« 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑬夢窓との距離 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑮オセロ・ゲーム »

2014年2月 1日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅰ⑭反動

 高師直は勝利しました。足利尊氏邸に籠もった足利直義とその支持者達は全面降伏したのです。足利直義は政務を退くことを余儀なくされ、直義の執事を務めた上杉重能と側近畠山直宗は越前に配流となりました。

 その時、足利直冬は長門探題として備後国鞆におりました。彼には長門、周防、安芸、備後、備中、出雲、因幡、伯耆の成敗権を得ておりました。しかし、その中の出雲国守護山名時氏、安芸国守護武田信武、備後国守護細川頼春、備中国守護高南宗継が在京で足利尊氏邸を包囲したり包囲されたりしていたのです。直冬就任に前後して守護職を追われた元長門国守護厚東武村、元周防国守護大内長弘らしき人物も在京です。時期的にはややずれますが、吉良貞家も元因幡国守護でありました。彼らは本来であれば足利直冬の隷下にあってその軍事力を提供すべき立場にありました。にもかかわらず、彼らが悉く在京しているということは、一時的にはであるかもしれませんが、彼らの在国への支配権は放棄されており、残された地の軍事権を足利直冬が握っていた可能性があります。とはいえ、当時の守護は鎌倉幕府の大犯三箇条に毛の生えた程度のものでしかありません。本格的に守護領国制度が機能するのは、観応の擾乱以後のことになります。

 そうした所に足利直冬が入ってゆくのですから、当然それに見合った軍勢はひきつれていったものと思われます。守護不在の国であれば、影響力を行使することに大きな不都合はないでしょう。とはいえ、直冬も長門探題に任じられてからわずか四ヶ月程度でしたので、中国地方西部全域に勢力を及ぼせたわけではないと見てよいかと思われます。
 とすれば、高師直が次に打つ手は足利直冬の中国地方からの排除です。鞆近辺の地頭・御家人に直冬を襲わせるとあっさり九州を目指して落ち延びます。しかしながら、そこからの再起が極めて早いわけですが、それも彼自身が軍団を率いていたことの傍証になるかと思います。

 高師直は急いで組閣します。十一月に鎌倉府にいた足利義詮を京に迎え入れるに前後して、中国地方の勢力図を再び塗り替えます。厚東武村は長門国守護に復帰しました。備後国守護には大平義尚を配しました。彼ら二人は足利尊氏邸包囲網に参加しております。石見国は直冬探題就任と同時に守護が不在となり、周防国も直冬の被官である上総左馬助が去った後は守護不在の地と化しておりました。
 小康は保ったように見えますが、その裏側で不穏さは止めどなくエスカレートしていました。1349年(貞和五年)十二月、越前に流された上杉重能、畠山直宗が暗殺されます。これで中国問題の京における懸案は解決されたものとされて、焦点は足利直冬の軍団と応急処置しか済んでいない中国地方西部方面です。
 石見国住人に三隅兼連という人物がいました。彼は元々南朝方の武将でしたが、上野頼兼が石見国守護をしている間は頭を押さえられておりました。彼が上野頼兼が守護を罷免され、足利直冬が長門探題を去った間隙をついて蜂起したわけです。高師直はこれに兄、高師泰を差し向けます。

 一方、同じ月に政務を退いた足利直義は出家して、恵源と名乗りました。一見、政務を退いて俗世から離れたようにも見えます。しかし、よく考えてみれば佐々木導誉の『導誉』とか、赤松円心の『円心』は道号であり、彼らは法体のまま俗世で武将をしているのですね。出家前、足利直義は夢窓疎石の指導を受けておりました。恵源の道号を与えたのも彼と見えて差し支えないでしょう。寧ろ、足利恵源は自ら作った五山衆の陰に隠れて暗躍がし易くなったと考えることもできるのではないでしょうか。

 そうしたフィルターをかけてみると、その翌月に興味深い事件が起きていることに気づきます。播磨国守護赤松円心は高師直に味方して、軍備を整えておりました。高師泰の中国遠征に同道すべく準備していたのですが、明けて1350年(観応元年)正月になって俄に亡くなってしまいます。彼の死に関しては暗殺という話は残っていないのですが、時期が時期なだけに微妙な疑いが残ります。赤松円心は高師直につき、五山に漏れた大徳寺の檀越でした。それが高師泰とともに、守護不在の長門に根を張れば、既に摂津・播磨を抑えている赤松氏は瀬戸内の水運を抑え、すなわち中国へのルートを抑え、結果として臨済宗の権威がもう一つ出来上がってしまいかねない事態となります。
 結果として、石見の三隅兼連の討伐には高師泰が引き受けることになりました。それに付随して、一時的ではありますが師泰は石見国と長門国両国守護になります。とはいっても、三隅兼連は籠城策をとり、それを攻めきれない内に、九州では足利直冬が看過できない程の勢力を伸ばしていたのです。
 それに呼応して、足利直義は姿をくらまします。既に出陣の準備をしていた足利尊氏は迂闊なことに、そのまま中国地方に遠征に赴きましたが、それは大間違いでした。足利直義は南朝に降伏し、南朝は直義に足利尊氏討伐の宣旨を与えたのでした。

Photo

|

« 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑬夢窓との距離 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑮オセロ・ゲーム »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/59013223

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑭反動:

« 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑬夢窓との距離 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅰ⑮オセロ・ゲーム »