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2014年2月27日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑤玄恵は何でも知っているⅠ

 前稿にて、足利直義が後醍醐天皇の七回忌を天龍寺で執り行ったことを佐々木導誉の視点で紹介しました。足利直義は延暦寺を中心とした宗教秩序に風穴を開けて、そこに臨済禅を押し込みましたが、彼の治世は興禅活動にのみ費やされていたわけではありませんでした。洛中に日蓮宗の寺社を引き入れ、第二天台の礎を築きました。この試みは一応成功して、以後洛中の町衆に日蓮宗が受け入れられてゆく下地を作ったわけです。さらにそれだけではなく、統治理論として積極的に取り入れた学問がありました。それは儒学、より正確に言うなら朱子学です。足利直義に仕えた玄恵法印が洛中幕府における興学に寄与いたしました。本稿においては、彼について扱わせていただきます。

 玄恵は出自についてもわかっていない人物です。但し、その学識は儒学、漢詩に優れたものを見せ、禅林や公家衆との人脈も広いものでした。論語に象徴される儒学そのものは、紀元前の孔子に端を発する政治の心得であり、それに中国の民俗習俗が結びつき、漢族のエスニック・アイデンティティを形成します。宋代にはそれが洗練されて学問となり、官吏になるために身に着けなければならない必須教養となりました。それが科挙です。宋は経済力はあったものの近隣の大陸諸国より軍事力に劣っておりましたから、金や元に領土を侵され、滅亡するに至ります。その過程で儒学は憂国の色彩を帯び、尊皇攘夷すなわち、皇帝を尊び、夷を攘(はら)う思想が織り込まれました。これが朱子学・宋学と呼ばれるものです。
 儒教そのものは朝鮮半島経由で古事記の時代から我が国に伝えられておりました。律令時代においては、大学寮において儒学は明経道と名を変えて研究されたりしましたが、それほど重要視はされておりませんでした。
 宋学が入ってきたのは鎌倉時代になって、入宋した留学僧や宋から渡来した中国人僧の出入りが多くなってきてからです。その中には円爾弁円、一山一寧など臨済宗の大物達も含まれており、五山においても、禅と一緒に研究されておりました。玄恵は多くの五山僧との交流があり、宋学はここで学んだものであったようです。

 玄恵の儒学に関する学識を示すものとして、太平記における、正中の変において、後醍醐天皇の意を受けた日野資朝が討幕の為の作戦会議を行うために、サロンを作ってそこに玄恵を招いて儒学を講じさせたというエピソードがあります。一部にはこれをもって、玄恵が後醍醐天皇に『仕え』て、儒学的な一君万民ヴィジョンを勧めたなどと解釈する人もいるらしいのですが、とりあえず玄恵が後醍醐天皇に仕えたという事実を示す資料はありません。
 もっとも、これが根も葉もない話かと言うとそうでもなく、花園天皇宸記1319年(元応元年)閏七月二十二日の条には、玄恵と日野資朝らが花園上皇の御簾前で論語を語り合ったとの記述があるのです。ただ、花園上皇は持明院統であり、大覚寺統の後醍醐天皇からはやや遠い存在です。
 太平記にしても、謀議の主役たちは別にいて、玄恵はそのカモフラージュに使われたことになっておます。そのカモフラージュとして用意された儒学テキストの内容に不吉なものが含まれていたので、サロンから追い出されたというオチがついているのですね。そのテキストの内容には仏法を廃して儒学を尊ぶことを皇帝に奏上したために、流罪になった男の話でした。事破れて辺地に流されることが、陰謀者たちの心の琴線にふれてしまったわけです。判っていれば、あらかじめ内容に手心を加えますよね。なので、太平記における無礼講の秘密サロンにおける玄恵の役割はカモフラージュのために雇い入れた外部講師の役割を出ていません。
 ともあれ、玄恵は上皇の御簾前で儒学を講じるだけの学識(もしくはコネクション)を持った人物であったことは確かです。

 そんな玄恵の儒学の知識は建武の親政が倒れた直後に生かされることになります。1336年(建武三年)に西国から上洛した足利尊氏は建武式目という鎌倉時代の御成敗式目的な、今後の施政方針を示す法令を出します。これの策定には、足利直義と八名の有識者を集められました。その八名とは、前民部卿、是円、真恵、玄慧、大宰少弐、明石民部大夫行連、大田七郎左衛門尉、布施彦三郎入道道乗となります。前民部卿は藤原南家の藤原藤範が比定されております。彼の息子有範は後に侍読(お抱え儒者)として足利直義・直冬に仕えておりますので、藤原藤範もまた、儒学の素養があったものとされます。是円・真恵は中原氏の兄弟です。中原氏は代々律令体制下の大学寮において明経道(儒学)、明法道(法学)の博士を輩出してきた一族であり、儒学の素養ももっております。太宰少弐以下は武家になっております。建武式目において、公家衆は儒家で固めたメンバーにて策定されたと考えてよいでしょう。
 建武式目の条々は御成敗式目を引き継いだものであり、道理に沿った具体的な項目が多いのですが、特に儒教に関係しそうなものは冒頭の武家の政府があった鎌倉をどのように評価するかについて述べた『鎌倉元のごとく柳営たるべきか、他所たるべきや否やの事』に色濃くでています。そこでは鎌倉幕府の原因を『ここに禄多く権重く、驕を極め欲をほしいままにし、悪を積みて改めず。』すなわち、権力者の倫理的堕落による失徳に求めているのです。これは儒教の中でも、朱子学の中の尊王斥覇の発想に基づくものでありましょう。尊王斥覇とは、文字通り王道を尊び覇道を排斥する大義名分論の思想です。
 観応の擾乱を論じる論者は足利直義と高師直の対立を保守派直義と急進派師直とよく色分けしているのを見ます。確かに直義派禅や朱子学の教えを志向していて、後世から見ると古びた発想の人物に見えますが、禅は蘭渓道隆が来日してからまだ百年もたっていないし、朱子学が本格的に日本に入ってきたのは蘭渓道隆来日前後に円爾や一山一寧がこれを伝えて後の事になります。すなわち、この時代禅も朱子学も我が国の国柄を変える新思潮であったのです。むしろ、ひたすらアナーキーに秩序破壊を仕掛けつつも、その後のヴィジョンを持ちえなかった高師直や土岐頼遠、佐々木導誉らの方が御家人間の抗争の絶えなかった鎌倉幕府の御家人集団の衣鉢を継ぐ者と見なすこともできるのではないでしょうか。

