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2014年2月25日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅱ④再論、妙法院焼討ち事件Ⅱ

 それから間もなくして、後醍醐天皇が崩御しました。事態の推移を見守っていた延暦寺にとってはショックな出来事だったでしょう。良きにつけ悪しきにつけ、後醍醐天皇は討幕運動のシンボルであり原動力であったわけですから。逆に言うと幕府側にとっては大きく勢力を伸ばすチャンスでもありました。そこでまず挑発行動をとったのが足利直義です。彼は洛中である三条坊門の自邸に等持寺を建てさせて、そこで父親と後醍醐天皇の法要を盛大に執り行います。そして止めのように後醍醐天皇の御霊を慰撫する為に、洛西に一大寺院を建てることを宣言します。流石に延暦寺は北朝の朝廷に働きかけて洛西寺院の建立を思いとどまるように圧力をかけたのです。佐々木導誉が妙法院を焼き討ちした時点で、幕府と延暦寺の対立は先鋭化を増すばかりでありました。そんな時に降ってわいた妙法院襲撃事件は洛西大寺院建立計画への反対運動から延暦寺の目をそらす結果をもたらしたのです。

 足利尊氏の上洛成功の結果、佐々木導誉は足利政権に参与することはできました。しかし、その過程で去就が定まらないことが何度かありました。殊に箱根竹之下合戦で導誉が行った二度の寝返りなどは、足利軍にとっては複雑な心境を起こさせたものでしょう。もっともそれは塩冶高貞が新田軍に参加していた為で、導誉が佐々木一族を割らない為のようなのですけどね。いずれにせよ、足利直義等は疎ましく思ったに違いありません。故に直義が幕府に対する導誉の忠誠心を試したのだ、という考え方はあっても良いでしょう。そして、試された忠誠心は近江の一領主が比叡山延暦寺に喧嘩を売らざるを得ないほどハードルが高いものであったのでした。

 幕府は延暦寺のというよりは、朝廷の顔を立てて導誉を上総国に流罪とすることを決定します。幕府にとっては、南朝を打倒する為に京の朝廷もそのカウンターとしての勢力を保つ必要がありました。導誉の行いはそれを損ないかねないものだったのです。幕府は罰を下すことによって、朝廷に対しては一応の筋を通したものの、佐々木導誉の流罪道中パレードを黙認することによって、延暦寺に対する配慮は一切しないことを天下に示したのです。延暦寺はこの挑発には乗らず、逼塞します。それは併せて、洛西大寺院の建立に対する延暦寺の批判は一切無視するという宣言でもありました。これ以後、延暦寺は足利直義が滅びるまで、公然とした実力行使を控えるようになります。洛西の大寺院は足利直義の夢によって天龍寺と名付けられることになりました。

 導誉が流罪の旅をしている最中の1341年(暦応四年)四月三日に、導誉の一族衆の一人、出雲国守護の塩冶高貞が粛清されます。太平記には高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕した挙げ句に振られて逆上した為などと書かれていますが、他のソースに該当するような記述はなく、あまり信憑性はありません。直義と高師直の対立関係に巻き込まれた説もありますが、讒言と言われたことが事実だった可能性もあると思います。
 ただし、先に語った導誉の事例考察に従って考えるなら、塩冶高貞にも佐々木導誉と同様に忠誠心を試される高いハードルが設定されたのかもしれません。

 その原因として考えられる事件があります。備前国児島に住する佐々木信胤が高師直の従兄弟である師秋の妻を寝取った上で南朝方について蜂起し、瀬戸内の小豆島に立てこもったという事件がありました。師秋は直義直属で仕えた高一族で政権中枢にありましたので、これが太平記以外の記録にあれば一大スキャンダルといったところでしょう。動機はともあれ、佐々木信胤が小豆島に立てこもったのは史実であります。それに前後して新田義貞の弟、脇屋義助が伊予国に入ることによって、瀬戸内は一気に不穏な情勢に陥ったのでした。折しも、天龍寺船が元国にむけて出帆の準備をしている頃合いでした。幕府内において佐々木一門全体に南朝に通じているとの疑いが持ち上がっていても不思議ではないと思います。

 塩冶高貞は元弘の変において後醍醐天皇が隠岐を脱出し伯耆国船上山に籠もった折に兵を率いて宮方に参陣し、足利高氏の京都占領を受けて、後醍醐天皇に供奉して上洛した人物です。中先代の乱を平定した後も鎌倉に居座った足利尊氏を討つ軍が催された時にはその討伐軍にも参陣し矢矧から竹之下まで足利軍を追い詰めた人物でもありました。この時塩冶高貞に足利方に寝返ることを勧めたのは導誉でまちがいないでしょう。この頃の導誉は六角・京極・塩冶・富田等からなる佐々木一門の総体の生き残りに腐心しておりました。六波羅探題陥落時に佐々木宗家当主である六角時信の助命をしました。なので、導誉に余裕があり、なおかつ在京さえしていれば、塩冶高貞は命を落とす必要はなかったかもしれません。突然京を出奔した塩冶高貞に対して、伯耆国守護山名時氏が討手として派遣され、塩冶高貞は追い詰められて自刃するに至ります。領国の出雲国は山名時氏が接収しますが、ほどなくして許されて幕政に復帰した佐々木導誉の手に委ねられます。
 幕府にとっては延暦寺を牽制し、天龍寺の建立へとこぎつけ、佐々木一門の力を相対的に落とした上で、忠誠も担保できたのですから、満点とはいかないまでも充分な成果を得ることができたと言えるでしょう。その間、佐々木一族は六波羅陥落で隠岐国守護佐々木清高を、粛清で出雲守護塩冶高貞を失ったのです。出雲守護は導誉が担う形でとりもどしましたが、導誉本人にとってみれば、忸怩たる思いだったのではなかったでしょうか。

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