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2014年3月29日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑯仏教王国ヤマト

 ここまでもっぱら、武家の動向について見てきましたが、宗教側の動向について一稿割いておきます。佐々木導誉が妙法院を焼き討ちして叡山を自重させ、その間に足利直義、夢窓疎石による天龍寺プロジェクトが成功しました。しかし、それも束の間、間もなくおこった観応の擾乱に直義も夢窓も巻き込まれその最中に亡くなってしまいます。足利義詮の代には直義が行った、天龍寺や全国一寺一塔運動のような目立った動きは差し控えられておりました。というより、分裂した幕府の立て直しに手いっぱいで寺院建立どころではなかったのですね。
 そんな間隙をついて、じわりと影響力を行使し始めたのが、旧仏教系の勢力でした。

 旧仏教といっても、京に根を張る天台・真言の平安二宗と大和国にある法相、倶舎、三論、成実、華厳、律宗の南都六宗に大別されます。そもそも平安京とは平城京に跋扈する寺院の影響力にいやけがさした桓武天皇が、その影響力を及ばないところとして選んだ地でありました。なので、平安京が作られたといっても大和国におけるそれらの仏教寺院のプレゼンスが消滅したわけではないのです。
 平安時代になって全国各地に荘園が置かれます。荘園とは何かについて、念のために説明しておきますと、建前上律令体制下においては、私有地というものは存在しませず、すべてが国衙領でありました。しかし、743年に墾田永代私財法の発布により、新規開拓農地に私有が認められたことに端を発します。その時代は私有財産制度そのものがありませんでしたので、せっかく開墾した土地を朝廷が国衙領に編入して租税を課すなんてことが行われました。開拓者はそれではたまったものではありませんので、有力者、すなわち貴族ですね。貴族に開墾地を寄進し、収穫の一部を貴族に渡して保護してもらうことと引き換えに、自らは荘官として開墾地の差配を引き続き行うという取り決めを結びました。これを寄進地系荘園といいます。平安時代は貴族だけではなく、禁裏の皇室や皇族や、寺社も荘園を持つようになり、結果として国衙よりも荘園の方が多いという事態となりました。
 そんな荘園は保元平治の乱から鎌倉、足利時代にかけて武家によって侵略されまくっておりました。農地の要所要所には地頭が置かれて荘園の上がりを奪い取っていったわけですね。貴族達はこれに対抗する武力をもっておりませんでした。それもそのはず、武士とはもともと荘園のガードマンだったわけです。彼らが平氏や鎌倉殿等の武家の棟梁を仰いで荘園を支配する領家から自立していったのです。これは全国的に発生した現象だったわけですが、唯一武家による荘園侵略が思うように進まなかった国がありました。それが、興福寺が支配する大和国です。

 興福寺は法相宗の大本山で、藤原一門の氏寺でありました。藤原一門といえば、摂関家を中心に朝廷を牛耳る最大の帰属勢力だったわけですが、もともとは中臣氏という大和国の出身豪族から出たものです。故に、大和国と藤原氏は大変深い関係があり、藤原氏所有の荘園がさらに興福寺に寄進されるということもありました。
 平安時代末期後三条院が院政をはじめた折、院は摂関家の干渉を排除するために側近を中小貴族でかためたわけですが、それに対抗して時の関白藤原師実が自らの子息を興福寺に入れ、なおかつ興福寺を大和国国司につけたのでした。この慣例は鎌倉時代になっても変わりませんでした。源頼朝は全国に守護を置いたとされますが、大和国においては例外でありました。
 それは相手が僧侶だからという表面的な理由からではありませんでした。彼らは延暦寺と同じく京に強訴を行うだけの実力を有していたからです。興福寺は朝廷に対して圧力をかける手段をもっておりました。それが春日大社の神木と呼ばれるものです。