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2014年2月25日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅱ④再論、妙法院焼討ち事件Ⅱ

 それから間もなくして、後醍醐天皇が崩御しました。事態の推移を見守っていた延暦寺にとってはショックな出来事だったでしょう。良きにつけ悪しきにつけ、後醍醐天皇は討幕運動のシンボルであり原動力であったわけですから。逆に言うと幕府側にとっては大きく勢力を伸ばすチャンスでもありました。そこでまず挑発行動をとったのが足利直義です。彼は洛中である三条坊門の自邸に等持寺を建てさせて、そこで父親と後醍醐天皇の法要を盛大に執り行います。そして止めのように後醍醐天皇の御霊を慰撫する為に、洛西に一大寺院を建てることを宣言します。流石に延暦寺は北朝の朝廷に働きかけて洛西寺院の建立を思いとどまるように圧力をかけたのです。佐々木導誉が妙法院を焼き討ちした時点で、幕府と延暦寺の対立は先鋭化を増すばかりでありました。そんな時に降ってわいた妙法院襲撃事件は洛西大寺院建立計画への反対運動から延暦寺の目をそらす結果をもたらしたのです。

 足利尊氏の上洛成功の結果、佐々木導誉は足利政権に参与することはできました。しかし、その過程で去就が定まらないことが何度かありました。殊に箱根竹之下合戦で導誉が行った二度の寝返りなどは、足利軍にとっては複雑な心境を起こさせたものでしょう。もっともそれは塩冶高貞が新田軍に参加していた為で、導誉が佐々木一族を割らない為のようなのですけどね。いずれにせよ、足利直義等は疎ましく思ったに違いありません。故に直義が幕府に対する導誉の忠誠心を試したのだ、という考え方はあっても良いでしょう。そして、試された忠誠心は近江の一領主が比叡山延暦寺に喧嘩を売らざるを得ないほどハードルが高いものであったのでした。

 幕府は延暦寺のというよりは、朝廷の顔を立てて導誉を上総国に流罪とすることを決定します。幕府にとっては、南朝を打倒する為に京の朝廷もそのカウンターとしての勢力を保つ必要がありました。導誉の行いはそれを損ないかねないものだったのです。幕府は罰を下すことによって、朝廷に対しては一応の筋を通したものの、佐々木導誉の流罪道中パレードを黙認することによって、延暦寺に対する配慮は一切しないことを天下に示したのです。延暦寺はこの挑発には乗らず、逼塞します。それは併せて、洛西大寺院の建立に対する延暦寺の批判は一切無視するという宣言でもありました。これ以後、延暦寺は足利直義が滅びるまで、公然とした実力行使を控えるようになります。洛西の大寺院は足利直義の夢によって天龍寺と名付けられることになりました。

 導誉が流罪の旅をしている最中の1341年(暦応四年)四月三日に、導誉の一族衆の一人、出雲国守護の塩冶高貞が粛清されます。太平記には高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕した挙げ句に振られて逆上した為などと書かれていますが、他のソースに該当するような記述はなく、あまり信憑性はありません。直義と高師直の対立関係に巻き込まれた説もありますが、讒言と言われたことが事実だった可能性もあると思います。
 ただし、先に語った導誉の事例考察に従って考えるなら、塩冶高貞にも佐々木導誉と同様に忠誠心を試される高いハードルが設定されたのかもしれません。

 その原因として考えられる事件があります。備前国児島に住する佐々木信胤が高師直の従兄弟である師秋の妻を寝取った上で南朝方について蜂起し、瀬戸内の小豆島に立てこもったという事件がありました。師秋は直義直属で仕えた高一族で政権中枢にありましたので、これが太平記以外の記録にあれば一大スキャンダルといったところでしょう。動機はともあれ、佐々木信胤が小豆島に立てこもったのは史実であります。それに前後して新田義貞の弟、脇屋義助が伊予国に入ることによって、瀬戸内は一気に不穏な情勢に陥ったのでした。折しも、天龍寺船が元国にむけて出帆の準備をしている頃合いでした。幕府内において佐々木一門全体に南朝に通じているとの疑いが持ち上がっていても不思議ではないと思います。

 塩冶高貞は元弘の変において後醍醐天皇が隠岐を脱出し伯耆国船上山に籠もった折に兵を率いて宮方に参陣し、足利高氏の京都占領を受けて、後醍醐天皇に供奉して上洛した人物です。中先代の乱を平定した後も鎌倉に居座った足利尊氏を討つ軍が催された時にはその討伐軍にも参陣し矢矧から竹之下まで足利軍を追い詰めた人物でもありました。この時塩冶高貞に足利方に寝返ることを勧めたのは導誉でまちがいないでしょう。この頃の導誉は六角・京極・塩冶・富田等からなる佐々木一門の総体の生き残りに腐心しておりました。六波羅探題陥落時に佐々木宗家当主である六角時信の助命をしました。なので、導誉に余裕があり、なおかつ在京さえしていれば、塩冶高貞は命を落とす必要はなかったかもしれません。突然京を出奔した塩冶高貞に対して、伯耆国守護山名時氏が討手として派遣され、塩冶高貞は追い詰められて自刃するに至ります。領国の出雲国は山名時氏が接収しますが、ほどなくして許されて幕政に復帰した佐々木導誉の手に委ねられます。
 幕府にとっては延暦寺を牽制し、天龍寺の建立へとこぎつけ、佐々木一門の力を相対的に落とした上で、忠誠も担保できたのですから、満点とはいかないまでも充分な成果を得ることができたと言えるでしょう。その間、佐々木一族は六波羅陥落で隠岐国守護佐々木清高を、粛清で出雲守護塩冶高貞を失ったのです。出雲守護は導誉が担う形でとりもどしましたが、導誉本人にとってみれば、忸怩たる思いだったのではなかったでしょうか。

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2014年2月22日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ③再論、妙法院焼き討ち事件Ⅰ

 1336年(建武三年)、官軍は捲土重来した足利尊氏に蹴散らされました。後醍醐天皇を守護する英雄である楠木正成をもってしてもそれを押しとどめることはできなかったのです。尊氏は京都に入ります。後醍醐天皇は比叡山延暦寺に立てこもって官軍は市街戦を挑みます。対する足利軍は比叡山を大軍で押し包んで籠城戦の様相を呈します。結局、後醍醐天皇は降伏し、捕虜となりますが、すぐに脱走して吉野で朝廷を作りました。これが南朝の起こりです。

