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2014年1月18日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑧全国一寺一塔建立運動

 正中の変から元弘の変、建武の乱をへた騒乱の中、数多くの人が亡くなりました。その原因の一角である後醍醐天皇が崩御し、南朝は吉野の山中に逼塞するに至り、天下は北朝の天皇を奉じる足利氏のものにほぼ帰趨は決しました。為政者としては、それを全国津々浦々に知らしめる必要がありました。
 足利兄弟は夢窓疎石と相談し、日本六十六か国に一つずつ寺を建てることを計画しました。これが安国寺です。その発案そのものは高峰顕日より印可を受けて以降、虎渓山永保寺や吸江庵など、中国の情景に通じる土地に寺院を建て続けた夢窓疎石の興の延長線上にあったものです。すなわち、日本中のすべての国に永保寺や吸江庵を作ろうとしたのですね。
もちろん、政治的な意味の方が大きいです。安国寺は臨済宗の寺院として計画されましたから、これが実現すれば、日本国すべてに臨済宗のネットワークが張り巡らせられることになります。奈良時代の国分寺に匹敵する一大国家事業でありました。

 1338年(建武五年)五月二十二日、北畠顕家が戦死しました。奥州兵を率いて上洛をもくろんだものの青野ヶ原で土岐頼遠に進軍を阻まれ、伊勢・伊賀と迂回を余儀なくされた挙げ句吉野にたどり着くも、すぐに再出撃を命じられ、高師直に捕捉されての玉砕でした。散華の地は今の堺、石津あたりです。その直後、同じ和泉国にある久米田寺に利生塔が建立されました。この時点ではこの施設は石津をはじめとした合戦の戦没者供養塔でしかなく、そもそもここは禅宗寺でもない真言宗の寺です。しかし、その翌年に後醍醐天皇が崩御し、天龍寺開山が着手されるに至って天龍寺建立構想が討ちたてられるに至り、全国一塔の試みが、天龍寺を頂点とする禅寺ネットワークの構築に転化してゆくのです。

 1341年(暦応四年)、光厳院は院宣を発して五山の選抜を足利尊氏に一任しました。五山の第二位に天龍寺は位置づけられ、五山の下には十刹が制定され、その下には諸山と呼ばれる諸寺院が格付けされました。安国寺はその序列の中に入り、足利幕府の権力基盤を形成したのです。余談ですが、この五山選抜の主導権を握っていたのは尊氏の弟直義であり、この時の選により、それまで五山の上位を占めていた大徳寺が除かれます。幕府に従順ではなかったというのがその理由ですが、大徳寺の檀越だったのが、播磨国守護赤松円心入道でした。この沙汰に対して、後に禍根を残すことになります。

 閑話休題。当時寺を建てるということは、単に寺院の建物を建設することに留まりません。寺院が自活可能なように寺領を寄進し、自給自足できるようにするばかりではなく、その寺領が不法占拠や略奪にあわないように保護をする禁制を出す所まで含まれます。それはまさしく幕府が行う公共投資と言うべきものであり、それに対して不離不即の距離を保ったのが守護大名なのです。というのはその禁制を出すのは各国の守護であり、その多くが今回の政権交代で新たに選任された足利一門衆だったりするからなのですね。
 北条一門は禅宗に深く帰依してその領地に禅宗寺院を建てていたわけですが、それを国家事業規模で行ったという所に足利幕府の新しさがあったのです。

 しかし、これには数々の困難がありました。経済的な問題です。全国の安国寺の総本山たるべき天龍寺を建立するにあたってすら、天龍寺船による外資導入を余儀なくされているのです。当時の日本国は六十六州あると言われておりましたので、六十六の寺院と寺領、そしてそれを守護する軍事力を用意する必要がありました。金はいくらあっても足りることはないでしょう。
 にもかかわらず、ことは拙速と言っていいほどのスピードで進められました。調整に間に合わない所は既存の臨済宗寺院に『安国寺』を名乗らせました。その地域に臨済宗寺院がない場合は、利生塔という供養塔を地元の有力寺院内に置かせてもらい、祀らせたのです。もちろん、そうしたものは五山の序列の外にあるものです。足利幕府から守護に選ばれた一門内外の武家達は、安国寺を建てるための財を求めました。その主たるものが滅びかけの南朝派荘園などの支配地でした。足利幕府配下の北朝支持派の武家達はこぞって南朝派武家の所領の侵略に血道を上げたのでした。

 南朝は滅亡寸前でした。後醍醐朝を支えた三木一草(楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕)や、新田義貞、北畠顕家等主力級の戦力は悉く潰え、いつ本拠地の吉野に攻め込まれてもおかしくない状況でした。そんな中、北朝派の守護達が安国寺のような国家事業に血道を上げておりました。秩序をもたらすための資源を求めながらです。それは南北朝両勢力のマージナルラインをじわじわと蚕食し、圧迫していったのでした。南朝軍にはもはや単独で京都を奪還して北朝の帝を駆逐し、建武の中興を再現する能力などはありませんでした。その絶望的な状況下で最後の抵抗を試みた人物がいました。楠木正成の嫡男、正行です。

 建武政権下で摂河泉三国の守護を兼ねた楠木正成が湊川に散華し、北畠顕家が石津合戦で討たれた後、河内・和泉国の守護となったのは足利一門衆の細川顕氏でした。楠木正行は南朝から摂津守・河内守の受領職を奉じております。されど彼我の差は歴然としています。その差を埋めるために取ったのがゲリラ戦術でした。

1336年(建武三年)五月二十五日 楠木正成、摂津国湊川で戦死。
1338年(暦応元年)五月二十二日 北畠顕家、和泉国石津で戦死
             五月       和泉国久米田寺に利生塔を建立する。
1339年(暦応二年)八月  十五日 後醍醐天皇、崩御
1348年(貞和四年)一月   五日 楠木正行、四条畷で戦死。

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