 春日大社は興福寺の寺域内にあって、藤原氏の守護神である建雷命(タケミカヅチのミコト)を初めとする四神をまつった氏神社です。神木はその守護神が宿る依代とされております。興福寺と朝廷の間でもめ事があった時、興福寺宗徒は合議の上、この神木を担いで京都の禁裏前に転がして放置します。
 行為としてはたったそれだけのことなのですが、これが非常な効力をもっておりました。そもそも朝廷の貴族達の大半は藤原氏であり、この神木に対して粗相があれば、そのものは興福寺と春日大社の人別帳から除却されてしまうのです。すなわち、興福寺と春日大社はその者を藤原一門であるとは認めないという意味なのですね。それは貴族としての地位・特権のすべてを失うことを意味しておりました。これを放氏といいます。ただでさえ、不吉なものに対しては方違えなどしてこれを避けた人々です。ある意味『呪いの塊』のようなものを禁裏のど真ん中に置かれてしまえば、そこで政務をとるのは不可能になります。実質、朝議はストップし、興福寺の要求を禁裏が呑むというのが概ねのパターンでした。

 さて、興福寺は越前国坂井郡川河口に荘園をもっていました。武家政権である足利氏は各国の守護に荘園から反済をとることを許しておりました。この越前国守護が足利尾張守高経です。彼は幕府の命令として同荘園に反済をもとめ、当然のごとく年貢をとりました。これに我慢できなかったのが興福寺であり、衆議の上満場一致で神木を動座させることに決しました。
 この二年後に足利尾張守高経は失脚の憂き目を見ますが、彼の失脚自体はこれが直接の原因というわけではありません。しかし、この神木動座が後々、厄介な問題となって足利政権に降りかかることになるのです。

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2014年3月27日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑮導誉いぢめ

 かくして、足利尾張守高経は幕府の実権を握りました。それは帰参組が幕政トップについたことと同義であり、観応の擾乱に伴ういざこざで幕府を敵に回してしまった武将達も、帰参しても罰せられないばかりか、やり方次第では以前以上の待遇も勝ち取ることができたのです。南朝は九州を除けばすでに死に体です。離反組はずっと離脱のチャンスをまっていましたが、義将の執事就任で、それを実行に移したのです。
 帰参したのは周防の大内弘世と因幡、伯耆、石見に勢力を持つ山名時氏の二人でした。幕府は大内弘世を長門・周防国守護につきました。それまで守護を務めた厚東義武は守護を免じられ、南朝につきました。と言っても、この時点で厚東氏は長門の支配権を喪失した名ばかりな守護となっていたようで、現状追認という形での決着ということになります。彼の庇護下には高経の次男、氏経がおり、彼の存在が何らかの取引材料となったのかもしれません。この氏経は高経・義将親子が幕府の実権を握っていた期間中はずっと周防におり、帰洛したのは高経の失脚後、それも出家隠遁の身となっていました。
 同じく、山名時氏も自領を安堵され、勢力を保ったまま幕府に帰参することに成功したのです。これを機に中国地方の一和は実現しました。中国探題として山名、大内と相対していた細川頼之は解任されてしまいます。もっとも、四国で従兄弟の清氏を討ち取ってから間もなくのことでもありますので、頼之としても四国の経営に専念したかったところではないかと思われます。
 大内と山名の帰参について、佐々木導誉にとってみれば出雲国守護の座をめぐって山名時氏と対立していましたから、彼にとってはあまり愉快な話ではなかったかと思われます。

 さて、高経は幕府と袂を分かつ以前には足利直冬派、さらに遡って足利直義派に属しておりました。足利尊氏の京都占領と同時に、一門衆は各地に征旅に出、高経は北陸方面軍を率いて、新田義貞を討つことに成功したのですが、その功はなぜか足利尊氏に認められるところではありませんでした。一説に新田義貞が持っていたという銘刀を高経が着服したからとも言われておりますが、多少フィクション臭のする話です。実際は一門衆筆頭であるところが警戒されたのでしょう。一門衆の秩序からはずれた高師直と足利直義が争った時には、直義側についております。逆に佐々木導誉はその間ずっと政権の中枢を占め、存在感を増しておりました。
 そんな高経が執事後見として幕政に関与するならば、佐々木導誉の影響力を削ぐところから始めなければなりません。但し、それは細川清氏の轍を踏まないように三男の氏頼に佐々木家から嫁を取らせました。導誉とて、勢力の小さい幕府の実力者として終わることは良しとはしなかったと思われます。すでに後醍醐天皇や足利兄弟はこの世になく、京童から古狸と評されるほど年を経た導誉ですから、次代に何を残すかを考え始めたのではないかと思います。幕府の権威を高めなければならないことは理解していたものの、足利一門ではない外様の彼ではやりきれないことも多いことは確かでした。だから高経との連携が模索されたのですが、結局のところ、それは氏頼の出家隠遁という結果に終わってしまいました。

