為に、空海を必要としておりました。ということで嵯峨天皇が洛内に空海の為の寺地を与えたわけです。
 東寺の正式な寺号は教王護国寺といいます。王、すなわち天皇を仏道へと教え導き、併せて国を守護する寺院なのですね。東寺は西寺と並んで朱雀大路の南端の羅城門の両側にあります。朱雀大路の北端に大内裏があります。つまり、東寺から最も離れたところに大内裏が置かれたわけですね。東寺の他にも延暦寺や将軍神社など、都を守護するための施設が洛外に建てられていました。
 都を訪れる使節はまず、都に南面する羅城門に入り、そこから朱雀大路を北上して大内裏へと向かうことになります。都に入って初めに目にするのが、東寺であったわけですね。東寺の敷地は広大な面積が割り当てられていました。東寺は清和源氏の帰依を受け、源義家系の源氏の家計は概ね天台宗をおおもとの宗旨としておりました。多々良ヶ浜、湊川の戦勝の勢いをかって京に入った足利尊氏が洛中制圧の為にこの東寺を拠点としたのは、足利尊氏の祖先の宗旨が真言宗であったことの顕れであったわけです。

壬生寺
  阪急電車四条大宮駅を西南に下ってすぐの所に壬生寺があります。991年に三井寺快賢僧都が建立ということになってますが、実質的には霊験あらたかな地蔵像がそこに祀られていたことに端を発します。三井寺は正式名称を園城寺といって、天智朝の大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うために彼の遺児与多王が興したものという伝承があります。これが朝廷から延暦寺第五代天台座主円珍に下賜されたことにより天台門下に入りました。この円珍の教学は延暦寺の教学を実質的に定めた第三代天台座主円仁のものとは少し外れた部分がありました。違いをわかりやすく述べますと円仁の教学においては顕密兼学が推奨されていたのですが、円珍はこれに修験道を加えたのです。それ以降天台宗は円仁系と円珍系でそれぞれ派閥を形成して対立するに至ります。壬生寺の元となる地蔵像が円珍派の快賢僧都の手で安置されたのがこの頃です。その二年後に延暦寺において円仁派と円珍派の抗争が勃発します。円仁派が円珍派僧侶の僧坊を焼き討ちしたのです。これにより、両者の対立は決定的になり円珍派は比叡山を降りて三井寺を拠点とした天台宗分派として活動するようになります。一般に延暦寺を拠点とする円仁系の天台宗を山門、三井寺を拠点とする円珍系の天台宗を寺門といい、山門・寺門の天台宗内部の対立は熾烈を極めたと言います。
 この対立につけ込んだのが白河天皇です。上皇になって後、彼は延暦寺のことを「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と鴨川の水、賽子の出目になぞらえて天皇の権力でもどうにもならないもの、と述懐しましたが、彼は三井寺に肩入れしておりました。快賢僧都が建てた地蔵像の霊験があらたかで、庶民の信心を集めていると聞きつけて、ここに地蔵院という院号を下賜して寺院としての体裁を整えました。その後、一旦壬生寺は廃れます。白河法皇が述懐した通り、天皇の権威をもってしても比叡山延暦寺はコントロールできず、それに対立する三井寺系列の洛中寺院に十分な保護を与えられなかったということでしょう。
 1300年に律宗の円覚上人がここを復興します。彼はここを舞台に大念仏会というイベントをプロモートします。これは仏教の教えを民衆向けに当時流行していた狂言風の無言劇アレンジして公開したのです。この出し物はあたり、壬生寺は多くの信者を得て復興を果たしたそうです。そのイベントは壬生狂言と呼ばれて現在も行われているものです。幕末になって新撰組がここを屯所としたこともこの寺院の売りではあるのですが、それはさておき、壬生寺が寺としての体裁を整えられたのは白河天皇の保護があったことにあります。洛内に寺を構えるには天皇の許可を得るというプロセスが必要だったという意味では東寺と同じです。

