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2014年1月 4日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅰ②洛中寺院前史

 前稿にて京の条坊には寺はあまり建てられなかったと書きましたが、その例外をいくつか拾って傾向を見ようと思います。調べた範囲なのでほかにもあるかもしれませんし、他にも中世から近世にかけて廃寺になった古代由来の洛中寺院があったかもしれません。そのあたりはおいおい調べてみたいと思います。

 最初に取り上げるのは東寺。そもそもの平安京造営時の計画に盛り込まれていた寺院で、朱雀大路(今の千本通り)の南端、羅城門の両脇に設けられた二つの寺院のことです。東側に建てられたのが東寺、西側に建てられたのが西寺といいました。ともに真言宗寺院です。西寺が建てられた右京(平城京の西半分)は桂川流域の湿地帯であり、住居とするには不適でした。また東寺に対して歴代天皇や室町将軍の庇護があったのに対して、西寺はそれほど手厚く保護されていなかったため、戦国時代の戦乱のさなかに廃寺となってしまったようです。一応大永年間(1520年代頃)までは存続していたという記録が残ってます。

東寺は 金剛峰寺と並んで空海が開いた真言宗の総本山の一つです。密教習得の為に唐留学から帰国した空海は、朝廷の命によって学習成果を本邦に移植すべく国内の適地を物色します。その結果、紀伊国の高野山を選んだのです。深山幽谷もいいところです。彼らの持ち帰った仏教(特に密教)は修行によって解脱を求めることが目的の宗教ですから、俗世の欲に影響されない隔絶された場所で思いっきり修行三昧することを理想としていました。だから寺院の立地は深山幽谷になってしまったわけですね。

 留学僧としてはすでに最澄が帰国して平安京の北、比叡山に延暦寺を建てていたわけですが、空海が建てたこの金剛峰寺は空海にとっての理想形であっても、スポンサーである朝廷のニーズに必ずしも一致してなっていなかった訳です。そもそも平安京は平城京においては仏教勢力が強すぎるのを嫌って彼らの影響力を廃したところに新しい都を建てたかったことに端を発するわけではありますが、国政に役立つ形で仏教を活かしたかったのですね。そもそも、この時代には科学はありませんでした。科学無き世の智慧の体系として仏教は存在していたわけです。桓武天皇や嵯峨天皇は現代でいうところの科学者を唐に送り込んで国家と宗教の理想的な関係を学ばせ、移植しようと思っていたわけですね。ところが、最澄の実質的な留学期間は一年も満ちておらず、到底密教の奥義を学び尽くせているとは言えない状況であり、密教をみっちり学んだ空海に高野山の山奥に引きこもられてしまっては、唐に送り込んだ意味はなんだったのかということになります。最澄もまた、唐で学んできた学業の完成の為に、空海を必要としておりました。ということで嵯峨天皇が洛内に空海の為の寺地を与えたわけです。
 東寺の正式な寺号は教王護国寺といいます。王、すなわち天皇を仏道へと教え導き、併せて国を守護する寺院なのですね。東寺は西寺と並んで朱雀大路の南端の羅城門の両側にあります。朱雀大路の北端に大内裏があります。つまり、東寺から最も離れたところに大内裏が置かれたわけですね。東寺の他にも延暦寺や将軍神社など、都を守護するための施設が洛外に建てられていました。
 都を訪れる使節はまず、都に南面する羅城門に入り、そこから朱雀大路を北上して大内裏へと向かうことになります。都に入って初めに目にするのが、東寺であったわけですね。東寺の敷地は広大な面積が割り当てられていました。東寺は清和源氏の帰依を受け、源義家系の源氏の家計は概ね天台宗をおおもとの宗旨としておりました。多々良ヶ浜、湊川の戦勝の勢いをかって京に入った足利尊氏が洛中制圧の為にこの東寺を拠点としたのは、足利尊氏の祖先の宗旨が真言宗であったことの顕れであったわけです。