 一応、高経は目指すべき政治ビジョンを持っていました。それは1340年代に足利直義が取り進めていた方向性です。将軍がいて、将軍を支える一門衆がいて、その外郭に武家を置くやり方です。導誉と妥協してそのほかの方策を模索する道を取るべきだったかもしれませんが、それは老い先短い彼の人生の否定であり、彼の名門意識はそれをすることは許さなかったのです。
 彼の政策は増税によるインフラ整備と法治の徹底にありました。増税は不人気策であり、インフラ整備には佐々木導誉や赤松則祐らに担当させたのですが、彼らは能力が足りなかったのか、意識的にサボタージュをしたのか税を滞納したり、納期を遅らせたりするなどの不始末をしたのです。これに対して、高経は守護職罷免や彼らが経営する荘園を取り上げたりして対応しました。そして、五男義種を侍所頭人兼山城守護に起用し、権力基盤を固めにかかったのです。
 高経は息子の義将とともに四年間執政を務めましたが、その間に還暦を迎えてしまっておりました。導誉はその十歳年上ですが、未だ意気軒昂です。高経は寿命のある間に幕府の屋台骨を立て直して、足利尾張守家執政の道筋を立てたかったのでしょうが、多少急ぎすぎた感はありました。

 その結果として観応の擾乱を似た事件を引き起こすことに至るのです。

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2014年3月25日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑭執事から管領へⅡ

 足利尾張守家の長男は戦死しており、次男が捕虜となって候補から外れた時、世間の耳目は三男氏頼に集まりました。佐々木導誉にとっても娘婿の栄達は自らの立場の強化につながりますからその風説を歓迎しており、氏頼本人も半ばその気になっていたようですが、それを足利尾張守高経はひっくり返して、四男の義将を執事に任命します。これには氏頼や導誉も驚かざるを得ないことでした。  足利尾張守高経が想定していたのは、執事はあくまでも足利家の家政のみを見て、実質的な政務は足利直義のような一門衆筆頭が見る形でありました。なので、政務は自分が見て、足利尾張守の家督は氏頼に譲るつもりだったのでしょう。  なぜ、こんな複雑な形を望んだかと言えば、足利直義と高師直のような対立構造を二度と起こさない為であったと思われます。足利尾張守高経は一門衆筆頭であり、執事の父の立場から、将軍と執事ににらみを利かせることができるのでした。  この体制で宙ぶらりの立場におかれてしまったのが、氏頼でした。彼は若狭国守護の座を与えられており、兄が南朝方の捕虜になってしまったという不面目な脱落をしてしまった今、父高経の後継候補の最右翼であった筈なのですが、彼自身には若狭守護以上の何の権限ももたらされなかったのです。彼は足利尾張守家の家督の筈ですが、惣領の座は依然として高経の手にあり、弟の義将は将軍の意向を直接受けて氏頼を含む全国の諸侯に号令をする権限を持ってしまったのです。舅の顔を立てる為に兄として弟に影響力を行使しようとしても、弟の背後には父が後見しており、それは叶わないことでした。  同じく割を食うことになったのが、佐々木導誉です。プライドの高い高経は帰り新参のみであるが故に、自身が執事職に収まること自体は色々と理由をつけて断ってくるだろう、そして、彼が後継者としている氏頼(彼は導誉の娘婿です)に執事をさせるだろうと読んでました。それで始めて幕政は安定すると考えていたのです。  ところが、上述した理由で義将が執事となり、家政は義将、国政は高経自らが見る形になってしまっては、氏頼を通して自らの意志を幕政に関与させることができなくなってしまいました。彼は武家の意向を朝廷に奏上する役目を負っており、さらには赤松則祐に娘を娶らせました。同様に足利尾張守高経が帰参したての折には氏頼に娘を娶らせて自らの閨閥を形成して幕府に影響力を確立しておりました。故に、細川清氏を追い出すという荒業を使うことができたのです。ところが、足利尾張守家に嫁をやったとはいえ、その惣領が執事の父として、一門衆筆頭として幕閣中枢に入ってしまって、導誉の高経に対する優位は完全に崩れてしまいました。  当然、導誉は氏頼を通じて圧力をかけますが、氏頼は高経に対する交渉カードを持っておりませんでした。弟だけなら対抗できたかも知れませんが、弟の背後には父がいるのです。かくて、足利尾張守氏頼は実父と岳父との板挟みになり、若狭国守護を辞して出家遁世することとなりました。導誉のように出家しても現役のままでいるのではなく、世捨て人となって近江の寺院に引きこもったのです。高経から見れば、親の心子知らず、と言ったところですが、氏頼からすれば、実父と岳父との対立は可能な限り避けたかった筈です。彼の引退はそれが不可避であることを悟ったことが原因でありましょう。その意味で、優しすぎたと評価できるかも知れません。氏頼は直冬と同類です。こういう詰めの甘い性格の人物が足利一門には多いですね。  結果として、氏頼が担当していた役職は高経預かりとなりました。そして、家督は執事たる義将に与えざるを得ない状況となったのです。そうなると、義将は後々足利尾張守家だけではなく、将軍の藩屏たる一門衆筆頭の後継者となるわけです。そうすると、執事は足利将軍家の内々の家政のみを見るのであるとは言ってられなくなりました。仁木頼章や細川清氏がやっていたようなに、将軍代行を一手に引き受ける形にせざるを得なくなってしまったのです。執事の職分は広がったまま常態化してしまったわけです。それは執事という役割自体を見直す契機となりました。