 南朝は出足から前途多難で、1338年(暦応元年)には新田義貞が戦死し、その翌年の1339年(暦応二年)には後醍醐天皇が崩御したことによって、その求心力は急激に低下します。京においては幕府が置かれ、新体制の構築が急がれておりこれでようやく世情も落ち着くように見たところで一大事件が起きました。

 1340年(暦応三年)、佐々木導誉が延暦寺の門跡寺院である妙法院といざこざを起こしたのです。きっかけは紅葉の枝を折ったの折らないのといった些細なことだったらしいのですが、佐々木導誉は本気で自らの郎党を動員して、延暦寺配下の門跡寺院である妙法院を焼き討ちしました。この経緯において事態を悪化させているのは明らかに佐々木導誉本人なのですが、これがいささか解しかねます。
 端的に言って、これは佐々木導誉が延暦寺に理不尽に喧嘩を売った形になっております。しかし、佐々木導誉の立場を考えると、その理由を推し量るのが難しい。第一彼の領地は近江にありました。そして、延暦寺は近江・山城国境の要害にあって、琵琶湖に面した寺内町の坂本において、琵琶湖湖上水運を一手に握っております。延暦寺を敵に回して近江で生きてゆけるはずがありません。それだけではなく、妙法院は延暦寺配下の寺というだけではなく、時の妙法院門跡が光巌院の弟にあたる亮性法親王なので、朝廷に対する立場まで悪くしております。

 幕府は佐々木導誉に罰を与えますが、そこでも導誉は配流をパレード化して延暦寺を挑発しました。焼き討ちやパレードは当時の常識から見ても道理を外れた行いであるのですが、導誉にとっていずれもメリットの無い話なのですね。まず、延暦寺からの恨みを買ってます。こののち導誉の二人の息子が戦死するに至るのですが、それは延暦寺に対するこの理不尽の報いだなどと、太平記に書かれたりしています。佐々木一門庶流の京極家でありながら、宗家である六角氏をさしおいて一門筆頭に躍り出た導誉にとって、ここで延暦寺とことを構えるのはリスクが大きすぎる話でした。配流パレードにしても、その後それを口実に刺客を配流先に送り込むなんてことは過去の類例を見れば枚挙にいとま無く、幕府がそれをもって追加の致罰を行わない保証が無くてはできないことでしょう。故に妙法院焼き討ちに始まる一連の事件を導誉単独で思いついてやってのけたとは考えにくいのです。後になって刺客が放たれるリスクを考えずに配流をパレード化したとすれば、それはむしろ、幕府の命令に従って敢行したものであったように思われます。

 では、幕府に延暦寺を挑発する動機があったかと問われれば、大有りでした。1336年(建武三年)に制定された建武式目で、足利幕府は京都に置かれることが定められました。関東武士団連合というバックボーンを有していた鎌倉幕府とは異なり、開幕以前には京都とのつながりは非常に希薄だった足利家です。そこに割って入るには関西の非常に入り組んだ既得権益をこじ開けて、自らの居場所を確保する必要があったのです。武家勢力は足利一門とその与力衆で対抗する目途が立っておりましたが、手つかずだったのが寺社勢力です。その中でも、事あるごとに他宗を排斥弾圧してきた延暦寺は真っ先に手を打つべき対象でもありました。

 後醍醐天皇はすでに吉野に退いておりましたが、延暦寺はそれについて行って引っ越すわけにはいきません。和議を結んだとはいえ、敗軍が立てこもった城であったのですから、新たに立てられた光明天皇の朝廷に対する延暦寺の影響力はいささか削がれておりました。
 幕府の側も、越前国金ヶ崎城を落とした折(1338年(暦応元年))に、延暦寺を潰すべきかどうかが議論され、当代の知識人、玄恵法印の説得で見送られたと太平記には記述されております。玄恵法印は建武式目を起草した八名の中に名を連ねており、幕府は京都に置かれるべしとの方針策定に携わった人物でもあります。
 建武式目は足利幕府による施政方針を描いたものですが、その起草に携わった玄恵法印が比叡山延暦寺の存続問題について発言があったとされていることは、式目発布後も国家の方針を定める会議が三条坊門邸の幕府で行われていたということでもあります。
 足利幕府の宗教上の方針をかんがみるに、足利兄弟は禅宗に帰依し、この後、興禅運動を全国的にかつ強力に推し進めてゆきます。その推進に最大の障害になると想定されるのが延暦寺でした。
 この会議の結果次第では、比叡山を新阿育王山に改称し、かつ延暦寺の跡地に南禅寺を勧請するくらいのこともありえたでしょう。延暦寺の存続は実際には太平記で玄恵に言わせたような、日本国に欠くべからざる神威であると判断されたためです。しかし、状況が変われば結論も変わりえる状態だったわけですね。

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2014年2月20日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅱ②佐々木導誉Ⅰ

 佐々木導誉は元々村上源氏という名族の出自です。鎌倉幕府体制下で北近江の地頭を務めておりました。佐々木というのは彼の属する一門全体の呼称であります。佐々木一門は六角・京極・塩冶等種々あるのですが、その中で京極氏の出ということになります。導誉は出家時の法号で、元々の名前は高氏といいます。奇しくも足利尊氏(彼は元々高氏といった)と同じ名前なのですね。
 彼の名前の『高』という字は鎌倉幕府の主である得宗北条高時からもらったものです。

 京極高氏が導誉と名乗ったきっかけは鎌倉幕府の主である北条高時(彼は導誉より八歳年下です)が二十四歳の時に病を得て出家した折に付き合いで出家したことによります。この時、高時の病は全快したわけですが、それが彼にとって必ずしも良いことではなかったことは歴史に物語られております。
 北条家は代々禅宗に帰依しておりました。その付き合いで出家した導誉もまた禅僧となったわけです。但し、近江国に領地をもつ彼の場合、延暦寺の存在は無視できませんでした。京極家の元々の宗旨は天台宗ということになります。そのあたりは河内源氏や足利氏が元々の宗旨が真言宗であったと同様、先祖は天台宗でまつって、自らの信仰は禅という形で棲み分けを行ったものです。ただ、彼の場合は足利直義のように禅の教義を学び広めようとしたわけではなく、禅宗の持つもう一つの側面である最新の中国文明・文化を本朝に移植することに関心を持っていたようです。過去においてそうする役割は延暦寺や興福寺が担っていたものですが、蘭渓道隆らがそれらのやり方を真っ向否定して純粋禅と称する別の道を提示したことが、佐々木導誉にも新鮮に映ったのではないでしょうか。臨済禅は朝廷も認めており、大覚寺統の亀山院が南禅寺、持明院統の花園院が大徳寺、妙心寺を開基して両皇統の庇護も厚く比叡山延暦寺に拮抗しうる力をつけておりました。