 991年 三井寺快賢僧都が建立。
 993年 比叡山で円仁派と円珍派の抗争。円珍派、比叡山を離れ三井寺に入る。
 1077~80承暦年間、白河天皇の行幸。地蔵院の号を下賜される。
 1300年円覚上人が復興。律宗に改宗

清浄華院
 せいじょうけいん、と読みます。現在は浄土宗七本山の一つとして上京区寺町広小路、つまり『都市計画上の洛外』にあるのですが、創建当時は洛中というか御所内に建てられた寺院です。禁裏の中ですから当然、発願は天皇ということになります。時に860年(貞観二年)清和天皇の勅願時として天台宗第三代座主円仁が創建しました。目的は祈祷などを行って御所内の清浄を保つ儀式を行うことにあったそうです。なのでその成り立ちは官寺ということになります。鎌倉時代に入って浄土宗を開き比叡山延暦寺を降りた法然は禁裏で布教をします。その相手は後白河天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇の三帝であり、受戒までしたわけですね。受戒の為に滞在をゆるされたのが、本来皇室御用達の禁裏道場であった清浄華院だったわけです。

 法然にはその縁によりこの禁裏道場を与えられるわけです。しかし浄土宗はそれを異端と見なした叡山と帰依をうけた後鳥羽天皇によって弾圧されてしまいます。その結果法然その人も、俗人に落とされて讃岐に流罪になってしまうわけです。しかし、法然を含め法然の弟子たちは延暦寺との縁も深く、延暦寺自身も必ずしも一枚岩というわけでもなく、結果として弾圧をはねのけてしまいます。
 1287年(弘安十年)鎮西派弁長の孫弟子にあたる証賢が亀山法王第七皇子恒明親王、全仁親王の庇護のもと、清浄華院を二条万里小路に再興します。その後三条坊門高倉の土地を譲り受けたり、土御門烏丸に移ったりしましたが、戦国時代の終わり頃、豊臣秀吉の京都大改造に伴って、条坊の外、寺町広小路に移されて現在に至ります。東寺にせよ、壬生寺にせよ、洛中に寺院を開くことができたのは歴代天皇によって認められたということがポイントではないかと思われます。
 この清浄華院が三条坊門高倉に土地を持っていた話については、建武の親政とその崩壊に絡めてユニークなエピソードがあります。多少推測を交えて話を膨らませることになりますが、お付き合いいただけましたら幸いです。

860年(貞観二年)清和天皇の発願により、円仁が創建。
1175年(承安五年)法然、ここを拠点に後白河、高倉、後鳥羽天皇に教えを説く。
                  のち、後白河天皇より清浄華院を下賜される。
1287年(弘安十年)鎮西派浄土宗の浄華坊証賢、亀山法皇第七皇子恒明親王及びその子全仁親王の
                  庇護により清浄華院を二条万里小路に移す。
             この頃三条坊門高倉にあった専修院が専空より譲られ、ここを浄華院と号したともいう。
1336年(建武三年)浄華院、後土御門室町に移る。

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2014年1月 2日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅰ①都市計画上の洛中と洛外

 本稿では、洛中に幕府が開かれた後の歴史を追ってゆくわけですが、その第一の中心人物となる夢窓疎石と足利氏による新たな宗教秩序を語る前に、室町時代以前の京都の情景を素描しておきます。
 現代の京都の街を散策すると、お寺さんの数の多さを感じさせられます。太平洋戦争末期において、大日本帝国の主要都市はことごとく、米軍の空襲にさらされました。その中で京都市内が米軍の空襲を免れたのは日本文化の伝統寺院を数多く擁していたからだそうです。そんな歴史ある京都の寺院ではありますが、京都の大寺の多くはもともと、平安京の条坊の中にはほとんど作られませんでした。本稿でいっている条坊の範囲は、北は一条大路から南は九条大路、東は東京極大路から西は西京極大路にあたるエリアです。東京極大路は現在はその名を冠する通りはありませんが、概ね寺町筋と新京極商店街あたりになります。内裏は北辺の一条大路に接して南は二条大路、東は大宮大路、西は西大宮大路(現在の御前通り)に渡る現在の京都御所よりもやや西南にずれたかなり広い領域がとられておりました。その中央を南北に朱雀大路(概ね千本通りが該当)が貫き、九条大路との交差する場所(千本九条)に羅城門が作られたといいます。その門を守護する為に門の両側に東寺と西寺が作られたというのが、都市計画上の平城京です。平城京の西半分は湿地帯であったために、住居としては不適格とされ、西寺はまもなく廃絶しますが、東寺は空海に譲られて真言宗総本山となりました。これと、阪急電鉄大宮駅からほど近いところにある律宗大本山の壬生寺がありますが、鎌倉期以前に平安京の条坊内に建立された寺院はあまりありません。