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2014年3月22日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑬執事から管領へⅠ

 足利尊氏の死後、細川清氏の執事が短命に終わったことにより、その後継をどうするのか丸々十ヶ月の歳月を費やしました。おおむね仁木頼章が死んでから、細川清氏が失脚してまでの期間に匹敵します。ぶっちゃけて言えば、適当な候補がいなかったことにつきます。それに高師直や細川清氏らは執事になってろくな目にあっていません。白羽の矢が立ったものがしり込みしたとしてもやむを得ぬことではありました。
 それでも、敢えて候補を探せばいるにはいました。例えば、佐々木導誉です。彼は毀誉褒貶の多い人物ではありましたが、足利尊氏や足利義詮ら、将軍職についた者に対しては忠実でありました。敵が多いことの裏返しではありますが。実際、細川清氏の追い落としを画策したのは、彼自身であり、その後釜に彼がつくことはなんとも後味の悪いことであります。何より、彼自身は足利一門ではなく、佐々木一族の代表としてその利益を確保する為に、幕閣にいる人物であります。そもそも執事とは家の子、すなわち家っ子=奴(やっこ)の代表であり、たまたま主人が将軍という高位につけた為に、権力がついてきたものに過ぎません。佐々木導誉が執事となることは、佐々木一族が足利宗家の奴隷であるということをふれて回ることと同義でした。
 仁木や細川は足利尊氏が上洛するまでは三河の土豪に過ぎませんでした。それが、丹波や四国の方面軍を任されることによって国の奪取に成功したのですから、一門衆とはいえ、家奴となることに抵抗はすくなかったでしょう。佐々木導誉とは立場を異にする人々でした。

 もう一人、候補がいます。それは足利尾張守(斯波)高経でした。今までさんざん触れたように、足利尾張守家は足利宗家と同格、嫡流だけども事情により宗家を継げなかった家柄でした。それだけに、宗家の家の子となる執事就任には渋りまくったのです。それでなくとも、彼は観応の擾乱においては、直義、直冬方につき、直冬を奉じて都に攻め込んだという経歴の持ち主でした。ただ、直冬のメンタルの弱さに愛想を尽かして幕府側に寝返ったわけでした。当時の幕府は弱体で、足利尾張守(斯波)高経のような有力者の寝返りは歓迎こそすれ、拒絶などは考えられない程でありました。とはいえ、一門衆の中でも帰り新参であるという負い目があったことは確かです。
 だから、自身に執事就任の話が舞い込んできた時、執事のことをこう表現して断っています。
「そもそも執事とは高一族のような家人か、上杉氏のような外戚がなるべきものである」と。
 鎌倉時代を通して、足利尾張守家(斯波家)と足利宗家の格の違いを定めてきたのは常に北条家の意向でした。故に、両家は競って北条一族、それも得宗家の娘との婚姻と、得宗の偏諱を求めてきました。その北条家が滅びて、足利尾張守家(斯波家)と足利宗家の格を測るものはなくなったはずでした。しかるに、宗家は将軍家となり、方や斜陽の南朝を支える武家の一つに過ぎなくなっていました。おそらくは足利尊氏の長子である直冬をかついでみて、能力やカリスマは自らが勝っていることを自覚したでしょう。それは義詮とてそう大差があるわけではありません。だから、直義が作った幕府に戻れば、主導権を取り返すことができることを確信したのでした。

