« 中漠:洛中幕府編Ⅱ①キャスティングヴォート戦術 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅱ③再論、妙法院焼き討ち事件Ⅰ »

2014年2月20日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅱ②佐々木導誉Ⅰ

 佐々木導誉は元々村上源氏という名族の出自です。鎌倉幕府体制下で北近江の地頭を務めておりました。佐々木というのは彼の属する一門全体の呼称であります。佐々木一門は六角・京極・塩冶等種々あるのですが、その中で京極氏の出ということになります。導誉は出家時の法号で、元々の名前は高氏といいます。奇しくも足利尊氏(彼は元々高氏といった)と同じ名前なのですね。
 彼の名前の『高』という字は鎌倉幕府の主である得宗北条高時からもらったものです。

 京極高氏が導誉と名乗ったきっかけは鎌倉幕府の主である北条高時(彼は導誉より八歳年下です)が二十四歳の時に病を得て出家した折に付き合いで出家したことによります。この時、高時の病は全快したわけですが、それが彼にとって必ずしも良いことではなかったことは歴史に物語られております。
 北条家は代々禅宗に帰依しておりました。その付き合いで出家した導誉もまた禅僧となったわけです。但し、近江国に領地をもつ彼の場合、延暦寺の存在は無視できませんでした。京極家の元々の宗旨は天台宗ということになります。そのあたりは河内源氏や足利氏が元々の宗旨が真言宗であったと同様、先祖は天台宗でまつって、自らの信仰は禅という形で棲み分けを行ったものです。ただ、彼の場合は足利直義のように禅の教義を学び広めようとしたわけではなく、禅宗の持つもう一つの側面である最新の中国文明・文化を本朝に移植することに関心を持っていたようです。過去においてそうする役割は延暦寺や興福寺が担っていたものですが、蘭渓道隆らがそれらのやり方を真っ向否定して純粋禅と称する別の道を提示したことが、佐々木導誉にも新鮮に映ったのではないでしょうか。臨済禅は朝廷も認めており、大覚寺統の亀山院が南禅寺、持明院統の花園院が大徳寺、妙心寺を開基して両皇統の庇護も厚く比叡山延暦寺に拮抗しうる力をつけておりました。

 元弘の乱での後醍醐天皇と鎌倉幕府の争いにおいて、佐々木導誉は幕府の命令を受けて流罪となった後醍醐天皇の連行を担当しました。配流先の隠岐国守護は導誉の同族の佐々木清高が担当しており、隠岐国に向かう経路の出雲国は同じく同族の塩冶高貞が就いております。すなわち、配流後の後醍醐天皇(この時点では公式には廃位されていて後醍醐院)の世話と監視を佐々木一族が仰せつかったわけです。これで幕府と朝廷の天秤は大きく幕府側に傾くことになりました。
 元寇以降、幕府というか北条氏は得宗専制を強めていました。我が国を侵略しようとする大帝国の脅威を前にすれば、それもやむを得ざるところではあるのですが、非主流の武士団にとっては既得権益を奪われることになります。武士団の天秤は北条家に大きく傾き、その中核たる得宗家は高時の能力値の低さもあって、内管領・御内人の長崎円喜、高資親子に集中することになります。ここでも大きく天秤が傾いたわけです。
 しかし、揺り戻しがすぐにきました。隠岐に流された後醍醐天皇はひそかに脱出し、因幡国の船上山に籠もります。そして、そこから全国の武士団に号令をかけました。隠岐国守護佐々木清高の失態です。それを取り戻そうと船上山に佐々木清高は兵を差し向けますが、名和長年らの反撃にあって失敗。その報を聞きつけた出雲国守護塩冶高貞は兵を率いて後醍醐天皇の元に参じました。ここにおいて佐々木一族は分裂の危機に瀕することになりました。これをもって政局は一気に動きます。吉野で護良親王は再挙し、赤松円心も播磨から摂津方面へ侵攻を開始します。六波羅探題では手に負えなくなって、幕府は名越高家と足利高氏を差し向けました。
足利高氏は上洛前から寝返りを考えていた模様です。佐々木導誉はそれを察知していたか、場合によっては寝返りを教唆した可能性もあるのですが、示し合わせたと思われる動きをとります。
 この時佐々木一族の隠岐国守護佐々木清高と近江国守護六角時信が幕府方として六波羅探題に詰めておりました。塩冶高貞は後醍醐天皇の幕下にあって伯耆国船上山にいます。今後の事態の趨勢は予断を許しませんが、佐々木一族のプレゼンスを維持する為に、どちらに移っても可能な限り一族の脱落者を減らす必要がありました。
 足利高氏は六波羅探題を攻め、六波羅探題北方の北条仲時が光巌天皇を伴って関東に逃げようとします。その行く手を阻んだのが正規の御家人ではない、悪党達でした。素性不明ということですが、脱出路は佐々木一門の支配する近江国です。導誉の手配とみても良いかと思われます。近江国守護六角時信は後詰めとして仲時を追っておりましたが、そこになぜか仲時は戦死したという誤報が入り、六角時信は京に戻って降伏してしまいます。最終的に六波羅探題北方の北条仲時は近江国番場の蓮華寺に包囲されて孤立します。そして、伊吹に居館をもっていた佐々木導誉の救援が無いことを知って絶望して自刃したのでした。遺された光巌天皇と三種の神器を佐々木導誉は保護しました。それをもって功績とし、京極高氏こと佐々木導誉は同族の六角時信の助命に成功するのです。そして、導誉と時信は塩冶高貞とともに雑訴決断所の奉行人に任じられます。

