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2014年1月21日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑨バタフライ・エフェクトⅠ

 世の中、一寸先は闇と言います。我々はちょっとした未来をも見通すことはできないという戒めです。1347年(貞和三年)時点の南北朝の戦力差は絶望的に開いておりました。しかし、ここで楠木正行が行った文字通り身を捨てての死に狂いの抵抗が結果として足利幕府の内訌を生み、足利直義と夢窓疎石の安国寺構想を粉砕したと言い切ってしまうことは、春秋の筆法に過ぎるというものでありましょうか。

 1347年(貞和三年)、楠木正行は河内国で挙兵、紀伊国隅田城、河内池尻、八尾城を転戦し、九月十七日には藤井寺で細川顕氏の軍と衝突し、これを撃破しました。とはいっても、楠木軍は七百騎と小勢もいいところで、細川軍三千と楠木軍の戦力差は四倍以上までにも開いていたそうです。楠木正行はこれに奇襲でもって対抗したわけです。細川軍は和泉国守護と言っても手勢は四国遠征で征服した土地からかき集めた者達で構成されており、精鋭化されてはおりませんでした。地の利を得ており、楠木正成・北畠顕家の死後、十年以上の安寧を得ていたこの土地で鍛えた兵の練度で勝っていた楠木正行が勝利したのです。
 この事態に足利直義は同じく一門衆の山名時氏を援軍に加え、先の戦力を倍にした兵六千を細川顕氏に与えて再戦を命じます。ここで山名・細川軍は兵力の運用に致命的な失敗を犯します。折角の大兵力を天王寺と住吉に陣地構築の為に分散させてしまったのですね。そして山名時氏は千の兵をもって楠木軍の主力を迎え撃たんとさらに住吉南方の瓜生野にまで進出します。楠木正行は自軍を集中させ二千をもって対抗しました。先の先勝で動員兵力があがったようです。山名時氏はこの戦いで負傷し、戦線が崩れ、山名軍は天王寺に向けて敗走します。楠木軍は騎虎の勢でこれを追い散らして、立て直しの余裕を与えませんでした。
 天王寺には二千の兵がいて、楠木軍に十二分に拮抗できるはずでしたが、敗残兵に浮き足立ち、また天王寺は背水の陣でもありました。それでもここに陣を敷いたのは寺域・神域で敵兵も攻めにくいだろうという判断があったのですが、最前線から攻め上げてくる楠木正行の勢いに戦争どころではなくなり、パニックに陥ってしまいました。天王寺の細川軍は戦うこともなく、撤退。その際、淀川にかかる橋は小さく兵が渡りきれずに川に落ちたりして甚大な損害を出したとも言われております。楠木正行はそんな敗残兵を助けて食料や馬も補給した上で京に帰してやるという仁将ぶりを発揮したとも言われております。

 二度にわたる幕府軍の敗退は予想外なものでした。それでもなお戦力差は圧倒的でしたが、このまま手をこまねいていることはあり得ませんでした。というのは、鎌倉幕府が滅亡した時と状況がかぶっているからです。鎌倉幕府は軍も政治も掌握しておりましたが、天皇が反幕府に蜂起し、小勢のゲリラ軍が倒せない状況のまま手詰まりとなってさらに蜂起の連鎖を呼び込んで滅亡に至ったわけです。
 発足間もない足利幕府は北条政権よりもなお、政権基盤がぜい弱でした。それ故手段を選んでいる余裕がありませんでした。差し向けたのは足利尊氏直属の主力軍。率いるのは足利家執事、高師直です。その数ざっと六万。前回の十倍の軍勢でした。これに対して楠木正行は必死の抵抗を試みますが、衆寡敵せず四条畷で討たれてしまいます。高師直はさらに軍を吉野に進め、これを焼き払いました。南朝は吉野からさらに山奥の賀名生に逼塞するに至ります。
 足利幕府軍の完勝でした。しかし、それに至るまでの勝ち方が幕府の権力構造に大きな亀裂をもたらすこととなったのです。そのあたりを理解するにはまずは足利幕府の権力構造を理解する必要があります。

 三条坊門高倉邸に開かれた幕府の中心人物は言わずと知れた征夷大将軍の足利尊氏ですが、政権奪取後の彼は遁世を決め込んで政務にはほとんどタッチしなくなりました。その面を補ったのが副将軍である彼の弟足利直義です。彼は兄に代わって政務だけではなく、一門衆の束ねも司っておりました。但し、そんな足利尊氏も軍権だけは直義に譲ってはおりません。その軍権を代行させていたのが執事である高師直だったのです。

 高師直は毀誉褒貶の大きい人物ですが、その原因の第一は足利家中にあって足利一門ではなかったこと。第二は彼には足利一門衆と畿内近辺の武士団との調整役を担わされていたこと。第三はその畿内武士団の長には佐々木導誉、土岐頼遠、赤松円心等、名うてのバサラ大名達がいたことです。高師直自身にも塩谷判官高貞の妻にふられた腹いせに讒言で粛清したり、天皇や上皇を島流しにして御所には木像を安置してそれを奉ずればよいなどの暴言があったりしますが、それらのエピソードはほとんど信憑性がありません。塩谷高貞が粛清されたのは事実ですが、その動機が塩谷の妻に懸想したからというものは、太平記などの物語以外にはなく、木像一件にしても反高師直派が彼を貶める目的で政敵から言い立てられたものでそれが事実として確認できるものはないのですね。では、なぜ彼がそれほどまでに貶められなければならなかったか、それを次稿で述べてみたいと思います。

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