 高経はプライドの高い人物です。しかし、だからと言ってその意が単純に自らの血統意識を顕示したものとは限らないです。むしろ、執事は執事として、家政のみに専念し、政治は一門衆に委ねるべきとしたのでしょう。そう考えると、この時期に高経がとった行動は解釈しやすくなります。
 足利尾張守高経は断りましたが、彼には五人の男子がおり、周囲の注目は彼らに集まりました。五子とは長男の家長、次男の氏経、三男の氏頼、四男の義将、五男の義種です。
 長男の家長は北畠顕家と鎌倉で戦い戦死しています。その後の嫡子として高経が見ていたのが、三男の氏頼でした。彼には早くから官職につけ、若狭国守護も任せておりました。帰参後は幕閣の重鎮となった佐々木導誉の娘を嫁にもらっております。ちなみに、氏頼の名は佐々木導誉の属する佐々木一門の宗家当主の六角佐々木氏頼と同じ名です。佐々木導誉、足利尾張守高経が執事にならないのであればと、衆目は高経の子である氏頼に向くのは必然でしたが、高経にとっては迷惑な話でした。
 高経は足利尾張守家から執事を出すことがやむを得ないにせよ、執事が政治に関与することを避けさせたかったのです。その為に執事は惣領に努めさせてはならないとも考えてました。将軍が執事を抱き込んで足利尾張守家に干渉した時、執事が兄であれば抗することができないからです。
 いずれにせよ、次男氏経には家督を継がせる気はなかったので、高経は彼を九州探題に任命して京より追いやりました。直冬の中国探題とは違って、守護の入れ替えはほとんど行っておりません。また、ろくに兵も与えておりませんでした。その頃の九州は、直冬が追い出された後幕府と南朝が戦って幕府側の旗色が悪くなっていた頃でした。そのあたりの事情はあまり斟酌された形跡もなく、九州に降った氏経は長者原の合戦で敗北し、周防の大内弘世の保護下にはいりました。この時点で大内弘世は南朝方だったので、実質捕虜としてみるべきかもしれません。

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2014年3月15日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑫婆娑羅の躍如Ⅱ

 足利尾張守高経は直義派の重鎮であり、彼の投降は南朝方に大ダメージを与えることになりました。足利尊氏はこの頃病魔に冒されており、先が長くないことは見えておりました。後継者は三帝拉致を許した未熟な義詮であれば、今の内に幕閣に入れば自らを高く買わせられると判断したものでしょう。実際、足利尾張守家の家格は足利宗家と同等かそれ以上です。鎌倉時代に北条一門内の争いで名越氏が粛清させられていなければ、尾張守の血統は足利宗家になり替わっていたことは間違いないのですから。とはいえ、帰り新参では幕閣の中でも立場が弱く、婚姻政策をして立場を強化する必要がありました。その為に、息子の氏頼を佐々木導誉に娶らせたのでした。氏頼は足利尾張守高経の三男です。長男の家長は建武の乱において、奥州にいた北畠顕家の南下を鎌倉で押しとどめようとして敗死しています。次男の氏経は後継者とし、三男に導誉の娘を娶らせて自らの立場を固めたのでした。もちろん、この婚姻は佐々木導誉本人の幕府におけるプレゼンスを高める結果となったのです。まさに、ウィン・ウィンの関係でした。

 細川清氏は執事として幕府の政治を執り進める上で、導誉が張り巡らしたこれらの利権にぶつからないわけにはいきませんでした。例えば、この頃に加賀国守護の富樫氏が代替わりをしたのですが、佐々木導誉は子息に継職を認めずに、隣国越前国の守護である足利尾張守氏経に守護兼任を勧めたりします。この話は細川清氏が突っぱねました。すると別の機会で、帰参してきた頓宮四郎左衛門尉に領地を返還するようにと清氏が命じた時、これは赤松則祐が預かった領地であると、返還を拒んだのでした。無論、則祐の舅が佐々木導誉であることは偶然ではありません。やむを得ずこの頓宮四郎左衛門尉には清氏が守護をやっている越前国の守護代を務めさせることになりました。