 元弘の乱での後醍醐天皇と鎌倉幕府の争いにおいて、佐々木導誉は幕府の命令を受けて流罪となった後醍醐天皇の連行を担当しました。配流先の隠岐国守護は導誉の同族の佐々木清高が担当しており、隠岐国に向かう経路の出雲国は同じく同族の塩冶高貞が就いております。すなわち、配流後の後醍醐天皇(この時点では公式には廃位されていて後醍醐院)の世話と監視を佐々木一族が仰せつかったわけです。これで幕府と朝廷の天秤は大きく幕府側に傾くことになりました。
 元寇以降、幕府というか北条氏は得宗専制を強めていました。我が国を侵略しようとする大帝国の脅威を前にすれば、それもやむを得ざるところではあるのですが、非主流の武士団にとっては既得権益を奪われることになります。武士団の天秤は北条家に大きく傾き、その中核たる得宗家は高時の能力値の低さもあって、内管領・御内人の長崎円喜、高資親子に集中することになります。ここでも大きく天秤が傾いたわけです。
 しかし、揺り戻しがすぐにきました。隠岐に流された後醍醐天皇はひそかに脱出し、因幡国の船上山に籠もります。そして、そこから全国の武士団に号令をかけました。隠岐国守護佐々木清高の失態です。それを取り戻そうと船上山に佐々木清高は兵を差し向けますが、名和長年らの反撃にあって失敗。その報を聞きつけた出雲国守護塩冶高貞は兵を率いて後醍醐天皇の元に参じました。ここにおいて佐々木一族は分裂の危機に瀕することになりました。これをもって政局は一気に動きます。吉野で護良親王は再挙し、赤松円心も播磨から摂津方面へ侵攻を開始します。六波羅探題では手に負えなくなって、幕府は名越高家と足利高氏を差し向けました。
足利高氏は上洛前から寝返りを考えていた模様です。佐々木導誉はそれを察知していたか、場合によっては寝返りを教唆した可能性もあるのですが、示し合わせたと思われる動きをとります。
 この時佐々木一族の隠岐国守護佐々木清高と近江国守護六角時信が幕府方として六波羅探題に詰めておりました。塩冶高貞は後醍醐天皇の幕下にあって伯耆国船上山にいます。今後の事態の趨勢は予断を許しませんが、佐々木一族のプレゼンスを維持する為に、どちらに移っても可能な限り一族の脱落者を減らす必要がありました。
 足利高氏は六波羅探題を攻め、六波羅探題北方の北条仲時が光巌天皇を伴って関東に逃げようとします。その行く手を阻んだのが正規の御家人ではない、悪党達でした。素性不明ということですが、脱出路は佐々木一門の支配する近江国です。導誉の手配とみても良いかと思われます。近江国守護六角時信は後詰めとして仲時を追っておりましたが、そこになぜか仲時は戦死したという誤報が入り、六角時信は京に戻って降伏してしまいます。最終的に六波羅探題北方の北条仲時は近江国番場の蓮華寺に包囲されて孤立します。そして、伊吹に居館をもっていた佐々木導誉の救援が無いことを知って絶望して自刃したのでした。遺された光巌天皇と三種の神器を佐々木導誉は保護しました。それをもって功績とし、京極高氏こと佐々木導誉は同族の六角時信の助命に成功するのです。そして、導誉と時信は塩冶高貞とともに雑訴決断所の奉行人に任じられます。

 建武政権は極めて脆弱なもので、わずか一年余りでその崩壊の予兆たる中先代の乱が起こりました。得宗の遺児、北条時行が報復の軍を催し、鎌倉に攻め込んだのです。その時に鎌倉にいた足利直義はこれを支えられず、三河国矢矧まで撤退します。これの援軍を尊氏が望むも、後醍醐天皇はそれを認めませんでした。それを押して尊氏は勝手に鎮圧に出かけるわけですが、この時に佐々木導誉も従軍しております。中先代の乱を鎮圧した足利尊氏が帰還命令を無視して鎌倉に居座ると、後醍醐天皇は新田義貞に討伐を命じられました。この討伐軍の副将として塩冶高貞も随行しております。またしても佐々木一族で敵味方になって戦う羽目に陥りました。これに尊氏はひたすら恭順姿勢でいますが、それでは足利党がつぶれてしまうので、足利直義が矢矧まで押し出してこれを防ごうとします。これに佐々木導誉も付き合うのですが、直義は易々とこれを抜かれてしまいます。その時、佐々木導誉は新田軍に降伏して足利攻撃軍の一角を受け持つに至ります。その中には同族の塩冶高貞もおりました。両軍が箱根と竹之下で対峙するに至ってようやく尊氏の重い腰が上がると塩冶高貞が寝返ります。戦線の維持が不可能になった新田軍が退却を命じた時に佐々木導誉も再び足利方に寝返って戦局を決定づけます。導誉の足利方から新田方への寝返りは塩冶高貞を味方につける為だったと考えるべきでしょう。これによって、佐々木一族は一応の結束を担保で来たのでした。そして尊氏率いる足利軍は上洛戦を戦うことになるわけです。
 上洛戦は東北の北畠顕家の参戦もあって足利尊氏の敗北におわります。彼らは九州に落ち延びますが、佐々木導誉は近江に残って恭順します。朝廷もこれを罰するべきでありましたが、そうする実力はすでにありませんでした。官軍主力の新田義貞は尊氏を討つべく西下の途上、赤松円心の抵抗にあって播磨で足止めを食らっております。丹波国では残留部隊の仁木頼章が勢力を温存し、足利尊氏の帰還を待っておりました。このような状況で機敏な動きはとなかったわけです。

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2014年2月18日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅱ①キャスティングヴォート戦術

 本編においては、近江国主の佐々木導誉の視点を通じて南北朝時代を見てゆこうと思います。ただ、佐々木導誉という人物は非常に癖のある人間性で、表裏比興を恥としない人格の持ち主です。彼によって陥れられた人間も数多います。同時に極めて特異な美意識を持っており、それが現代の常識と大きく乖離しているのですね。

