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2014年2月27日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑤玄恵は何でも知っているⅠ

 前稿にて、足利直義が後醍醐天皇の七回忌を天龍寺で執り行ったことを佐々木導誉の視点で紹介しました。足利直義は延暦寺を中心とした宗教秩序に風穴を開けて、そこに臨済禅を押し込みましたが、彼の治世は興禅活動にのみ費やされていたわけではありませんでした。洛中に日蓮宗の寺社を引き入れ、第二天台の礎を築きました。この試みは一応成功して、以後洛中の町衆に日蓮宗が受け入れられてゆく下地を作ったわけです。さらにそれだけではなく、統治理論として積極的に取り入れた学問がありました。それは儒学、より正確に言うなら朱子学です。足利直義に仕えた玄恵法印が洛中幕府における興学に寄与いたしました。本稿においては、彼について扱わせていただきます。

 玄恵は出自についてもわかっていない人物です。但し、その学識は儒学、漢詩に優れたものを見せ、禅林や公家衆との人脈も広いものでした。論語に象徴される儒学そのものは、紀元前の孔子に端を発する政治の心得であり、それに中国の民俗習俗が結びつき、漢族のエスニック・アイデンティティを形成します。宋代にはそれが洗練されて学問となり、官吏になるために身に着けなければならない必須教養となりました。それが科挙です。宋は経済力はあったものの近隣の大陸諸国より軍事力に劣っておりましたから、金や元に領土を侵され、滅亡するに至ります。その過程で儒学は憂国の色彩を帯び、尊皇攘夷すなわち、皇帝を尊び、夷を攘(はら)う思想が織り込まれました。これが朱子学・宋学と呼ばれるものです。
 儒教そのものは朝鮮半島経由で古事記の時代から我が国に伝えられておりました。律令時代においては、大学寮において儒学は明経道と名を変えて研究されたりしましたが、それほど重要視はされておりませんでした。
 宋学が入ってきたのは鎌倉時代になって、入宋した留学僧や宋から渡来した中国人僧の出入りが多くなってきてからです。その中には円爾弁円、一山一寧など臨済宗の大物達も含まれており、五山においても、禅と一緒に研究されておりました。玄恵は多くの五山僧との交流があり、宋学はここで学んだものであったようです。

 玄恵の儒学に関する学識を示すものとして、太平記における、正中の変において、後醍醐天皇の意を受けた日野資朝が討幕の為の作戦会議を行うために、サロンを作ってそこに玄恵を招いて儒学を講じさせたというエピソードがあります。一部にはこれをもって、玄恵が後醍醐天皇に『仕え』て、儒学的な一君万民ヴィジョンを勧めたなどと解釈する人もいるらしいのですが、とりあえず玄恵が後醍醐天皇に仕えたという事実を示す資料はありません。
 もっとも、これが根も葉もない話かと言うとそうでもなく、花園天皇宸記1319年(元応元年)閏七月二十二日の条には、玄恵と日野資朝らが花園上皇の御簾前で論語を語り合ったとの記述があるのです。ただ、花園上皇は持明院統であり、大覚寺統の後醍醐天皇からはやや遠い存在です。
 太平記にしても、謀議の主役たちは別にいて、玄恵はそのカモフラージュに使われたことになっておます。そのカモフラージュとして用意された儒学テキストの内容に不吉なものが含まれていたので、サロンから追い出されたというオチがついているのですね。そのテキストの内容には仏法を廃して儒学を尊ぶことを皇帝に奏上したために、流罪になった男の話でした。事破れて辺地に流されることが、陰謀者たちの心の琴線にふれてしまったわけです。判っていれば、あらかじめ内容に手心を加えますよね。なので、太平記における無礼講の秘密サロンにおける玄恵の役割はカモフラージュのために雇い入れた外部講師の役割を出ていません。
 ともあれ、玄恵は上皇の御簾前で儒学を講じるだけの学識(もしくはコネクション)を持った人物であったことは確かです。

 そんな玄恵の儒学の知識は建武の親政が倒れた直後に生かされることになります。1336年(建武三年)に西国から上洛した足利尊氏は建武式目という鎌倉時代の御成敗式目的な、今後の施政方針を示す法令を出します。これの策定には、足利直義と八名の有識者を集められました。その八名とは、前民部卿、是円、真恵、玄慧、大宰少弐、明石民部大夫行連、大田七郎左衛門尉、布施彦三郎入道道乗となります。前民部卿は藤原南家の藤原藤範が比定されております。彼の息子有範は後に侍読(お抱え儒者)として足利直義・直冬に仕えておりますので、藤原藤範もまた、儒学の素養があったものとされます。是円・真恵は中原氏の兄弟です。中原氏は代々律令体制下の大学寮において明経道(儒学)、明法道(法学)の博士を輩出してきた一族であり、儒学の素養ももっております。太宰少弐以下は武家になっております。建武式目において、公家衆は儒家で固めたメンバーにて策定されたと考えてよいでしょう。
 建武式目の条々は御成敗式目を引き継いだものであり、道理に沿った具体的な項目が多いのですが、特に儒教に関係しそうなものは冒頭の武家の政府があった鎌倉をどのように評価するかについて述べた『鎌倉元のごとく柳営たるべきか、他所たるべきや否やの事』に色濃くでています。そこでは鎌倉幕府の原因を『ここに禄多く権重く、驕を極め欲をほしいままにし、悪を積みて改めず。』すなわち、権力者の倫理的堕落による失徳に求めているのです。これは儒教の中でも、朱子学の中の尊王斥覇の発想に基づくものでありましょう。尊王斥覇とは、文字通り王道を尊び覇道を排斥する大義名分論の思想です。
 観応の擾乱を論じる論者は足利直義と高師直の対立を保守派直義と急進派師直とよく色分けしているのを見ます。確かに直義派禅や朱子学の教えを志向していて、後世から見ると古びた発想の人物に見えますが、禅は蘭渓道隆が来日してからまだ百年もたっていないし、朱子学が本格的に日本に入ってきたのは蘭渓道隆来日前後に円爾や一山一寧がこれを伝えて後の事になります。すなわち、この時代禅も朱子学も我が国の国柄を変える新思潮であったのです。むしろ、ひたすらアナーキーに秩序破壊を仕掛けつつも、その後のヴィジョンを持ちえなかった高師直や土岐頼遠、佐々木導誉らの方が御家人間の抗争の絶えなかった鎌倉幕府の御家人集団の衣鉢を継ぐ者と見なすこともできるのではないでしょうか。

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