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2014年1月 7日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅰ③専修なる寺号

 法然は浄土宗を開き、数多くの優秀な弟子たちを育てました。その中でも一際異彩を放っていたのが親鸞です。法然は博覧強記の人でした。比叡山にある豊富な仏典を研究し尽くした結果、聖道門という修行による解脱の道の他に浄土門という阿弥陀仏の他力本願による解脱という道もあることを見出したのです。親鸞は法然の説く浄土門とは何かを研究し同時に実践した人でもありました。親鸞は法然と同じ時期に弾圧を受けて俗人に落とされたうえで越後国に流罪になりましたが、許された後も僧に復帰することを潔くせず、自らを愚禿(おろかなるはげ)と呼んだのです。しかも彼の代表的著書である歎異抄にはもし、浄土門なるものがなく、自分が師である法然に騙されていて結果として無間地獄に落ちたとしても後悔はしないと宣言した大変人間味あるキャラクター性の持ち主でした。流罪が許された後も、すぐには京には戻らず関東で布教を行った後、京都に帰って亡くなりました。彼は師である法然の傍に葬られましたが、結局親鸞の弟子たちは他の法然の弟子たちとは同調せず、自ら親鸞派浄土宗を任じて分派しました。これが浄土真宗です。親鸞の弟子筆頭の真仏は関東を拠点としました。浄土真宗の関東における拠点は高田専修寺です。専修寺なる寺号は専修念仏からきているのでしょう。浄土門の教学の根本をなすものです。それだけに、浄土真宗にとって『専修』なる号は大変重要なものでもありました。
 親鸞の墓は京都東山大谷にあります。浄土真宗教団はここに師を偲んで廟堂を建て、教団の共同管理体制を敷きました。管理人には親鸞の血族をおいて管理させました。後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して倒幕運動を繰り広げていたころ、大谷の廟堂を管理していたのは覚如という親鸞の曾孫でした。親鸞嫡系というわけではないのですが、親鸞の直系の孫如信から大谷墓所の管理を覚信尼(如信の叔母、親鸞の娘)に任されその孫にあたります。墓所管理の役目も父覚恵が一時叔父唯善に奪われるなどして大変だったようです。その係争中に覚恵が亡くなりますが、その子覚如が大谷墓所を相続する為に、覚如は唯善を廃し、墓所を統括する妙香院門跡(青蓮院門跡が兼務)と浄土真宗教団を統括する東国門徒衆を説得せねばなりませんでした。
 1310年(延慶三年)覚如は大谷墓所の留守職継承を認められます。それとともに立場の強化を図ろうとします。すなわち、それが大谷墓所の寺院化でした。それは1312年(応長二年)に覚如は専修寺なる寺号を大谷墓所に掲げ、寺院化を宣言します。これがうまく行けば後の本願寺は大谷専修寺として認知されていたことでしょう。ところが、これは比叡山延暦寺の強硬な反対にあって扁額撤去を余儀なくされてしまいました。

Photo

 親鸞の墓所は天台宗の門跡の一つである妙香院門跡が管轄する土地にありました。専修とは一向専修の一部をなす言葉で念仏だけをひたすら修行することになります。天台宗は日蓮が叡山は濁れる山と評したとおり、法華経しかやらない、浄土教しかやらないといった他を排して一つの教学に専念するというスタンスは取りません。法然たちの活動に専修による弊害があると感じたから、朝廷に働きかけて法然や親鸞を流刑に処したわけです。その管理下にある元流罪人の墓所に「専修」寺なる寺号を許せば、親鸞流罪は誤りであったことを自ら認めることになってしまうからです。覚如はこの過激な専修の寺号を掲げることを諦め、ほとぼりがさめるのを待ってから墓所を寺院化することにしました。さすがに専修寺の寺号を使うことをはばかったわけですが、これが大谷本願寺の始まりです。ところが、この大谷本願寺は創建草々戦火に焼かれてしまいます。
 時に、1336年(建武三年)の頃です。湊川で楠木正成を屠った足利尊氏は京に侵入します。後醍醐天皇は比叡山延暦寺に籠もって抵抗しますが、京の街は戦火に覆われます。そのあおりをくって大谷本願寺が炎上するのですね。覚如はこの焼けた本願寺を復興する為に奔走するのですが、その手を貸したのが下野国高田の専修寺でありました。浄土真宗の租である親鸞が京の大谷に葬られていると言っても、教団の中心は関東にありました。この高田専修寺はその関東門徒の束ねであったわけです。時の住持であった専空は覚如の為に、洛内他所から堂宇を調達して大谷本願寺に運び入れて復旧させたそうです。