 同時代を生きた他の人々ならもっと単純明快に評することができます。足利直義は時代を変える意志を持った理想主義者であり、尊氏はひたすら怠惰な人格の持ち主です。高師直は言われているほど婆娑羅でも、悪徳の持ち主でもない讒謗の被害者に他ならないでしょう。あくまでも私見ではありますが、あまり外れてはいないと思ってます。
 もし、こんな感じで短く佐々木導誉を評するならば、私は彼を『天秤の担い手』と呼んでみたいです。彼はいつも、天秤の支点の位置に立っていました。両側に重さの異なる錘が乗れば、天秤は傾きます。そういう時に導誉は重い側に支点を寄せて釣り合いをとるのです。導誉はこれをもって、ものの重さを知るのです。そしてしばしば、軽い側がてこの原理で重い方をひっくり返す現象まで起こしてしまいます。それは同時に彼の喜びでもありました。
 天秤の担い手という言葉を言い換えるならばキャスティング・ヴォートという呼び方もできるでしょう。拮抗する二つの勢力のいずれかに与することにより大勢を決定づけ、勝者には勝利の恩恵享受と引き換えに実際の勢力以上の発言権を得るという手口です。

 佐々木導誉はそれに特化していましたが、その手口は彼のオリジナルというわけではありません。彼が前半生を生きた鎌倉時代の権力構造を鳥瞰し、その本質を抽出したなら、キャスティング・ヴォートを握り、天秤の担い手となることこそが、最善の戦略であることが理解できるでしょう。
 彼が師としたのはおそらくは長崎円喜入道だったのではないか、と私は想像しております。得宗家の御内人であれば誰でもよいのですが、同時代を生きた象徴的な人物として挙げてみました。この時代、得宗専制と呼ばれるほど得宗家は強大な権勢をふるっておりました。その力は得宗本人よりも、得宗家の被官に過ぎない御内人・内管領に集中していたわけです。家柄という観点で見るならば得宗家はもちろん、長崎氏が属していた平姓関氏もさしたる名族というわけではありません。しかるに何故、さしたる家柄でもない長崎氏が強大な権力を得ることができたのか。これは当時の政治状況を分析して初めてわかることです。

 当時の日本の権力構造を見るに、大きく朝廷と幕府に分かれております。朝廷は我が国発祥以来の王権を担い、幕府は新興の軍事勢力であります。朝廷はもともと軍事をも備えておりましたが、時代の流れの中でそれを軽視し、武力をもっぱら担う武士勢力に独占されてしまった結果です。その嚆矢は承平・天慶の乱に始まり、保元・元治の乱で朝廷は武家なしに存続できないことが確定し、承久の乱において朝廷は武家すなわち幕府に敗北を喫しました。そして、その対立構造は武家が朝廷を圧したまま佐々木導誉が生きた正中・元弘に引き継がれてゆきます。
 承久から元弘にかけて、武家幕府はずっと朝廷を圧し続けてきたわけですが、武家は常に一枚板というわけではありません。武家の大きな勢力としては清和天皇の末裔を称する清和源氏と桓武天皇の子孫である桓武平氏がそれぞれ大きな一団を形成しておりました。
 最初に平清盛率いる桓武平氏が武士団同士の争いに勝利し、返す刀で朝廷に侵食して位人臣を極めるに至ります。しかし、その支配は兵士に非ずんば人に非ずといった具合の排他主義的色彩を帯びたものでありました。そのため、清盛一代の終焉とともに、朝廷はもちろん、清和源氏を初めとする非平氏の武士団からフルボッコを食らう羽目に陥ります。平氏政権を倒したのは清和源氏の嫡流である源頼朝でしたが、彼を擁立し、源家の執権として幕府を支えたのは桓武平氏の流れを汲む北条時政でした。源氏将軍家は三代で滅亡します。その後に将軍家に代わって清和源氏嫡流を自認したのが足利氏でした。以後摂家や皇室から鎌倉将軍を戴き、幕府は存続し続けます。その間桓武平氏北条家は清和源氏足利家と姻戚関係を結び、大きな武士団連合を形成しました。梶原、比企、和田、三浦、畠山、安達と北条一門のライバルたる武士団がいましたが、北条家は常に多数派を形成し続け、孤立した少数派をつぶし続けていったわけです。それがうまくいっていたのは平氏北条家と源氏足利家との密接な関係であり、北条家が常に足利家に対して優位にあったことによります。
 その北条氏も勢力拡充の中、数多くの諸流をなすに至ります。その中の最大勢力は宗家である得宗家でありました。本来であれば宗家の位置を占めていたはずの名越氏とは決して折り合いはうまくいってなかったですが、それでも北条家の危機がくれば、一門内の利害対立を超えて一致結束してこれにあたりました。そこに全く隙はなく、村上源氏出身の佐々木導誉の一族もその下風に甘んじざるを得なかったわけです。
 得宗家は代々傑出したリーダーを出し続けていたわけですが、常に資質にあふれる人物を当主としてきたわけではありませんでした。多少欠点があったとしても、それを補う存在がいたわけです。それは北条一族の中ではなく、得宗家の家人が家政を担うことによって実現していたのでした。それが平頼綱であり、長崎円喜であったわけです。
 若い時の佐々木導誉は御相伴衆という得宗直属の御家人として仕え、自らの名に高時の偏諱を得て高氏と名乗ることとなりました。村上源氏出身である佐々木家の家格はその頃の内管領であった長崎円喜の家と比べれば、明らかに勝っておりました。にもかかわらず、長崎円喜の威勢は得宗をも凌ぐものでありました。それは同時に日本国全体の屋台骨を支え、その運命を左右するほどの力であったわけです。その力の構造は朝廷を圧する武家の主流たる清和源氏の幕府を支える北条家を支配する得宗に影響力を持つ内管領・御内人といったものであり、御内人単独の力などは導誉などから見ればたかが知れたものでした。であれば、佐々木導誉本人がそれになり替わることは決して不可能ではないはずです。
 畢竟、権力は多数を占める者が手にするものである。多数を占めるためには相対する二つの勢力の片側に与してその勢力を勝たしめること。勝つべき勢力の中においても内部に相対する勢力を設けてその片側に与することで優位を作ること。それを繰り返せば、佐々木導誉がどうにかできる規模の対立に介入でき、同時に大きな構造を動かすことにつながるわけです。そのためには緊張と対立を維持し、時には自らが対立を煽ることもいとわなかったわけです。佐々木導誉は鎌倉でそれを学んでいったのかも知れません。

