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2014年2月22日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ③再論、妙法院焼き討ち事件Ⅰ

 1336年(建武三年)、官軍は捲土重来した足利尊氏に蹴散らされました。後醍醐天皇を守護する英雄である楠木正成をもってしてもそれを押しとどめることはできなかったのです。尊氏は京都に入ります。後醍醐天皇は比叡山延暦寺に立てこもって官軍は市街戦を挑みます。対する足利軍は比叡山を大軍で押し包んで籠城戦の様相を呈します。結局、後醍醐天皇は降伏し、捕虜となりますが、すぐに脱走して吉野で朝廷を作りました。これが南朝の起こりです。

 南朝は出足から前途多難で、1338年(暦応元年)には新田義貞が戦死し、その翌年の1339年(暦応二年)には後醍醐天皇が崩御したことによって、その求心力は急激に低下します。京においては幕府が置かれ、新体制の構築が急がれておりこれでようやく世情も落ち着くように見たところで一大事件が起きました。

 1340年(暦応三年)、佐々木導誉が延暦寺の門跡寺院である妙法院といざこざを起こしたのです。きっかけは紅葉の枝を折ったの折らないのといった些細なことだったらしいのですが、佐々木導誉は本気で自らの郎党を動員して、延暦寺配下の門跡寺院である妙法院を焼き討ちしました。この経緯において事態を悪化させているのは明らかに佐々木導誉本人なのですが、これがいささか解しかねます。
 端的に言って、これは佐々木導誉が延暦寺に理不尽に喧嘩を売った形になっております。しかし、佐々木導誉の立場を考えると、その理由を推し量るのが難しい。第一彼の領地は近江にありました。そして、延暦寺は近江・山城国境の要害にあって、琵琶湖に面した寺内町の坂本において、琵琶湖湖上水運を一手に握っております。延暦寺を敵に回して近江で生きてゆけるはずがありません。それだけではなく、妙法院は延暦寺配下の寺というだけではなく、時の妙法院門跡が光巌院の弟にあたる亮性法親王なので、朝廷に対する立場まで悪くしております。

 幕府は佐々木導誉に罰を与えますが、そこでも導誉は配流をパレード化して延暦寺を挑発しました。焼き討ちやパレードは当時の常識から見ても道理を外れた行いであるのですが、導誉にとっていずれもメリットの無い話なのですね。まず、延暦寺からの恨みを買ってます。こののち導誉の二人の息子が戦死するに至るのですが、それは延暦寺に対するこの理不尽の報いだなどと、太平記に書かれたりしています。佐々木一門庶流の京極家でありながら、宗家である六角氏をさしおいて一門筆頭に躍り出た導誉にとって、ここで延暦寺とことを構えるのはリスクが大きすぎる話でした。配流パレードにしても、その後それを口実に刺客を配流先に送り込むなんてことは過去の類例を見れば枚挙にいとま無く、幕府がそれをもって追加の致罰を行わない保証が無くてはできないことでしょう。故に妙法院焼き討ちに始まる一連の事件を導誉単独で思いついてやってのけたとは考えにくいのです。後になって刺客が放たれるリスクを考えずに配流をパレード化したとすれば、それはむしろ、幕府の命令に従って敢行したものであったように思われます。

 では、幕府に延暦寺を挑発する動機があったかと問われれば、大有りでした。1336年(建武三年)に制定された建武式目で、足利幕府は京都に置かれることが定められました。関東武士団連合というバックボーンを有していた鎌倉幕府とは異なり、開幕以前には京都とのつながりは非常に希薄だった足利家です。そこに割って入るには関西の非常に入り組んだ既得権益をこじ開けて、自らの居場所を確保する必要があったのです。武家勢力は足利一門とその与力衆で対抗する目途が立っておりましたが、手つかずだったのが寺社勢力です。その中でも、事あるごとに他宗を排斥弾圧してきた延暦寺は真っ先に手を打つべき対象でもありました。

 後醍醐天皇はすでに吉野に退いておりましたが、延暦寺はそれについて行って引っ越すわけにはいきません。和議を結んだとはいえ、敗軍が立てこもった城であったのですから、新たに立てられた光明天皇の朝廷に対する延暦寺の影響力はいささか削がれておりました。
 幕府の側も、越前国金ヶ崎城を落とした折(1338年(暦応元年))に、延暦寺を潰すべきかどうかが議論され、当代の知識人、玄恵法印の説得で見送られたと太平記には記述されております。玄恵法印は建武式目を起草した八名の中に名を連ねており、幕府は京都に置かれるべしとの方針策定に携わった人物でもあります。
 建武式目は足利幕府による施政方針を描いたものですが、その起草に携わった玄恵法印が比叡山延暦寺の存続問題について発言があったとされていることは、式目発布後も国家の方針を定める会議が三条坊門邸の幕府で行われていたということでもあります。
 足利幕府の宗教上の方針をかんがみるに、足利兄弟は禅宗に帰依し、この後、興禅運動を全国的にかつ強力に推し進めてゆきます。その推進に最大の障害になると想定されるのが延暦寺でした。
 この会議の結果次第では、比叡山を新阿育王山に改称し、かつ延暦寺の跡地に南禅寺を勧請するくらいのこともありえたでしょう。延暦寺の存続は実際には太平記で玄恵に言わせたような、日本国に欠くべからざる神威であると判断されたためです。しかし、状況が変われば結論も変わりえる状態だったわけですね。

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