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2014年1月14日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑥夢中問答

 足利幕府の比叡山への挑発と延暦寺の自重は京近辺の宗教勢力図に空白地を生み出しました。そこを少しばかり埋めたのが法華宗(日蓮宗)だったわけですが、足利直義にとっての本命はそれではなく、臨済宗でした。三条坊門高倉の居館の敷地を拡げて古先印元に等持寺を建てさせましたが、彼は臨済宗の僧です。足利直義はここを橋頭堡にして臨済禅をねじ込んでいったわけです。そして足利直義は後醍醐天皇の引き立てで禅林の重鎮となった夢窓疎石との知己を得て、興禅活動に邁進してゆくわけです。その邁進の仕方が、先の等持寺建立のいきさつと被ってある意味破天荒なものとなっておりました。

 すでに何度か触れておりますが、禅宗には不立文字、すなわち真の仏の教えは文字では伝わらないという考え方があります。時には間の肉体言語も含めた師の厳しい指導の実践を通し、自身に内在する仏性を呼び起こして真理に気付いてゆくのが禅宗のおおまかなプロセスです。曹洞宗の開祖となった道元などは、せっかく中国に渡って禅の修行の果てに印可を得たのに、経典はほとんど持って帰ることはなかったりしています。そういうものは時に修行の邪魔にすらなるのですね。
 にもかかわらず、『よくわかる禅宗入門』のような本を作ってしまったのが、この足利直義でした。彼は夢窓疎石を師として招き、足しげく通ってはその説法を書きとどめていたのです。夢窓疎石とてこの若き権力者に禅というものを理解させようと、比較的わかりやすい表現で噛み砕いて説明しました。そして、暫くして足利直義が夢窓疎石に今まで聞いた話を取りまとめたからこれを説法集として出版したいと迫ったのでした。夢窓疎石は呆れかえりながらそもそも禅宗とはそういうものではないと窘めましたが、足利直義があまりにも真摯な態度で許しを請うのでやむを得ず許した、とその本、『夢中問答集』の跋文にあります。書名も極めてストレートです。夢中の『夢』とは夢窓疎石の号からとったものであり、夢窓疎石との問答記録集と味も素っ気もないものになっています。

 しかも、原書は漢字かな交じり文です。夢窓疎石とその後継者達は五山を頂点とする禅林の中で五山文学と呼ばれる極めて難解な文法の中に教義を織り込んでゆくわけですが、夢中問答集は当時の人々とって極めて判りやすく、問答を漢字かな交じりで描写したわけなのですね。考えに考え抜いて自らの仏性に気付くというよりは、言葉を重ねて仏教の全体像の描写を試みた本というべきでしょう。足利直義は、ことごとくあるべき禅宗の姿とは逆の方向に行っちゃってるわけです。

 そういう意味では佐々木導誉や土岐頼遠、巷間言われる高師直等のバサラ振りに一脈通じる所があります。禅宗のパトロンとしては過去に北条時頼がいましたが、足利直義が手にしている権力は朝廷も比叡山も圧倒し、事実上何でもできてしまう状況です。彼がこの後なした興禅のための構想はそれらバサラ大名達よりスケールが一回り大きいのではないか、と思います。佐々木導誉などは判ってやってるし、どこまでやれるか測りながらやっていることがありありと判るのですが、足利直義は時に明らかに暴走しますから、ひょっとしたら素でやっている所もあるのかもしれません。

 無論、この本で悟りを得られるとは足利直義本人すら思ってはいないでしょう。しかし、彼の興禅構想にとってはこのような本は是非とも必要だったのです。そのキーワードは公共事業です。
 豊臣秀吉が天下を取った後、大坂城や伏見城を建てました。徳川家康は江戸城、名古屋城、二条城など天下普請で全国の大名に労働力を吐き出させて戦国の気風を薄めようと試みました。明治の代に入ってからは富国強兵、殖産興業の旗印に八幡製鉄所をはじめとする種々の国家プロジェクトが立ち上げられています。事業を興せば物資が動き、人が動き、金が動いて人々が豊かになります。豊かになれば平和を維持したいという期待が高まり、治安が安定するわけです。これらの例だけでなく、政権交代を行い、自らの権力基盤を強固にするために公共事業を興すことは政治の常道と言っていいものです。
 足利直義にとってもそれは同じでした。この当時、大坂城のような大城郭は存在せず、禁裏は公家の邸宅を間借りさせていれば十分という認識でした。寧ろ、権力を握った上皇は洛外に大覚寺のような大寺院を建ててそこを住まいとしました。すなわち、この時代、金のかかかる建築物と言えば、寺院そのものをさしていたのです。

 しかし、禅宗を興そうとしても彼や兄だけではどうしようもありません。足利尊氏が征夷大将軍になることによって、足利一門はその藩屏として位置づけられるに至ります。とは言ってもついこの間までは下野と三河国に散在する地方の土豪に毛の生えた程度の存在でしかありませんでした。鎌倉期に禅寺を構えられたのは宗家と精々尾張守家(斯波氏)と吉良家くらいで、一門衆には禅を嗜む機会すらなかったのです。
 足利直義は一門衆を手早く禅宗に帰依させて、興禅運動の一翼を担わせる必要があったのです。夢中問答集は悟りを得るために書かれた本ではなく、興禅運動の価値観を手っ取り早く一門内で共有するために、是非にでも作っておく必要のあった書物だったわけですね。

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