 ご存知の通り、奈良時代に作られた都においてはいずれも仏教寺院の影響力が大きかったためと思われます。桓武天皇が山城国に平安京を作ったのは仏教寺院の影響力から逃れたいという欲求に基づくものでした。故に、平安時代初期において最澄や空海の系統の仏教は重用されましたが、その根拠地となる寺社が平安京の条坊内に置かれることはいつくかの例外を除いてありませんでした。

 平安時代から鎌倉時代にかけて、京の大寺は概ね、加茂川の東側である東山か、洛西に作られております。先に述べた比叡山延暦寺はもちろん、法然や親鸞の廟所であった、知恩院や大谷本願寺、初期の仏光寺、金戒光明寺などの浄土系の寺は比叡山延暦寺の門跡である青蓮院の傘下にあって、東山に置かれました。西山派浄土宗の本山である光明寺は洛西方向にあります。禅宗にしても、東福寺、建仁寺など鎌倉時代に建てられた寺は東山に、道元が京に滞在中に興した興聖寺は洛南にと、いずれも条坊の外に建てられていました。
 平安期の花山天皇は妻の死を悼んで出家をしましたが、その得度は洛外の山科にある元慶寺(花山寺)です。栄華を極めた藤原頼通がその材を投じて作った平等院は宇治にありました。摂関家の全盛期が過ぎて引退した天皇が上皇として院政をしきました。最初に院庁を開いたのは白河法皇であり、その場所は岡崎であり、後にその近隣の後白河法皇も三十三間堂に院庁を置いております。また鳥羽法皇は鹿ケ谷に院庁を開いています。いずれも、洛外にありました。法体である以上洛内には住めないという不文律があるようです。院政に派生して生まれた平氏による武家政権も院庁のある東山に移ることになります。平清盛の館は六波羅におかれました。それは鎌倉期に入ってからも変わらず、朝廷を監視するためにおかれた六波羅探題は清盛館の跡地にあったわけです。さらに悪いことに鎌倉期には洛中に大火が続いて内裏も炎上し、天皇は有力貴族の邸宅を借りてそれを仮の内裏としました。これを称して里内裏といいます。
 後嵯峨上皇の時に皇統は大覚寺統と持明院統の二つに分裂しましたが、大覚寺は嵯峨野に、持明院は上京にある寺社でした。それぞれがそこに院庁をおいて、里内裏の天皇をバックアップしていたわけです。もちろんどちらも条坊の外におかれておりました。これほどさように政治の中心地は洛中から洛外に移っていたわけですが、これを引き戻したのが後醍醐天皇でした。後醍醐天皇の即位時に大覚寺で院政をしいていた後宇多法皇は後醍醐天皇の里内裏である富小路殿の近隣の常盤井殿を院庁としました。常盤井殿は富小路殿のすぐ近隣にありますが、東京極通りに接して東側にあります。ギリギリ洛外なのですね。按ずるに寺は死後の福を祈る場所であり、死の穢れを恐れた結果、そのような不文律が出来たのではないかと思います。ただし、それはあくまで平安京の歴史と伝統が生み出したもので、それはなかなか目に見えにくいことでもあったのです。

 それをひっくり返したのが足利尊氏と直義の兄弟でした。本稿においては、足利幕府が義満の代に室町に移る以前に、三条坊門殿にあった幕府について取り扱います。それは洛内寺院興隆の切っ掛けとなり、併せて中世の宗教秩序の新たな転換期となった事件でもあったのです。

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