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2014年1月 9日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅰ④三条坊門幕府

 先稿で、再上洛した足利尊氏が大谷本願寺を炎上させてしまった事件を取り上げましたが、そのあたりの事情をもう少し巨視的に見てみます。

 上洛した足利尊氏は本陣を東寺におきました。足利氏は禅宗に帰依してますが、もともとの宗旨は真言宗であり、寺域は洛中にあって多くの軍勢をとどめ置けるだけの規模を有する広さがあったので、ここに本拠をおきました。弟の直義は三条坊門にあった以前の自分たちの京屋敷に入りました。
 一方の後醍醐天皇は比叡山延暦寺に籠城します。これを坂本、水呑、三石の三ルートから攻めました。中でも水呑~雲母坂~四明嶽に至るルートは激戦地であり、ここで宮方三木一草の一人千種忠顕は戦死します。武家方も高師直の弟の師重が捕虜となり、討たれてしまいました。武家方は大軍を擁しておりましたが、ここで攻めあぐねたことで宮方の反撃を許してしまいます。大和方面から宮方の援軍として四条隆資率いる軍団が八幡経由で東寺を襲ったことを皮切りに、一時は総大将新田義貞が洛中に突撃し、足利尊氏との一騎打ちを求めて東寺まで迫ります。
 それを何とか撃退した足利尊氏は、興福寺を武家方につけることに成功。両者は持久戦に入り、佐々木導誉が湖上水運を止めて宮方は孤立するに至ります。その過程で名和長年も戦死し、三木一草は悉く滅びるに至ります。さすがの後醍醐天皇も降伏を選び、比叡山を降ります。
 それをもって京における合戦は終息に至るわけです。その後後醍醐天皇は吉野に落ち、そこで南朝を建てますが、畿内はほぼ足利尊氏と北朝の制圧下に入りました。

 晴れて京を支配下に置いた足利尊氏は三条坊門殿に入り、そこで政務をとります。清浄華院が立ち退いたのはこの頃にあたります。1338年(暦応元年)八月十一日に足利尊氏、征夷大将軍となり、自らの居館はそのまま幕府となりました。前代未聞の洛内における武家政権です。これは平清盛も鎌倉幕府の京における出先機関である六波羅探題も避けていた事態でありました。
 それから間もなく北陸で新田義貞も戦死し、後醍醐天皇も吉野で崩御いたします。

 これをもって北朝と足利幕府の基礎が出来上がったわけですが、戦争によって荒らされてしまった現実を取り戻す必要がありました。後醍醐天皇が作り上げた宗教秩序を改めて、足利色に染め上げる作業です。
 これを専ら行ったのが、足利尊氏の弟、足利直義でした。

 三条坊門幕府と言うものが前代未聞と書きました。その振る舞いはさらにエスカレートいたします。足利尊氏の三条坊門邸は、北は二条通、南は三条坊門(現在の御池通り)に及ぶ広大な敷地だったわけですが、まず足利直義が、坊門三条等持院にて法華八講を主催します。屋敷内で亡父足利貞氏の追討を行ったものです。そして、自らが追い出した後醍醐天皇の訃報を聞いた足利尊氏が、自邸に寺を作って百箇日供養を行ったという記述が師守記にあります。
 どうやらこれは京のルールではなく、鎌倉のルールであるようです。北条時頼が引退出家して最明寺入道と号して後も権力を手放しませんでした。最明寺は鎌倉にあり、以後の得宗たちも出家したからと言って別段鎌倉の外にでるようなことはしませんでした。鎌倉育ちの足利尊氏がそれを当たり前のことと考えても何らおかしいことはありません。足利尊氏・直義の屋敷の仏堂はそのまま等持寺と号す寺になりました。後に北山にこの寺の別院が設けられて、足利尊氏以後歴代将軍の墓所がそこに葬られることになりました。等持寺は応仁の乱で焼け、以後再建されることなくその別院が本院となりました。これが現在の等持院です。

 足利家も三代目の義満の代になると、尊氏がやったことの異様さに気づいて洛外の今出川室町に幕府を移してその隣接地に寺を建てるようになります。これが相国寺です。

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