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2014年2月18日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅱ①キャスティングヴォート戦術

 本編においては、近江国主の佐々木導誉の視点を通じて南北朝時代を見てゆこうと思います。ただ、佐々木導誉という人物は非常に癖のある人間性で、表裏比興を恥としない人格の持ち主です。彼によって陥れられた人間も数多います。同時に極めて特異な美意識を持っており、それが現代の常識と大きく乖離しているのですね。

 同時代を生きた他の人々ならもっと単純明快に評することができます。足利直義は時代を変える意志を持った理想主義者であり、尊氏はひたすら怠惰な人格の持ち主です。高師直は言われているほど婆娑羅でも、悪徳の持ち主でもない讒謗の被害者に他ならないでしょう。あくまでも私見ではありますが、あまり外れてはいないと思ってます。
 もし、こんな感じで短く佐々木導誉を評するならば、私は彼を『天秤の担い手』と呼んでみたいです。彼はいつも、天秤の支点の位置に立っていました。両側に重さの異なる錘が乗れば、天秤は傾きます。そういう時に導誉は重い側に支点を寄せて釣り合いをとるのです。導誉はこれをもって、ものの重さを知るのです。そしてしばしば、軽い側がてこの原理で重い方をひっくり返す現象まで起こしてしまいます。それは同時に彼の喜びでもありました。
 天秤の担い手という言葉を言い換えるならばキャスティング・ヴォートという呼び方もできるでしょう。拮抗する二つの勢力のいずれかに与することにより大勢を決定づけ、勝者には勝利の恩恵享受と引き換えに実際の勢力以上の発言権を得るという手口です。

 佐々木導誉はそれに特化していましたが、その手口は彼のオリジナルというわけではありません。彼が前半生を生きた鎌倉時代の権力構造を鳥瞰し、その本質を抽出したなら、キャスティング・ヴォートを握り、天秤の担い手となることこそが、最善の戦略であることが理解できるでしょう。
 彼が師としたのはおそらくは長崎円喜入道だったのではないか、と私は想像しております。得宗家の御内人であれば誰でもよいのですが、同時代を生きた象徴的な人物として挙げてみました。この時代、得宗専制と呼ばれるほど得宗家は強大な権勢をふるっておりました。その力は得宗本人よりも、得宗家の被官に過ぎない御内人・内管領に集中していたわけです。家柄という観点で見るならば得宗家はもちろん、長崎氏が属していた平姓関氏もさしたる名族というわけではありません。しかるに何故、さしたる家柄でもない長崎氏が強大な権力を得ることができたのか。これは当時の政治状況を分析して初めてわかることです。

 当時の日本の権力構造を見るに、大きく朝廷と幕府に分かれております。朝廷は我が国発祥以来の王権を担い、幕府は新興の軍事勢力であります。朝廷はもともと軍事をも備えておりましたが、時代の流れの中でそれを軽視し、武力をもっぱら担う武士勢力に独占されてしまった結果です。その嚆矢は承平・天慶の乱に始まり、保元・元治の乱で朝廷は武家なしに存続できないことが確定し、承久の乱において朝廷は武家すなわち幕府に敗北を喫しました。そして、その対立構造は武家が朝廷を圧したまま佐々木導誉が生きた正中・元弘に引き継がれてゆきます。
 承久から元弘にかけて、武家幕府はずっと朝廷を圧し続けてきたわけですが、武家は常に一枚板というわけではありません。武家の大きな勢力としては清和天皇の末裔を称する清和源氏と桓武天皇の子孫である桓武平氏がそれぞれ大きな一団を形成しておりました。
 最初に平清盛率いる桓武平氏が武士団同士の争いに勝利し、返す刀で朝廷に侵食して位人臣を極めるに至ります。しかし、その支配は兵士に非ずんば人に非ずといった具合の排他主義的色彩を帯びたものでありました。そのため、清盛一代の終焉とともに、朝廷はもちろん、清和源氏を初めとする非平氏の武士団からフルボッコを食らう羽目に陥ります。平氏政権を倒したのは清和源氏の嫡流である源頼朝でしたが、彼を擁立し、源家の執権として幕府を支えたのは桓武平氏の流れを汲む北条時政でした。源氏将軍家は三代で滅亡します。その後に将軍家に代わって清和源氏嫡流を自認したのが足利氏でした。以後摂家や皇室から鎌倉将軍を戴き、幕府は存続し続けます。その間桓武平氏北条家は清和源氏足利家と姻戚関係を結び、大きな武士団連合を形成しました。梶原、比企、和田、三浦、畠山、安達と北条一門のライバルたる武士団がいましたが、北条家は常に多数派を形成し続け、孤立した少数派をつぶし続けていったわけです。それがうまくいっていたのは平氏北条家と源氏足利家との密接な関係であり、北条家が常に足利家に対して優位にあったことによります。
 その北条氏も勢力拡充の中、数多くの諸流をなすに至ります。その中の最大勢力は宗家である得宗家でありました。本来であれば宗家の位置を占めていたはずの名越氏とは決して折り合いはうまくいってなかったですが、それでも北条家の危機がくれば、一門内の利害対立を超えて一致結束してこれにあたりました。そこに全く隙はなく、村上源氏出身の佐々木導誉の一族もその下風に甘んじざるを得なかったわけです。
 得宗家は代々傑出したリーダーを出し続けていたわけですが、常に資質にあふれる人物を当主としてきたわけではありませんでした。多少欠点があったとしても、それを補う存在がいたわけです。それは北条一族の中ではなく、得宗家の家人が家政を担うことによって実現していたのでした。それが平頼綱であり、長崎円喜であったわけです。
 若い時の佐々木導誉は御相伴衆という得宗直属の御家人として仕え、自らの名に高時の偏諱を得て高氏と名乗ることとなりました。村上源氏出身である佐々木家の家格はその頃の内管領であった長崎円喜の家と比べれば、明らかに勝っておりました。にもかかわらず、長崎円喜の威勢は得宗をも凌ぐものでありました。それは同時に日本国全体の屋台骨を支え、その運命を左右するほどの力であったわけです。その力の構造は朝廷を圧する武家の主流たる清和源氏の幕府を支える北条家を支配する得宗に影響力を持つ内管領・御内人といったものであり、御内人単独の力などは導誉などから見ればたかが知れたものでした。であれば、佐々木導誉本人がそれになり替わることは決して不可能ではないはずです。
 畢竟、権力は多数を占める者が手にするものである。多数を占めるためには相対する二つの勢力の片側に与してその勢力を勝たしめること。勝つべき勢力の中においても内部に相対する勢力を設けてその片側に与することで優位を作ること。それを繰り返せば、佐々木導誉がどうにかできる規模の対立に介入でき、同時に大きな構造を動かすことにつながるわけです。そのためには緊張と対立を維持し、時には自らが対立を煽ることもいとわなかったわけです。佐々木導誉は鎌倉でそれを学んでいったのかも知れません。

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