 京には寺はほとんど建てられていなかったわけですが、この専空の堂宇がどこにあったかのか考えるヒントがあります。その当時、三条坊門高倉に清浄華院があり、ここを拠点に浄土宗鎮西派一条流の証賢が布教活動をしておりました。ここにはもともと『専修院』寺院というものがあったと言われるのですが、証賢が清浄華院を二条万里小路に再興した後に、三条坊門高倉の専修院の土地も譲り受け、証賢はそこをもっぱら拠点として活動していたそうです。(註1)

 その清浄華院の隣に足利尊氏・直義兄弟の三条坊門殿がありました。足利軍の再上洛で政権奪取をした折に三条坊門殿が拡張されて、清浄華院は土御門室町に移転させられるわけですね。足利尊氏は先に述べたとおり、その一方で覚如の大谷本願寺を焼いておりました。清浄華院の移転先である土御門室町は亀山天皇皇女・昭慶門院の御所跡を寄進されたものでした。ですので、寺院の建物を移築する必要はありません。とするならば、専修寺の専空が移築した堂宇は三条坊門高倉にあった清浄華院のものであったのではないか、と考えられます。
 私はこの専修寺が①洛中に寺院を持っていたこと。②そこが延暦寺を刺激する『専修』なる寺号を掲げていたこと、の二点について奇異に感じていました。この点は今後も検討してゆきたいと思います。(註2)

お詫びと訂正:
(註1)
三条坊門高倉専修院を元々持っていた所有者は専空といい、私はこれを高田派の専空と思って当初記事を書いておりましたが、これは別人であり同名の証賢の兄弟弟子(然空の弟子)との指摘がありましたので、文言を修正させていただきます。
 

元文言
ここはもともと高田の本寺の拠点『専修院』というものがあったと言われるのですが、証賢が清浄華院を二条万里小路に再興した後に、専修寺の専空が三条坊門高倉の専修院の土地を証賢に譲渡し、証賢はそこをもっぱら拠点として活動していたそうです。(註)

 

(註2)
上記により元文書の下記引用個所は意味をなさなくなりましたので、削除しました。
 

元文言
中世における所有権は現代とは異なり曖昧なものであり、専空も証賢も存命であったとすれば、移転の際に両者が話し合い専空が堂宇を引き取ったということはありうる話でしょう。さらに言えば、もともとそこには『専修院』なる寺院は存在せず、高田門徒の武家の所有する土地があり、そこを専空と証賢の合議で清浄華院の為に提供されたのかもしれません。大谷本願寺の覚如からみれば、それは専修寺の専空から送られたものであった為、復興された堂宇の元を『専修院』と認識し、記録したのかもしれません。かように考えれば、この二つの奇異な点の説明はつくと思うのですが、いかがでしょうか。

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コメント

こんにちは、初めまして。清浄華院の調査をしている者です。
面白いご指摘ですね。私もこの件について調べておりましたのでいろいろと。

 まず第一に、清浄華院の文書に出て来る「専空」と高田派第四世の『専空』(ややこしいので以下カッコで区別します)はおそらく同一人物ではありません。専修院「専空」については伝記がほとんど無いのですが、いくつかの浄土宗の譜脈によれば證賢こと向阿(證賢という名乗りは自筆文書に出てこないので私は使わないようにしています。以下向阿と表記します)の兄弟子であったとされています。そして清浄華院文書の乾元二年(1303)「専空譲状」によると、「専空」は「病床」のため三条坊門高倉にあった専修院を向阿に譲ったとあり、字も震えていて(現存文書は写しと考えられていますが)、おそらく高齢で死期を悟っての譲渡だったと考えられます。一方高田派の『専空』正応五年(1292)に生まれ康永二年に五十二歳で示寂しています。
 「専空」は12歳で既に一寺院を「進退」し、「病床」のため向阿に専修院を譲ったことになります。ちょっと考えにくいですよね。
 ちなみに向阿に譲られた専修院はその後もしばらく同名で存続し、いくつかの史料にその名が出てきます。それによると専修念仏院というのが正式名称だったようです。
 いろいろ考え合わせてみますと、三条坊門高倉専修院の「専空」と、高田派『専空』が同一人物であるという前提がまず間違っているのではないかと思います。

 三条坊門高倉の専修院が高田派専空の拠点だったと明記したものはみた事がないのですが、断言なさっている典拠は何かあるのでしょうか? 確かに三条坊門高倉にあった専修院の周辺に親鸞聖人の示寂の地「善法院」があったようで、南北朝時代の当時までなにか堂舎があったかもしれませんが、善法院の位置は万里小路東富小路南とか三条富小路などと言われていたと思いますので、隣の坊とはいえ離れています。