 細川清氏が佐々木導誉を意識仕出した時、佐々木導誉が仕掛けます。足利義詮が七夕の夜宴の開催を細川清氏に命じて準備させていた所に、佐々木導誉が自邸で盛大な七夕パーティーを企画して招待状を足利義詮に送りつけます。その内容はまさに婆娑羅の面目躍如と呼ぶべきもので、七夕にちなんだ七尽くしの『闘茶会』でした。茶会といっても千利休の侘び茶はまだない時代のこと、種々の茶を飲み比べてその産地を当てさせるというゲーム的な趣向の会で、企画としては清氏の型のはまったものよりよほど面白いと、準備を命じた義詮本人が清氏の夜宴をキャンセルして、導誉の闘茶会の方へ赴いた為、清氏の面目が丸つぶれになりました。
 導誉はそれに畳み掛けるように、清氏が義詮になり替わらんとして、呪詛をしようとしていると義詮に讒訴します。何の根拠もないことで、難太平記では清氏には何の罪もないのに、導誉にはめられたとのべられています。それを真に受けた義詮は呪詛に対抗すべく、東山にある新熊野観音に避難します。
 当の清氏にとっては何が何だかわからない内に、将軍が洛外に出たことにあっけにとられてしまいますが、事情を悟って京を退去します。仁木義長を失脚してから半年余りの短い政権でした。とはいえ、中国方面軍としての実力者としての矜持は彼に反乱を起こさせます。南朝に降って挙兵し、楠木正行の弟である正儀と組んで一時的にではありますが、京を占領するに至ります。

 京を占領されかけた折、佐々木導誉は自らの居館を掃き清め、家宝で飾り、酒の振る舞いの準備をさせた上で撤退します。京を占領した細川清氏と楠木正儀はそれぞれ割り当てられた拠点を占領します。清氏は足利義詮の三条坊門邸を焼き払ってしまいました。楠木正儀の割当地に佐々木導誉邸があったのですが、導誉の館の粋なはからいに感服し、焼き払いも略奪もせずにそこに居座ります。占領がかなわなくなった折には、そこに鎧と太刀を置き土産にして撤退したのです。
 結果的にこれが南朝軍による最後の京都占領となりました。京都占領が失敗に帰したのは、細川清氏が急いでことを進めた為に、各地の南朝勢力がこれに間に合わせることができなかった為です。何とかついてこられたのは楠正儀だけだったのですね。細川清氏の失脚から京都撤退までわずか三ヶ月間のことでした。清氏側としては、まだ幕府内で名望が残っている内にことを起こさないと、京を占領できるだけの兵力を集められないという事情もあったのです。現に、仁木義長は兄の遺領を合わせて九か国の守護を兼任していましたが、失脚後して南朝に降った後は伊勢に逼塞せざるを得ない羽目に陥っています。

 楠木正儀の行動については、京童の間でも賛否両論。粋人として絶賛したものもいれば、佐々木導誉に騙された愚か者と評したものもおりました。いずれにせよ、楠木正儀としては南朝に未来がないことを見通して、和解のサインを送ったのだとすれば、これはこれで後の布石となりました。
 それに対して、細川清氏は畿内に勢力を留めることができなくなって、四国に撤退することを余儀なくされてしまいます。彼の治世は短すぎました。何をしたかったのか判断できないというよりは、何もさせてもらえなかったといっていいでしょう。最初にやったことが佐々木導誉の利権を冒すものだったことが政治生命の絶たれる原因だったという所でしょうか。

 これをもって足利尊氏死後の執事職は誰がふさわしいか。それを決める為の争いに、足利宗家当主でも、一門衆でもない、佐々木氏庶流の婆娑羅者である京極高氏が介入しうることが、満天下に示されたわけです。

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2014年3月13日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑪婆娑羅の躍如Ⅰ

