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2014年1月16日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑦保津川に黄金龍舞う

 大覚寺統は亀山天皇から始まる皇統の一系です。院庁を京都の西側、嵯峨野にある大覚寺に置いたところから大覚寺統と呼ばれるようになりました。その大覚寺統ですが、後醍醐天皇が足利尊氏との戦いに敗れ、吉野に落ち延びます。そして京都への帰還を志した後醍醐天皇は吉野で崩御します。その結果、嵯峨野大覚寺は保護者を失うことになってしまいました。
 そこに目を付けたのが夢窓疎石です。足利直義と諮って後醍醐天皇の菩提を弔う天龍寺という寺院を建てる計画を立てました。もちろん、政治的な意味を考慮してのことです。寺を建てると言っても、それは後醍醐天皇が遷った吉野の朝廷の許可をえたわけでもなく、後押ししたのは足利幕府でありました。別稿で記した通り、建立資金調達の為に、寺社造営料唐船を仕立てております。それだけ資金・資材を必要とするプロジェクトでありました。寺域は現代においても名高い曹源池の庭の借景としている亀山(嵐山公園のある場所)から嵐山電鉄(嵐電)帷子ノ辻駅あたりに至るエリアです。ちなみにそのエリア内に嵐電の駅は嵐山、嵐電嵯峨、鹿王院、車折神社、有栖川、帷子ノ辻となんと6駅まるまる入っております。これは本来大覚寺統所有地でしたが、ここに幕府が寺を建てるということは、大覚寺領を簒奪したに等しい行いであったことでしょう。

 そして、ここにおいても足利幕府は政治的な嫌がらせを試みております。創建当初、天龍寺は創建時は暦応資聖禅寺という寺号とされる予定でした。暦応というのは創建プロジェクトが開始されたの年号をとったもので、もちろん北朝側の年号です。その時南朝は別の年号を使っていたわけでここに後醍醐天皇を祀った寺社を建てるということ自体、南朝の年号には何の正統性もないという主張を天下に示すことでもあるのですね。この寺は建設途上で五山の第二位に指定され、勅願寺にもされ、開山式典には光厳院の臨席も予定されておりました。

 これに反応したのは、南朝ではなく延暦寺でした。その言い分は北朝年号云々ではなく、寺号に年号を使うことを許されたのは歴史上延暦寺のみであったということでした。つまり、先例破りではないかと攻めたわけです。そこを突破口に夢窓疎石の配流を求めて強訴の構えをみせたのですね。
 延暦寺の強訴は段階がありまして、まず寺域にある三つの社に収められている神輿を根本中堂に収めます。そこで要求が聞き入れられないとなると、その神輿を担いで山を下りて洛中御所前に神輿を投げ捨てるのですね。これを勝手にいじると神罰が下ると信じられておりましたので、それだけで都の政務はストップするというシステムでした。もちろん、朝廷から加持祈禱を頼まれても行いません。普通、朝廷はそれだけで音を上げて妥協するのでした。それでもダメなら日頃はライバル関係にある奈良興福寺や園城寺など、旧仏教系の諸寺院と共闘することもあります。
 この時は神輿を根本中堂に収めるところまでやりましたが、幕府も朝廷もその要求をスルーしました。空気を読まずに洛内に等持寺を建て、妙顕寺や本国寺を置いた足利直義です。彼は先に佐々木導誉が比叡山の神獣でもある猿の皮の敷物を用いたパレードをして挑発しても、結局実力行使はないことを見越しておりました。延暦寺は他寺院に共闘をよびかけたようですが、それもあまり効果はなかったようです。

 とはいえ、拳の卸どころに困った延暦寺に足利直義は少しだけ妥協しました。開山その日の光厳院の行幸は取りやめたのですね。それでもその翌日には行幸は実施されておりますが。そして、『暦応』を取りやめました。替わりに用意されたのが『天龍』です。
 『暦応』はその政治的意図が露骨すぎたので、誰もがドン引いたものと思われます。しかし、替わりに用意されたのが、これなのですね。足利直義、えげつないです。その由来というのが足利直義の夢からでした。その夢の内容とは創建中の寺の寺域を流れる大堰川(保津川)に黄金龍が舞い、天に昇ってゆくというものだったと言うのです。龍の夢は吉夢には違いないのですが、それを見たのは天皇でもなければ、将軍である足利尊氏でもない、その弟に過ぎない直義の夢によるものと言うのが、やや腑に落ちないところではあります。

 このことが意味するのは、天龍寺建立の最終的な責任者が朝廷でも足利尊氏でもないということですね。朝廷は比叡山の強訴姿勢に腰が引けて判断を幕府にゆだねておりました。幕府の長は他でもない足利尊氏ですが、ことこのプロジェクトに関しては尊氏が引き受けるにせよ、リスクが残っていたということかもしれません。それにしても、野心的な現実主義者である足利直義に似合わないロマンチックな夢であります。案外、この夢を見ていたのは直義ではなく、足利尊氏の方だったのではなかったか。そんな気がします。

 足利直義がそのリスクを引き受けたわけですが、そのリスクを引き受けてまで行う目的がありました。その一つはここまで述べました延暦寺に対する挑発行動です。延暦寺を挑発し、暴発させ、本来の目的である国家守護の役割から引きずりおろすことにありました。但し、足利直義が執政となっている期間中、朝廷には圧力はかけてもある程度自制した動きをしておりました。しかし、それもまた足利直義や夢窓疎石らのもくろみ通りのことでした。その真の目的とは、国家鎮護の役目を果たさなくなった延暦寺に代わり、それに替わる国家鎮護の寺院を完成させることでした。
 それこそが、天龍寺建立の真の目的であり、その手足として用意された諸国に置かれた安国寺と利生塔であったわけです。

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