 ちなみに『三井続灯記』によれば向阿は建武3年(1336)に亡くなっています。貞和元年(1345)とするものもありますが、建武3年に弟子玄心に本尊譲状を渡しており、また暦応二年(1339)「中院一品記」に「故向阿上人」と書かれてますので、おそらく『三井続灯記』の記事が正しいとされています。
 
 あと「中世における所有権は現代とは異なり曖昧なもの」と仰ってますが(仮定のお話でしょうか)、そんなことはありません。むしろ土地所有に関してはかなり厳密なものがあったようで、後で揉めないように、土地の元所有者と現所有者がしっかりと書面を交わし、さらには以前の所有者についての記録(次第文書)を引き渡す事になっていたようです。書類はどうしても散逸しますので、現代から見るとよく分からないだけです。

 それから、清浄華院が移転した時期は所説あるのですが、暦応元年(1338)頃と考えられます。これは等持寺創建のためとされていますが、清浄華院にほぼ隣接する尊氏邸が建武三年正月に富小路内裏を焼いた火災に類焼しており、もしかすると清浄華院も一緒に焼けたのではないかとも考えられています。この説を採るなら、三条坊門高倉の専修院が大谷へ移転した、という事はなくなってしまいます。
 
 と、いうことで、三条坊門高倉の専修院が高田派『専空』によって大谷に移転したというのは考えにくいことだと私は思っております。

 ただ、仰るように「専空」の専修院と『専空』専修寺というのは余りにも近しく、同時代でもありますし、大変面白い指摘だと思います。いろいろと調べていけば、今後何か分かることもあるのではないかとも思っています。清浄華院は存覚も日記にも登場しますし、浄華院に渇食に入っていた蓮如の次女・見玉尼の例もあるように真宗と近しい(というか鎮西派でめぼしい寺は浄華院しかなかった)寺ではあったようです。

 私も興味があったことなので、長くなりました。またご教授下さい。

投稿: 日誌要員 | 2014年1月 8日 (水) 20時17分

日誌要員様
いらっしゃいませ。色々ご教示ありがとうございます。どうやら粗忽な立論をしてしまったようです。今一度典拠とした史料を確認の上フォローいたします。今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: 巴々 | 2014年1月 8日 (水) 22時52分

 日誌要員様のご指摘の点、私の勘違いでございました。先に暦応年間に高田派の専空が大谷本願寺の再建をした話が頭にあって、三条坊門の専修院という寺院を向阿(證賢)に譲った僧の名が専空と聞いて単純に同一人物であると思い込んでおりました。1303年(乾元二年)付の向阿(證賢)宛の譲り状が存在しているのであれば仰せのとおり高田派の専空であるとは考えにくいですね。改めてこの認識に基づき、文言の修正を入れさせていただきます。

 中世の所有権についてですが、現代の所有権では所有物をいかに処分しようと所有者の自由ではありますが、例えば、主従関係にある者が領地や宝物を主君から拝領された場合、これを主君の同意なく勝手に処分することは不可とされ、管理が悪い場合は主君に召し上げられたという話を聞いておりました。(たとえばこれは近世の事例ですが、主君拝領の紋付羽織は家が貧乏でも質入れ出来なかったとかいう類の話です)併せて中世の税制は一つの土地に荘園主や武家、寺社などが有する徴税権が入り組んでおり、それが近世になって検地の実施で一本化されたと高校日本史で習った話をイメージしておりました。
 高田派の専空は大谷本願寺のための堂宇を三十六文貫で売得しておりますので、管理不行き届きによる召し上げというケースに当たる物ではないのですが、もし今回の記事通りに三条坊門高倉の寺院の移転を足利尊氏に命ぜられた時に、堂宇処分の優先権を高田派の専空が得ることができたかもしれないという着想から記事を書きました。また、大谷本願寺の堂宇が三条坊門高倉専修院の堂宇かもしれないというのはあくまで推測であり、何らかの証拠に基づくことではありません(為念)。

 その他、向阿(證賢)の没年などの御指摘、大変勉強になりました。大谷本願寺は本来であれば専修寺を名乗りたかったのですが、延暦寺の妨害で果たせませんでした。それは単純に大谷廟堂が妙香院門跡の支配下にあったためで、支配外の三条坊門高倉専修院はスルーということなのか、などの疑問が残ります。(その割には1352年(文和元年)に仏光寺などには延暦寺は祇園社の犬神人などをけしかけていたりします)あるいは、専修院という寺号はあくまでも、文書にしか残っていないものでオフィシャルな呼称ではなかったかもしれないとか、想像は尽きません。
 今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: 巴々 | 2014年1月11日 (土) 19時27分

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