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2014年1月 2日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅰ①都市計画上の洛中と洛外

 本稿では、洛中に幕府が開かれた後の歴史を追ってゆくわけですが、その第一の中心人物となる夢窓疎石と足利氏による新たな宗教秩序を語る前に、室町時代以前の京都の情景を素描しておきます。
 現代の京都の街を散策すると、お寺さんの数の多さを感じさせられます。太平洋戦争末期において、大日本帝国の主要都市はことごとく、米軍の空襲にさらされました。その中で京都市内が米軍の空襲を免れたのは日本文化の伝統寺院を数多く擁していたからだそうです。そんな歴史ある京都の寺院ではありますが、京都の大寺の多くはもともと、平安京の条坊の中にはほとんど作られませんでした。本稿でいっている条坊の範囲は、北は一条大路から南は九条大路、東は東京極大路から西は西京極大路にあたるエリアです。東京極大路は現在はその名を冠する通りはありませんが、概ね寺町筋と新京極商店街あたりになります。内裏は北辺の一条大路に接して南は二条大路、東は大宮大路、西は西大宮大路(現在の御前通り)に渡る現在の京都御所よりもやや西南にずれたかなり広い領域がとられておりました。その中央を南北に朱雀大路(概ね千本通りが該当)が貫き、九条大路との交差する場所(千本九条)に羅城門が作られたといいます。その門を守護する為に門の両側に東寺と西寺が作られたというのが、都市計画上の平城京です。平城京の西半分は湿地帯であったために、住居としては不適格とされ、西寺はまもなく廃絶しますが、東寺は空海に譲られて真言宗総本山となりました。これと、阪急電鉄大宮駅からほど近いところにある律宗大本山の壬生寺がありますが、鎌倉期以前に平安京の条坊内に建立された寺院はあまりありません。

 ご存知の通り、奈良時代に作られた都においてはいずれも仏教寺院の影響力が大きかったためと思われます。桓武天皇が山城国に平安京を作ったのは仏教寺院の影響力から逃れたいという欲求に基づくものでした。故に、平安時代初期において最澄や空海の系統の仏教は重用されましたが、その根拠地となる寺社が平安京の条坊内に置かれることはいつくかの例外を除いてありませんでした。

 平安時代から鎌倉時代にかけて、京の大寺は概ね、加茂川の東側である東山か、洛西に作られております。先に述べた比叡山延暦寺はもちろん、法然や親鸞の廟所であった、知恩院や大谷本願寺、初期の仏光寺、金戒光明寺などの浄土系の寺は比叡山延暦寺の門跡である青蓮院の傘下にあって、東山に置かれました。西山派浄土宗の本山である光明寺は洛西方向にあります。禅宗にしても、東福寺、建仁寺など鎌倉時代に建てられた寺は東山に、道元が京に滞在中に興した興聖寺は洛南にと、いずれも条坊の外に建てられていました。
 平安期の花山天皇は妻の死を悼んで出家をしましたが、その得度は洛外の山科にある元慶寺(花山寺)です。栄華を極めた藤原頼通がその材を投じて作った平等院は宇治にありました。摂関家の全盛期が過ぎて引退した天皇が上皇として院政をしきました。最初に院庁を開いたのは白河法皇であり、その場所は岡崎であり、後にその近隣の後白河法皇も三十三間堂に院庁を置いております。また鳥羽法皇は鹿ケ谷に院庁を開いています。いずれも、洛外にありました。法体である以上洛内には住めないという不文律があるようです。院政に派生して生まれた平氏による武家政権も院庁のある東山に移ることになります。平清盛の館は六波羅におかれました。それは鎌倉期に入ってからも変わらず、朝廷を監視するためにおかれた六波羅探題は清盛館の跡地にあったわけです。さらに悪いことに鎌倉期には洛中に大火が続いて内裏も炎上し、天皇は有力貴族の邸宅を借りてそれを仮の内裏としました。これを称して里内裏といいます。
 後嵯峨上皇の時に皇統は大覚寺統と持明院統の二つに分裂しましたが、大覚寺は嵯峨野に、持明院は上京にある寺社でした。それぞれがそこに院庁をおいて、里内裏の天皇をバックアップしていたわけです。もちろんどちらも条坊の外におかれておりました。これほどさように政治の中心地は洛中から洛外に移っていたわけですが、これを引き戻したのが後醍醐天皇でした。後醍醐天皇の即位時に大覚寺で院政をしいていた後宇多法皇は後醍醐天皇の里内裏である富小路殿の近隣の常盤井殿を院庁としました。常盤井殿は富小路殿のすぐ近隣にありますが、東京極通りに接して東側にあります。ギリギリ洛外なのですね。按ずるに寺は死後の福を祈る場所であり、死の穢れを恐れた結果、そのような不文律が出来たのではないかと思います。ただし、それはあくまで平安京の歴史と伝統が生み出したもので、それはなかなか目に見えにくいことでもあったのです。

 それをひっくり返したのが足利尊氏と直義の兄弟でした。本稿においては、足利幕府が義満の代に室町に移る以前に、三条坊門殿にあった幕府について取り扱います。それは洛内寺院興隆の切っ掛けとなり、併せて中世の宗教秩序の新たな転換期となった事件でもあったのです。

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