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2014年2月 6日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑯考察

 本編におけるストーリー立ては、足利直義や夢窓疎石のような非京都人が京都に入って京都という都市を変えてゆくプロセスを追ってゆくというものでした。
 そもそも京都洛中は天皇の為の都市であり、その領域は不可触なものでありました。故に一条から九条に至る洛中と洛外を引き比べるなら、洛外の方がはるかに多く寺院を抱えており、なおかつ禁裏以外の政庁は公武ともに存在していませんでした。
 芥川龍之介の羅生門は平安時代に成立した説話集である今昔物語から題材を採ったものとされております。今昔物語には羅生門(正しくは羅城門)の楼門に引き取り手のない死骸を捨てるという風習が発生したとの記述があります。羅城門は朱雀大路の南端にあり、洛中と洛外の境界にありました。捨てられた死体というのは普通に考えれば、洛内で死んだ者であったでしょう。すなわち、洛中は清浄に保たれることが何よりも重んじられ、死穢は洛外に運び、洛内は清浄が保たれなければならないものだったわけです。
 私が読みかじった本によると興味深いことに、平安京が出来たころには仏教は死者の弔いを行わなかったそうです。日本では葬儀というと仏式がまずイメージされますが、本来の仏教は葬送の儀式とは直接の関係を持たないものであり、アジア諸国においては、仏教寺院はあっても仏式の弔いを行わない国はざらにあります。その日本にしてみても、仏教が死者の葬送に携わるようになったのは平安時代後期の空也(903年~972年)の登場を待たねばならないものでした。故にその頃に洛内にあった寺院は、東寺のような元官庁施設を寺院化したものや、清浄華院のような天皇自身の仏道修行場とか、壬生寺のような現世利益に功徳のある観音像を祀ったものなどになっていたのです。
 大鏡における花山天皇の出家の記述に見られるとおり、皇位を降りて出家するということは都を去ることと同義でした。院政期においては皇位を譲って引退した上皇は院庁で政務を執ったわけですが、そこは紛れもなく、洛外でありました。承久の乱で後鳥羽上皇を撃ち破って幕府の存在を誇示した北条義時は朝廷を監視する為の武家による政庁である六波羅探題を起こしましたが、それにしても、鴨川の東側、東山の麓にあったのです。洛中という空間は、帝がまつりごとを行う為に清浄が保たれた土地だったわけです。

 そこに素人めいたやり方で入ってきたのが足利直義でした。彼は兄尊氏とともに三条坊門高倉の一角に居を構えておりましたが、後醍醐方を追い出して後、そこに政庁すなわち幕府を打ち立てます。彼は建武式目において、『よい政治を施すならば、政庁をどこに置こうと関係ない』と宣言ます。天皇以外の為政者が洛内に禁裏以外の政治の場を築いたのは初めてのことでありました。
 そればかりではなく、そこに等持寺という寺を建て、清浄であるべき洛中において亡父の三回忌供養と後醍醐天皇の百箇日法要という仏式葬儀をやってのけたわけです。普通こういう先例破りをやると比叡山延暦寺が抗議するわけですが、延暦寺には先年後醍醐天皇を匿って宮方に与し、足利軍と戦争をやって事実上負けたという負い目がありました。延暦寺が躊躇している間に、幕府は佐々木導誉を使って露骨な挑発を行います。妙法院焼き討ち事件です。流石に朝廷は震え上がりましたし、延暦寺も憤激はしました。朝廷の顔を立てる形で、佐々木導誉は流罪になりましたが、佐々木導誉はその行列で延暦寺に所縁深い日吉神社の神獣である猿の皮を供の者の尻に敷かせるという強烈な追い討ちを放ちます。幕府の黙認があったと見て間違いないでしょう。その後佐々木導誉はすぐに許されて幕政に復帰しております。延暦寺はそれに対して何のアクションも起こしませんでした。

 足利直義は平安末期に白河院をして嘆かしめた山法師を完璧に封じ込めたのでした。その間隙を利用して、夢窓疎石と諮ってよく判る禅宗入門『夢中問答集』を出版します。禅宗の本質は紙に書かれた教義ではなく、文字によらない師弟関係の中でしか相伝されない悟りの境地にあるはずなのですが、直義はそれすら気にすることなく話をまとめてしまいます。無論、そこには目論見があって、天龍寺を頂点として、全国に禅寺と利生塔を建てる布石だったわけですね。興禅運動は禅僧だけが頑張ってもどうにもならないわけで、外護者が必要となります。足利直義がその外護者として期待したのが足利一門衆だったのです。
 こうやって見てゆくと、足利直義という男は佐々木導誉や土岐頼遠、高師直等のバサラ大名の誰よりもラジカルに実利を取ってきたことが判るかと思います。臨済禅興隆に錦小路慧源こと足利直義が夢窓疎石とともに果たした役割は西明寺入道北条時頼が蘭渓道隆とともに果たしたそれに勝るとも劣らない働きをしたのです。
 しかし、過ぎたるは及ばざるが如しでした。全国に安国寺を設置できる算段が付いたならば、次は中国の禅林と直結させることを構想されたと思われます。何となれば、天龍寺のスポンサードをしたのは元に遺された旧南宋禅林の流れでした。交易で栄えることが出来るならば、より安定した体制の構築が可能になるはずだったのです。その流れで行けば中国地方に探題を置き、大兵を養うことは理にかなったことでもあります。瀬戸内航路ににらみを利かせる一方、九州に残る南朝勢力と戦う前線基地にもなるからです。