壬生寺
  阪急電車四条大宮駅を西南に下ってすぐの所に壬生寺があります。991年に三井寺快賢僧都が建立ということになってますが、実質的には霊験あらたかな地蔵像がそこに祀られていたことに端を発します。三井寺は正式名称を園城寺といって、天智朝の大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うために彼の遺児与多王が興したものという伝承があります。これが朝廷から延暦寺第五代天台座主円珍に下賜されたことにより天台門下に入りました。この円珍の教学は延暦寺の教学を実質的に定めた第三代天台座主円仁のものとは少し外れた部分がありました。違いをわかりやすく述べますと円仁の教学においては顕密兼学が推奨されていたのですが、円珍はこれに修験道を加えたのです。それ以降天台宗は円仁系と円珍系でそれぞれ派閥を形成して対立するに至ります。壬生寺の元となる地蔵像が円珍派の快賢僧都の手で安置されたのがこの頃です。その二年後に延暦寺において円仁派と円珍派の抗争が勃発します。円仁派が円珍派僧侶の僧坊を焼き討ちしたのです。これにより、両者の対立は決定的になり円珍派は比叡山を降りて三井寺を拠点とした天台宗分派として活動するようになります。一般に延暦寺を拠点とする円仁系の天台宗を山門、三井寺を拠点とする円珍系の天台宗を寺門といい、山門・寺門の天台宗内部の対立は熾烈を極めたと言います。
 この対立につけ込んだのが白河天皇です。上皇になって後、彼は延暦寺のことを「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と鴨川の水、賽子の出目になぞらえて天皇の権力でもどうにもならないもの、と述懐しましたが、彼は三井寺に肩入れしておりました。快賢僧都が建てた地蔵像の霊験があらたかで、庶民の信心を集めていると聞きつけて、ここに地蔵院という院号を下賜して寺院としての体裁を整えました。その後、一旦壬生寺は廃れます。白河法皇が述懐した通り、天皇の権威をもってしても比叡山延暦寺はコントロールできず、それに対立する三井寺系列の洛中寺院に十分な保護を与えられなかったということでしょう。
 1300年に律宗の円覚上人がここを復興します。彼はここを舞台に大念仏会というイベントをプロモートします。これは仏教の教えを民衆向けに当時流行していた狂言風の無言劇アレンジして公開したのです。この出し物はあたり、壬生寺は多くの信者を得て復興を果たしたそうです。そのイベントは壬生狂言と呼ばれて現在も行われているものです。幕末になって新撰組がここを屯所としたこともこの寺院の売りではあるのですが、それはさておき、壬生寺が寺としての体裁を整えられたのは白河天皇の保護があったことにあります。洛内に寺を構えるには天皇の許可を得るというプロセスが必要だったという意味では東寺と同じです。

 991年 三井寺快賢僧都が建立。
 993年 比叡山で円仁派と円珍派の抗争。円珍派、比叡山を離れ三井寺に入る。
 1077~80承暦年間、白河天皇の行幸。地蔵院の号を下賜される。
 1300年円覚上人が復興。律宗に改宗

清浄華院
 せいじょうけいん、と読みます。現在は浄土宗七本山の一つとして上京区寺町広小路、つまり『都市計画上の洛外』にあるのですが、創建当時は洛中というか御所内に建てられた寺院です。禁裏の中ですから当然、発願は天皇ということになります。時に860年(貞観二年)清和天皇の勅願時として天台宗第三代座主円仁が創建しました。目的は祈祷などを行って御所内の清浄を保つ儀式を行うことにあったそうです。なのでその成り立ちは官寺ということになります。鎌倉時代に入って浄土宗を開き比叡山延暦寺を降りた法然は禁裏で布教をします。その相手は後白河天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇の三帝であり、受戒までしたわけですね。受戒の為に滞在をゆるされたのが、本来皇室御用達の禁裏道場であった清浄華院だったわけです。

 法然にはその縁によりこの禁裏道場を与えられるわけです。しかし浄土宗はそれを異端と見なした叡山と帰依をうけた後鳥羽天皇によって弾圧されてしまいます。その結果法然その人も、俗人に落とされて讃岐に流罪になってしまうわけです。しかし、法然を含め法然の弟子たちは延暦寺との縁も深く、延暦寺自身も必ずしも一枚岩というわけでもなく、結果として弾圧をはねのけてしまいます。
 1287年(弘安十年)鎮西派弁長の孫弟子にあたる証賢が亀山法王第七皇子恒明親王、全仁親王の庇護のもと、清浄華院を二条万里小路に再興します。その後三条坊門高倉の土地を譲り受けたり、土御門烏丸に移ったりしましたが、戦国時代の終わり頃、豊臣秀吉の京都大改造に伴って、条坊の外、寺町広小路に移されて現在に至ります。東寺にせよ、壬生寺にせよ、洛中に寺院を開くことができたのは歴代天皇によって認められたということがポイントではないかと思われます。
 この清浄華院が三条坊門高倉に土地を持っていた話については、建武の親政とその崩壊に絡めてユニークなエピソードがあります。多少推測を交えて話を膨らませることになりますが、お付き合いいただけましたら幸いです。

860年(貞観二年)清和天皇の発願により、円仁が創建。
1175年(承安五年)法然、ここを拠点に後白河、高倉、後鳥羽天皇に教えを説く。
                  のち、後白河天皇より清浄華院を下賜される。
1287年(弘安十年)鎮西派浄土宗の浄華坊証賢、亀山法皇第七皇子恒明親王及びその子全仁親王の
                  庇護により清浄華院を二条万里小路に移す。
             この頃三条坊門高倉にあった専修院が専空より譲られ、ここを浄華院と号したともいう。
1336年(建武三年)浄華院、後土御門室町に移る。

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