 建武政権は極めて脆弱なもので、わずか一年余りでその崩壊の予兆たる中先代の乱が起こりました。得宗の遺児、北条時行が報復の軍を催し、鎌倉に攻め込んだのです。その時に鎌倉にいた足利直義はこれを支えられず、三河国矢矧まで撤退します。これの援軍を尊氏が望むも、後醍醐天皇はそれを認めませんでした。それを押して尊氏は勝手に鎮圧に出かけるわけですが、この時に佐々木導誉も従軍しております。中先代の乱を鎮圧した足利尊氏が帰還命令を無視して鎌倉に居座ると、後醍醐天皇は新田義貞に討伐を命じられました。この討伐軍の副将として塩冶高貞も随行しております。またしても佐々木一族で敵味方になって戦う羽目に陥りました。これに尊氏はひたすら恭順姿勢でいますが、それでは足利党がつぶれてしまうので、足利直義が矢矧まで押し出してこれを防ごうとします。これに佐々木導誉も付き合うのですが、直義は易々とこれを抜かれてしまいます。その時、佐々木導誉は新田軍に降伏して足利攻撃軍の一角を受け持つに至ります。その中には同族の塩冶高貞もおりました。両軍が箱根と竹之下で対峙するに至ってようやく尊氏の重い腰が上がると塩冶高貞が寝返ります。戦線の維持が不可能になった新田軍が退却を命じた時に佐々木導誉も再び足利方に寝返って戦局を決定づけます。導誉の足利方から新田方への寝返りは塩冶高貞を味方につける為だったと考えるべきでしょう。これによって、佐々木一族は一応の結束を担保で来たのでした。そして尊氏率いる足利軍は上洛戦を戦うことになるわけです。
 上洛戦は東北の北畠顕家の参戦もあって足利尊氏の敗北におわります。彼らは九州に落ち延びますが、佐々木導誉は近江に残って恭順します。朝廷もこれを罰するべきでありましたが、そうする実力はすでにありませんでした。官軍主力の新田義貞は尊氏を討つべく西下の途上、赤松円心の抵抗にあって播磨で足止めを食らっております。丹波国では残留部隊の仁木頼章が勢力を温存し、足利尊氏の帰還を待っておりました。このような状況で機敏な動きはとなかったわけです。

|

« 中漠:洛中幕府編Ⅱ①キャスティングヴォート戦術 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅱ③再論、妙法院焼き討ち事件Ⅰ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/59135260

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:洛中幕府編Ⅱ②佐々木導誉Ⅰ:

« 中漠:洛中幕府編Ⅱ①キャスティングヴォート戦術 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅱ③再論、妙法院焼き討ち事件Ⅰ »