 しかし、これはすでに中国地方を得ていた既存の守護達の反発を招きました。そこに足利直冬が長門探題に任じられ、守護たちは中国地方の実利から外されることが判ったからです。四条畷に楠木正行を討ち、吉野を焼いた武家方の英雄高師直はこれを好機と見て、反足利直義のクーデターを起こします。高師直はあくまでも宗家の執事であり、直冬の長門探題就任を主家簒奪の布石と見て危機感をいだいた為であろうと思います。興禅勢力はこれを非難し、師直の人格まで貶めるに至りますが、師直はためらわず実力行使をし、直義を権力者の座から引きずりおろします。しかしながら高師直には直義が目指した禅宗王国に替わる理想を持ち合わせていませんでした。あくまでも幕府の歪な権力の姿を糺そうとしたまでだったのです。故に政敵となった直義を殺害まではできなかったわけですね。高師直に対し口を極めて罵った禅僧達も、関東に逃げ去ればお咎めはありませんでした。これが高師直の限界です。足利直義は一門衆に禅宗の外護者という役割を与えていました。故に自ら僧形に身をやつして戦いに赴くことが出来たのです。
 結果、高師直は敗れ去ったわけですが、高師直の喪失は幕府にとってバランサーを失うことでもありました。尊氏と直義が和議をなすということは、中国地方に赴き、失脚して九州に退いた足利直冬に対する処遇を決定することと同義でした。足利尊氏を支える勢力がそれを許さず、足利直義も後ろに退くことは出来なくなってしまったわけです。
 最終的に直義も滅びてしまいました。彼はかつて後醍醐天皇の霊を慰める為に天龍寺を建てましたが、彼自身も祟り神として畏れられて同じ寺に封じられる運命をたどったのです。しかしながら、彼の死をもってしても動乱は収まらず、彼の遺した遺産の争奪戦はなおも続くことになったのです。

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2014年2月 4日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑮オセロ・ゲーム

 足利直義による高師直罷免に始まる足利一門の一連のバトルロワイヤルは観応の擾乱と呼ばれております。この戦争では逆転に次ぐ逆転が繰り返され、その度に戦線が拡大してゆく様相を呈しておりました。それはさながら、オセロ・ゲームのようでもあります。オセロ・ゲームはそもそも、十九世紀後半にイギリスで考え出されたリバーシというゲームが起源で、日本に入り源平碁と呼びならわされていたものです。オセロ・ゲームとは戦後になって、その流れとは別個に暇つぶしとして日本人が考案したものとされています。玩具メーカーのツクダが登録商標して日本中に流行し、さらには海外にも輸出されているポピュラーなゲームとなっております。
 オセロのゲーム名は同名のシェイクスピア劇からとられておりまして、黒石を黒人将軍オセロ、白石はその妻デズデモーナをあらわすそうです。ゲームの進行につれて、白石と黒石の関係が逆転に次ぐ逆転を繰り返すことから、そのような名前になったということです。

 南朝から足利尊氏追討の綸旨をもらった足利直義はさっそく京都に入って号令します。本来ならば征夷大将軍である足利尊氏に従うべき一門衆の多くが足利直義についてしまいました。足利尾張守家、桃井、石塔等です。細川家からも顕氏が直義についておりましたし、さらには高師直と一緒に足利尊氏邸を囲んだメンバーの一人、山名時氏までもが直義についてしまったのです。尊氏もこれでは京を奪回することは難しく、播磨国守護赤松範資を頼って書写山に籠もります。これに対して直義自身も兵を率いて迎え撃ちます。両軍は打出ヶ浜で邂逅し合戦に及びます。合戦は直義が勝利しました。足利尊氏は降伏し、高師直・師泰兄弟は捕虜になります。しかしながら、高師直・師泰兄弟は京への護送中、上杉重能、畠山直宗の遺臣達に襲撃されてあえない最期を遂げてしまいました。これに足利尊氏は激怒したわけですが、もう一つ、目立たない形で報復があったようです。
 足利尊氏が本陣を置いた書写山は播磨国にあり、赤松範資が守護を務めておりました。1351年(観応二年)四月八日にこの赤松範資が京都七条の屋敷において急死を遂げてしまったのですね。前年の正月に赤松円心が同じ屋敷で亡くなったところです。この死に関しても偶然として片づけるわけにはいかないと思います。

 足利直義は表面上は足利尊氏を立て、後継である足利義詮の補佐の立場をとりました。しかし、政務の実権はあくまで彼が握った形になっておりました。しかし、打出ヶ浜の勝利をもってしても足利尊氏の軍権をうばえなかったのですね。尊氏と義詮は佐々木導誉と赤松則祐(範資の弟)を討つ為に出陣します。実際に佐々木導誉は先に南朝に降伏しており、赤松則祐も護良親王の遺児を立てて京都からの独立を企んでおりましたが、この二人は足利尊氏・義詮と組むことに成功します。そして、尊氏達を南朝方に引き入れたのでした。
 ここで足利直義は明らかに戦後処理に失敗しております。というか、尊氏方の反撃を少しも予想していなかった感じがします。慌てて京都を撤退して足利尾張守高経のいる越前に引きますが、直義が捨てた京都を尊氏が拾うわけです。

 その年は丁度後醍醐天皇没後十三回忌にあたっておりました。天龍寺において夢窓疎石はその儀式の準備に余念なくとり進めておりました。もし観応の擾乱がなければ、夢窓疎石が夢見た中国との交易ルートは完成を見ていたことでしょう。赤松円心が後ろ盾となっていた大徳寺は五山十刹の序列の中で、機能していたはずであり、宮方の海賊達に瀬戸内航路を脅かされることもなかったでしょう。
 長門探題は鎌倉府と同等の働きをなし、交易の玄関口として巨利を足利直冬にもたらしたことでしょう。それは足利尊氏邸を囲んだ中国地方の守護達に対しても、同様にかつ十分に懐を潤したはずでした。天龍寺を中枢とした政宗一体の美しい体制が完成したはずだったのです。
 それは細川顕氏と山名時氏が楠木正行に敗れることによって、はかなくも崩れていったわけです。彼らの敗北は高師直の発言力を増し、それを後ろ盾とした中国地方の守護衆を勢いづかせました。足利直義はそれを封じようとしましたが、結局の所赤松則祐や佐々木導誉等の臨済宗非主流派によって軌道修正もままならない所まで追い込まれてしまったわけです。

