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2014年2月 6日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑯考察

 本編におけるストーリー立ては、足利直義や夢窓疎石のような非京都人が京都に入って京都という都市を変えてゆくプロセスを追ってゆくというものでした。
 そもそも京都洛中は天皇の為の都市であり、その領域は不可触なものでありました。故に一条から九条に至る洛中と洛外を引き比べるなら、洛外の方がはるかに多く寺院を抱えており、なおかつ禁裏以外の政庁は公武ともに存在していませんでした。
 芥川龍之介の羅生門は平安時代に成立した説話集である今昔物語から題材を採ったものとされております。今昔物語には羅生門(正しくは羅城門)の楼門に引き取り手のない死骸を捨てるという風習が発生したとの記述があります。羅城門は朱雀大路の南端にあり、洛中と洛外の境界にありました。捨てられた死体というのは普通に考えれば、洛内で死んだ者であったでしょう。すなわち、洛中は清浄に保たれることが何よりも重んじられ、死穢は洛外に運び、洛内は清浄が保たれなければならないものだったわけです。
 私が読みかじった本によると興味深いことに、平安京が出来たころには仏教は死者の弔いを行わなかったそうです。日本では葬儀というと仏式がまずイメージされますが、本来の仏教は葬送の儀式とは直接の関係を持たないものであり、アジア諸国においては、仏教寺院はあっても仏式の弔いを行わない国はざらにあります。その日本にしてみても、仏教が死者の葬送に携わるようになったのは平安時代後期の空也(903年~972年)の登場を待たねばならないものでした。故にその頃に洛内にあった寺院は、東寺のような元官庁施設を寺院化したものや、清浄華院のような天皇自身の仏道修行場とか、壬生寺のような現世利益に功徳のある観音像を祀ったものなどになっていたのです。
 大鏡における花山天皇の出家の記述に見られるとおり、皇位を降りて出家するということは都を去ることと同義でした。院政期においては皇位を譲って引退した上皇は院庁で政務を執ったわけですが、そこは紛れもなく、洛外でありました。承久の乱で後鳥羽上皇を撃ち破って幕府の存在を誇示した北条義時は朝廷を監視する為の武家による政庁である六波羅探題を起こしましたが、それにしても、鴨川の東側、東山の麓にあったのです。洛中という空間は、帝がまつりごとを行う為に清浄が保たれた土地だったわけです。

 そこに素人めいたやり方で入ってきたのが足利直義でした。彼は兄尊氏とともに三条坊門高倉の一角に居を構えておりましたが、後醍醐方を追い出して後、そこに政庁すなわち幕府を打ち立てます。彼は建武式目において、『よい政治を施すならば、政庁をどこに置こうと関係ない』と宣言ます。天皇以外の為政者が洛内に禁裏以外の政治の場を築いたのは初めてのことでありました。
 そればかりではなく、そこに等持寺という寺を建て、清浄であるべき洛中において亡父の三回忌供養と後醍醐天皇の百箇日法要という仏式葬儀をやってのけたわけです。普通こういう先例破りをやると比叡山延暦寺が抗議するわけですが、延暦寺には先年後醍醐天皇を匿って宮方に与し、足利軍と戦争をやって事実上負けたという負い目がありました。延暦寺が躊躇している間に、幕府は佐々木導誉を使って露骨な挑発を行います。妙法院焼き討ち事件です。流石に朝廷は震え上がりましたし、延暦寺も憤激はしました。朝廷の顔を立てる形で、佐々木導誉は流罪になりましたが、佐々木導誉はその行列で延暦寺に所縁深い日吉神社の神獣である猿の皮を供の者の尻に敷かせるという強烈な追い討ちを放ちます。幕府の黙認があったと見て間違いないでしょう。その後佐々木導誉はすぐに許されて幕政に復帰しております。延暦寺はそれに対して何のアクションも起こしませんでした。

 足利直義は平安末期に白河院をして嘆かしめた山法師を完璧に封じ込めたのでした。その間隙を利用して、夢窓疎石と諮ってよく判る禅宗入門『夢中問答集』を出版します。禅宗の本質は紙に書かれた教義ではなく、文字によらない師弟関係の中でしか相伝されない悟りの境地にあるはずなのですが、直義はそれすら気にすることなく話をまとめてしまいます。無論、そこには目論見があって、天龍寺を頂点として、全国に禅寺と利生塔を建てる布石だったわけですね。興禅運動は禅僧だけが頑張ってもどうにもならないわけで、外護者が必要となります。足利直義がその外護者として期待したのが足利一門衆だったのです。
 こうやって見てゆくと、足利直義という男は佐々木導誉や土岐頼遠、高師直等のバサラ大名の誰よりもラジカルに実利を取ってきたことが判るかと思います。臨済禅興隆に錦小路慧源こと足利直義が夢窓疎石とともに果たした役割は西明寺入道北条時頼が蘭渓道隆とともに果たしたそれに勝るとも劣らない働きをしたのです。
 しかし、過ぎたるは及ばざるが如しでした。全国に安国寺を設置できる算段が付いたならば、次は中国の禅林と直結させることを構想されたと思われます。何となれば、天龍寺のスポンサードをしたのは元に遺された旧南宋禅林の流れでした。交易で栄えることが出来るならば、より安定した体制の構築が可能になるはずだったのです。その流れで行けば中国地方に探題を置き、大兵を養うことは理にかなったことでもあります。瀬戸内航路ににらみを利かせる一方、九州に残る南朝勢力と戦う前線基地にもなるからです。

 しかし、これはすでに中国地方を得ていた既存の守護達の反発を招きました。そこに足利直冬が長門探題に任じられ、守護たちは中国地方の実利から外されることが判ったからです。四条畷に楠木正行を討ち、吉野を焼いた武家方の英雄高師直はこれを好機と見て、反足利直義のクーデターを起こします。高師直はあくまでも宗家の執事であり、直冬の長門探題就任を主家簒奪の布石と見て危機感をいだいた為であろうと思います。興禅勢力はこれを非難し、師直の人格まで貶めるに至りますが、師直はためらわず実力行使をし、直義を権力者の座から引きずりおろします。しかしながら高師直には直義が目指した禅宗王国に替わる理想を持ち合わせていませんでした。あくまでも幕府の歪な権力の姿を糺そうとしたまでだったのです。故に政敵となった直義を殺害まではできなかったわけですね。高師直に対し口を極めて罵った禅僧達も、関東に逃げ去ればお咎めはありませんでした。これが高師直の限界です。足利直義は一門衆に禅宗の外護者という役割を与えていました。故に自ら僧形に身をやつして戦いに赴くことが出来たのです。
 結果、高師直は敗れ去ったわけですが、高師直の喪失は幕府にとってバランサーを失うことでもありました。尊氏と直義が和議をなすということは、中国地方に赴き、失脚して九州に退いた足利直冬に対する処遇を決定することと同義でした。足利尊氏を支える勢力がそれを許さず、足利直義も後ろに退くことは出来なくなってしまったわけです。
 最終的に直義も滅びてしまいました。彼はかつて後醍醐天皇の霊を慰める為に天龍寺を建てましたが、彼自身も祟り神として畏れられて同じ寺に封じられる運命をたどったのです。しかしながら、彼の死をもってしても動乱は収まらず、彼の遺した遺産の争奪戦はなおも続くことになったのです。

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