« 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑪バタフライエフェクトⅢ | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑬夢窓との距離 »

2014年1月28日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑫合成の誤謬

 合成の誤謬というのは経済学の用語で、複数の利害関係者が個別に最も合理的な行動をとったとしても、結果としては関係者全員が損をしてしまう現象のことを言います。例えば、政府が財政難で増税をしたケースを考えてみましょう。消費者は使える金が税に持って行かれて減るので日用品の購入量を減らすでしょう。すると企業は商品が売れなくなって損をします。購入量が減るのですから、商品を作れば作るほど損が膨らみます。なので設備投資をやめて、人件費を下げたり、投資の為に借りていた金を返済したりします。結果として企業は以前ほどもうからなくなります。すると企業のもうけは減ります。企業のもうけが減ると企業から国家に支払われる税金が減ります。また人件費の削減をされた消費者はさらに所得が減りますが、所得が減れば所得税も減ってしまいます。消費がさらに減れば消費税も思うようにとません。結局増税で国庫を潤すはずが却ってさらに金策を講じねばならない羽目に至るのです。
 足利直義や一門衆も、禅宗勢力も、高師直も、佐々木導誉ら畿内武士団の者たちも征夷大将軍足利尊氏を中心とした幕府の利害関係者であるはずなのに、それぞれが自己の利益を追求した結果、全員が損をする羽目になってしまいました。これが、これからお話しする内容の骨子です。

 僧妙吉は果たした役割が重要である割に、わからないことの方が多い人物です。そもそも妙吉は太平記の中にしか出てきませんし、太平記の中では妖怪にとり憑かれて高師直の讒言をすることになっております。その内容が高師直のキャラクター性を決定づけたりしてるのですね。
「どうしても天皇が必要だと言うなら、木を削って造るか金で鋳るかして天皇をこしらえておけばよいのだ。生きてる上皇や天皇はどこかへ島流しにして捨ててしまえ」
 秦帝国の滅亡をもたらした宦官超高を高師直になぞらえて、彼を驕り高ぶった人物として描写した挙げ句に勤皇精神を否定させてしまったのです。ただ、これは妙吉の讒言の中身であり、実際に高師直が言ったかどうかはわかりません。それこそが、太平記の中にしか書かれていないことなのです。
 ただ、比定される人物はいます。大同妙喆(だいどうみょうてつ)という名の、夢窓疎石と同じ高峰顕日に学んだ僧で足利直義は彼の為に四条大宮あたりに北禅寺(後に安国寺に指定される)を建てて住まわせたそうです。
その後、北山にある如真寺に移り、さらには関東にわたって浄智寺の住持になったと言われます。戦国時代の初期に書かれた鎌倉大草紙(別称、太平後記)には関東下向の原因が高師直に憎まれた為と書かれています。彼が関東に移ったタイミングがどうやら観応の擾乱が起こったころのようなのですね。

 大同妙喆が住んだという如真寺は京都の北側にあり、太平記に書かれる妙吉の為に直義が用意した堀川一条戻橋の寺も方角がやや異なりますが、北側にあります。もっとも堀川一条戻橋って晴明神社のある場所でもあります。狐の子である阿倍野晴明になぞらえて出自のあやしさを強調する悪意が感じられます。また、太平記では通いが不便だから一条戻橋に寺を建てたとありますが、四条大宮(北禅寺のあった場所)から三条坊門高倉邸(足利直義の住居)に向かう方が、一条戻橋や如真寺から通うよりもよほど近いはずです。なので、大同妙喆のプロファイルは妙吉のそれと必ずしも一致しません。
 また、観応の擾乱をきっかけに京を追われた臨済宗の高僧は他にもいて、等持寺の開山となった古先印元などもそうです。彼も1345年(貞和元年)に如真寺にいたという記録(園太暦)があり、1350年(貞和六年)に鎌倉の浄智寺に移っています。そして、二度と京都に戻ることはなかったと言います。

 妙吉は夢窓疎石の弟子なのですから、臨済宗の僧として道号があるはずなのに、それも書かれていない所を見ると、大同妙喆や古先印元らの複数の臨済宗僧をモデルとして作られたキャラクターであると見た方がよさそうです。そして、その複数の僧の中には観応の擾乱を期に京を追われて関東へどころか、人生の舞台からの退散をした、夢窓国師自身ももしかしたら含まれているかもしれません。

 夢窓疎石は一山一寧から得たものは中国の風景への憧憬でした。彼と同時代を生き、同じ学び舎で学んだ同朋、例えば雪村友梅などは実際に元に渡り、黄土の山河を目の当たりにしており、その体験を日本に持ち帰りました。夢窓疎石は一山一寧から受け取ったイメージを日本の風景の中に求め続け、その精華を天龍寺に結晶化しました。その為に足利直義の興禅に手を貸したのですね。それも、本来の臨済宗の教義とはかけ離れた漢字かな交じりの書物を出版してまでです。それだけ、天龍寺には費えを要しました。天龍寺船は元の官憲が取り締まりを緩めた間隙をついたギャンブルでもありました。それに打ち勝ち、財を日本にもたらし、日本の中心たるべき禅宗寺院が出来上がったのです。さらに元との貿易を進め、それを原資に国を安国寺で埋め尽くすこと。その安国寺の威容を天龍寺に匹敵するものに引き上げること。足利の一門衆を全国に配し、安国寺を守らしめ、同時に日本の安寧を保たせしむこと。それらを通して、理想の王国は完成するはずだったのだろうと思います。その第一歩として、足利直冬の長門探題は必須条件であったのでありましょう。

(※園太暦、師守記に妙吉に関する記述はあるそうでどうやら実在したらしいです)

|

« 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑪バタフライエフェクトⅢ | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑬夢窓との距離 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/59013140

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑫合成の誤謬:

« 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑪バタフライエフェクトⅢ | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑬夢窓との距離 »