 足利尊氏はそんな夢窓疎石の姿を恐らくは冷ややかに見ていたのではないでしょうか。後醍醐天皇十三回忌の仏事終了の翌々日、足利尊氏は直義派討伐の為に出陣しました。そして、尊氏軍と直義軍は近江国八相山で衝突します。戦国時代に浅井長政が領した小谷城のすぐ傍にある虎御前山のことなのですが、ここで直義は敗北を喫するのです。もはやこのまま京を取り戻す余力はありません。もはや再び京に入って夢窓疎石の理想の助けとなることはできなくなったのです。1351年(観応二年)八月二十二日、足利尊氏は四条櫛笥にある法華宗(日蓮宗)の妙顕寺に充てて、乱入狼藉禁止の制札を出すようになりました。
 これは尊氏が妙顕寺を予防的に守るということよりも、そういう被害がでたから乱暴狼藉を禁じたと解するべきでしょう。妙顕寺は翌年の二月に延暦寺配下の祇園社によって破却されます。すなわち、法華宗(日蓮宗)妙顕寺を破却したのは比叡山延暦寺です。すでに延暦寺を挑発する者も、延暦寺の強訴を止められる者も幕府の中にはいなくなってしまったことを意味しております。
 それは三条坊門に立った幕府の統制の崩壊、直義と夢窓疎石が構想した宗教秩序構築の頓挫を象徴するものでもありました。夢窓疎石も後醍醐天皇十三回忌の法要の翌月末、九月三十日に入寂します。その翌年、足利直義は鎌倉で尊氏の捕虜となり、非業の死を遂げる運命を迎えます。時に1352年(文和元年)二月二十六日、高師直の命日でもあります。当時の資料では太平記だけが暗殺説を流していますが、この偶然で片づけるには高師直の命日との一致はできすぎだということで、支持されることが多いです。1358年(延文三年)二月十二日に従二位が死後追贈されます。この年の四月に足利尊氏は死去しておりますので、死期を悟った尊氏の臨終前の罪滅ぼしということでありましょう。さらに、1362年(貞治元年)七月になって、尊氏を継いだ義詮の奏請により足利直義は正二位の追贈と、大倉二位大明神なる神号を贈られて天龍寺に祀られることになりました。その前後に流行り病が発生し、それは直義の怨霊によるものと噂された為といわれております。

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2014年2月 1日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑭反動

 高師直は勝利しました。足利尊氏邸に籠もった足利直義とその支持者達は全面降伏したのです。足利直義は政務を退くことを余儀なくされ、直義の執事を務めた上杉重能と側近畠山直宗は越前に配流となりました。

 その時、足利直冬は長門探題として備後国鞆におりました。彼には長門、周防、安芸、備後、備中、出雲、因幡、伯耆の成敗権を得ておりました。しかし、その中の出雲国守護山名時氏、安芸国守護武田信武、備後国守護細川頼春、備中国守護高南宗継が在京で足利尊氏邸を包囲したり包囲されたりしていたのです。直冬就任に前後して守護職を追われた元長門国守護厚東武村、元周防国守護大内長弘らしき人物も在京です。時期的にはややずれますが、吉良貞家も元因幡国守護でありました。彼らは本来であれば足利直冬の隷下にあってその軍事力を提供すべき立場にありました。にもかかわらず、彼らが悉く在京しているということは、一時的にはであるかもしれませんが、彼らの在国への支配権は放棄されており、残された地の軍事権を足利直冬が握っていた可能性があります。とはいえ、当時の守護は鎌倉幕府の大犯三箇条に毛の生えた程度のものでしかありません。本格的に守護領国制度が機能するのは、観応の擾乱以後のことになります。

 そうした所に足利直冬が入ってゆくのですから、当然それに見合った軍勢はひきつれていったものと思われます。守護不在の国であれば、影響力を行使することに大きな不都合はないでしょう。とはいえ、直冬も長門探題に任じられてからわずか四ヶ月程度でしたので、中国地方西部全域に勢力を及ぼせたわけではないと見てよいかと思われます。
 とすれば、高師直が次に打つ手は足利直冬の中国地方からの排除です。鞆近辺の地頭・御家人に直冬を襲わせるとあっさり九州を目指して落ち延びます。しかしながら、そこからの再起が極めて早いわけですが、それも彼自身が軍団を率いていたことの傍証になるかと思います。

 高師直は急いで組閣します。十一月に鎌倉府にいた足利義詮を京に迎え入れるに前後して、中国地方の勢力図を再び塗り替えます。厚東武村は長門国守護に復帰しました。備後国守護には大平義尚を配しました。彼ら二人は足利尊氏邸包囲網に参加しております。石見国は直冬探題就任と同時に守護が不在となり、周防国も直冬の被官である上総左馬助が去った後は守護不在の地と化しておりました。
 小康は保ったように見えますが、その裏側で不穏さは止めどなくエスカレートしていました。1349年(貞和五年)十二月、越前に流された上杉重能、畠山直宗が暗殺されます。これで中国問題の京における懸案は解決されたものとされて、焦点は足利直冬の軍団と応急処置しか済んでいない中国地方西部方面です。
 石見国住人に三隅兼連という人物がいました。彼は元々南朝方の武将でしたが、上野頼兼が石見国守護をしている間は頭を押さえられておりました。彼が上野頼兼が守護を罷免され、足利直冬が長門探題を去った間隙をついて蜂起したわけです。高師直はこれに兄、高師泰を差し向けます。

 一方、同じ月に政務を退いた足利直義は出家して、恵源と名乗りました。一見、政務を退いて俗世から離れたようにも見えます。しかし、よく考えてみれば佐々木導誉の『導誉』とか、赤松円心の『円心』は道号であり、彼らは法体のまま俗世で武将をしているのですね。出家前、足利直義は夢窓疎石の指導を受けておりました。恵源の道号を与えたのも彼と見えて差し支えないでしょう。寧ろ、足利恵源は自ら作った五山衆の陰に隠れて暗躍がし易くなったと考えることもできるのではないでしょうか。

 そうしたフィルターをかけてみると、その翌月に興味深い事件が起きていることに気づきます。播磨国守護赤松円心は高師直に味方して、軍備を整えておりました。高師泰の中国遠征に同道すべく準備していたのですが、明けて1350年(観応元年)正月になって俄に亡くなってしまいます。彼の死に関しては暗殺という話は残っていないのですが、時期が時期なだけに微妙な疑いが残ります。赤松円心は高師直につき、五山に漏れた大徳寺の檀越でした。それが高師泰とともに、守護不在の長門に根を張れば、既に摂津・播磨を抑えている赤松氏は瀬戸内の水運を抑え、すなわち中国へのルートを抑え、結果として臨済宗の権威がもう一つ出来上がってしまいかねない事態となります。
 結果として、石見の三隅兼連の討伐には高師泰が引き受けることになりました。それに付随して、一時的ではありますが師泰は石見国と長門国両国守護になります。とはいっても、三隅兼連は籠城策をとり、それを攻めきれない内に、九州では足利直冬が看過できない程の勢力を伸ばしていたのです。
 それに呼応して、足利直義は姿をくらまします。既に出陣の準備をしていた足利尊氏は迂闊なことに、そのまま中国地方に遠征に赴きましたが、それは大間違いでした。足利直義は南朝に降伏し、南朝は直義に足利尊氏討伐の宣旨を与えたのでした。

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