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2014年2月 4日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑮オセロ・ゲーム

 足利直義による高師直罷免に始まる足利一門の一連のバトルロワイヤルは観応の擾乱と呼ばれております。この戦争では逆転に次ぐ逆転が繰り返され、その度に戦線が拡大してゆく様相を呈しておりました。それはさながら、オセロ・ゲームのようでもあります。オセロ・ゲームはそもそも、十九世紀後半にイギリスで考え出されたリバーシというゲームが起源で、日本に入り源平碁と呼びならわされていたものです。オセロ・ゲームとは戦後になって、その流れとは別個に暇つぶしとして日本人が考案したものとされています。玩具メーカーのツクダが登録商標して日本中に流行し、さらには海外にも輸出されているポピュラーなゲームとなっております。
 オセロのゲーム名は同名のシェイクスピア劇からとられておりまして、黒石を黒人将軍オセロ、白石はその妻デズデモーナをあらわすそうです。ゲームの進行につれて、白石と黒石の関係が逆転に次ぐ逆転を繰り返すことから、そのような名前になったということです。

 南朝から足利尊氏追討の綸旨をもらった足利直義はさっそく京都に入って号令します。本来ならば征夷大将軍である足利尊氏に従うべき一門衆の多くが足利直義についてしまいました。足利尾張守家、桃井、石塔等です。細川家からも顕氏が直義についておりましたし、さらには高師直と一緒に足利尊氏邸を囲んだメンバーの一人、山名時氏までもが直義についてしまったのです。尊氏もこれでは京を奪回することは難しく、播磨国守護赤松範資を頼って書写山に籠もります。これに対して直義自身も兵を率いて迎え撃ちます。両軍は打出ヶ浜で邂逅し合戦に及びます。合戦は直義が勝利しました。足利尊氏は降伏し、高師直・師泰兄弟は捕虜になります。しかしながら、高師直・師泰兄弟は京への護送中、上杉重能、畠山直宗の遺臣達に襲撃されてあえない最期を遂げてしまいました。これに足利尊氏は激怒したわけですが、もう一つ、目立たない形で報復があったようです。
 足利尊氏が本陣を置いた書写山は播磨国にあり、赤松範資が守護を務めておりました。1351年(観応二年)四月八日にこの赤松範資が京都七条の屋敷において急死を遂げてしまったのですね。前年の正月に赤松円心が同じ屋敷で亡くなったところです。この死に関しても偶然として片づけるわけにはいかないと思います。

 足利直義は表面上は足利尊氏を立て、後継である足利義詮の補佐の立場をとりました。しかし、政務の実権はあくまで彼が握った形になっておりました。しかし、打出ヶ浜の勝利をもってしても足利尊氏の軍権をうばえなかったのですね。尊氏と義詮は佐々木導誉と赤松則祐(範資の弟)を討つ為に出陣します。実際に佐々木導誉は先に南朝に降伏しており、赤松則祐も護良親王の遺児を立てて京都からの独立を企んでおりましたが、この二人は足利尊氏・義詮と組むことに成功します。そして、尊氏達を南朝方に引き入れたのでした。
 ここで足利直義は明らかに戦後処理に失敗しております。というか、尊氏方の反撃を少しも予想していなかった感じがします。慌てて京都を撤退して足利尾張守高経のいる越前に引きますが、直義が捨てた京都を尊氏が拾うわけです。

 その年は丁度後醍醐天皇没後十三回忌にあたっておりました。天龍寺において夢窓疎石はその儀式の準備に余念なくとり進めておりました。もし観応の擾乱がなければ、夢窓疎石が夢見た中国との交易ルートは完成を見ていたことでしょう。赤松円心が後ろ盾となっていた大徳寺は五山十刹の序列の中で、機能していたはずであり、宮方の海賊達に瀬戸内航路を脅かされることもなかったでしょう。
 長門探題は鎌倉府と同等の働きをなし、交易の玄関口として巨利を足利直冬にもたらしたことでしょう。それは足利尊氏邸を囲んだ中国地方の守護達に対しても、同様にかつ十分に懐を潤したはずでした。天龍寺を中枢とした政宗一体の美しい体制が完成したはずだったのです。
 それは細川顕氏と山名時氏が楠木正行に敗れることによって、はかなくも崩れていったわけです。彼らの敗北は高師直の発言力を増し、それを後ろ盾とした中国地方の守護衆を勢いづかせました。足利直義はそれを封じようとしましたが、結局の所赤松則祐や佐々木導誉等の臨済宗非主流派によって軌道修正もままならない所まで追い込まれてしまったわけです。

 足利尊氏はそんな夢窓疎石の姿を恐らくは冷ややかに見ていたのではないでしょうか。後醍醐天皇十三回忌の仏事終了の翌々日、足利尊氏は直義派討伐の為に出陣しました。そして、尊氏軍と直義軍は近江国八相山で衝突します。戦国時代に浅井長政が領した小谷城のすぐ傍にある虎御前山のことなのですが、ここで直義は敗北を喫するのです。もはやこのまま京を取り戻す余力はありません。もはや再び京に入って夢窓疎石の理想の助けとなることはできなくなったのです。1351年(観応二年)八月二十二日、足利尊氏は四条櫛笥にある法華宗(日蓮宗)の妙顕寺に充てて、乱入狼藉禁止の制札を出すようになりました。
 これは尊氏が妙顕寺を予防的に守るということよりも、そういう被害がでたから乱暴狼藉を禁じたと解するべきでしょう。妙顕寺は翌年の二月に延暦寺配下の祇園社によって破却されます。すなわち、法華宗(日蓮宗)妙顕寺を破却したのは比叡山延暦寺です。すでに延暦寺を挑発する者も、延暦寺の強訴を止められる者も幕府の中にはいなくなってしまったことを意味しております。
 それは三条坊門に立った幕府の統制の崩壊、直義と夢窓疎石が構想した宗教秩序構築の頓挫を象徴するものでもありました。夢窓疎石も後醍醐天皇十三回忌の法要の翌月末、九月三十日に入寂します。その翌年、足利直義は鎌倉で尊氏の捕虜となり、非業の死を遂げる運命を迎えます。時に1352年(文和元年)二月二十六日、高師直の命日でもあります。当時の資料では太平記だけが暗殺説を流していますが、この偶然で片づけるには高師直の命日との一致はできすぎだということで、支持されることが多いです。1358年(延文三年)二月十二日に従二位が死後追贈されます。この年の四月に足利尊氏は死去しておりますので、死期を悟った尊氏の臨終前の罪滅ぼしということでありましょう。さらに、1362年(貞治元年)七月になって、尊氏を継いだ義詮の奏請により足利直義は正二位の追贈と、大倉二位大明神なる神号を贈られて天龍寺に祀られることになりました。その前後に流行り病が発生し、それは直義の怨霊によるものと噂された為といわれております。

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