 足利尊氏の死後、それまで執事を務めていた仁木頼章は仏門に入り、一門衆の細川清氏が足利義詮の執事になったと言われています。しかし、私自身は多分これは正確ではないと考えてます。と言うのは僧形であっても現役武将をやっている人物がすぐそばにいるからです。例えば佐々木導誉や赤松円心ら、後の足利義満も出家後にも政務に関与していた人物は普通にいます。また、仁木頼章の出家時点で足利一門は二派に分かれて抗争を繰り広げており、その一方の雄である足利尊氏が亡くなった直後にその側近が円満に引退できるとはちょっと考えにくいです。というのも、彼は執事職だけではなく、丹波・丹後・武蔵・下野の守護職をも兼帯していたのです。弟の義長にも備後・遠江・伊勢・伊賀・志摩等の守護職が任されていました。日本国六十六州のうち、九ヶ国が仁木兄弟の手にあったわけですね。当時は足利一門が真っ二つになって争っていた時代です。足利尊氏といえども自分の勢力圏の土地は信頼のおける人物に任せなければ、前面の敵に対応できません。しかも、これらの国は足利幕府軍の兵力の供給源でもあるわけです。執事を辞めたからと言って、守護まで辞めさせるのは簡単なことではありませんし、後任の執事にとって前任執事の支配国は引き継がないことには執事としての職責がはたせません。これらの国は足利尊氏が残したやっかいな遺産でした。故に、仁木頼章は死ぬまで執事職を辞めるに辞められなかったのではないかと思います。

 しかしながら人間の一生は限られていて、仁木頼章は足利尊氏の死の翌年没します。仁木頼章の職掌を継いだのは彼の弟の仁木義長でした。しかし、その兄が持っていた権力は義長にとっては大きすぎました。故に翌年に仁木頼章が亡くなると、その直後に仁木義長が失脚の憂き目にあいます。仁木頼章・義長兄弟で守護を担当した国は九ヶ国にも及びます。兄亡き後義長が一人で担うには重すぎました。新たに執事となった細川清氏としても、将軍の意志を代行するにあたって、広大な領地を持つ仁木一族の勢力をそいでおく必要がありました。畠山国清、細川清氏、土岐頼康、六角氏頼らがこの謀議に加わり、河内国誉田に蜂起した南朝軍を討つ名目で洛外に出ます。
 仁木義長は周囲に攻撃的になり、追い詰められて将軍義詮拘束を企てますが、佐々木導誉の妨害で失敗し、自滅する形で失脚します。佐々木導誉としては、仁木義長との利害対立はなかったわけですが、畠山・細川を初めとする一門衆の空気を読んだもののようです。仁木義長は伊勢に逼塞を余儀なくされました。伊勢を除く仁木氏の分国は他の諸侯たちの分け取りとなったのです。

 仁木義長の失脚で、頭角をあらわしたのが細川清氏です。細川氏は足利幕府草創期には四国方面軍を率いておりました。清氏はその嫡流ですが、南北朝の戦いの初期に代替わりがあり、清氏は若すぎることもあって軍事は庶流の定禅や顕氏ら頼貞系が担っておりました。しかし、定禅は1339年頃に亡くなり、顕氏も観応の擾乱で直義派、尊氏派の間をふらふらして去就が定まらず、正平一統で南朝軍が上洛した時に足利義詮を守ろうとして戦死しております。

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 公頼系の人々は初期から尊氏方についておりました。清氏は叔父である頼春による後見の元、経験値を積んでゆきます。そういう所から、清氏に執事のお鉢がまわってきたわけですが、観応の擾乱の余波冷めやらぬ政治情勢です。伊勢の仁木義長は南朝に与し、反撃の機会を窺っております。
 この時の幕府は必ずしも一枚岩ではありませんでした。山名時氏ら有力諸侯は依然として南朝方に与したままですし、足利尾張守高経のような帰参組もいます。細川清氏は確かに足利義詮が頼りにできる一門衆には違いありませんでしたが、その配下には非一門衆である佐々木導誉、赤松則祐、土岐頼康らもいたのです。

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 洛中に足利尊氏が幕府を立てて以来、佐々木導誉は本家を立てつつ、一門を結束させてきましたが、観応の擾乱後は佐々木一門の外に政略結婚を仕掛けます。最初の一人が赤松則祐。観応の擾乱が始まって、父親の赤松円心、兄の赤松範資が次々と亡くなったあとを継いだ則祐は足利尊氏の足利直冬追討の征旅には支配地である書写山に陣を置かせるなどして、全面協力しましたが、結果として尊氏は敗れ高師直は殺害される羽目になりました。このまま足利尊氏が直義に取り込まれてしまうと、赤松一族の幕府における立場が無くなってしまいます。そこで護良親王の遺児を立てて反幕府の蜂起をするところまで追い込まれてしまうわけです。そこに救いの手を差し伸べたのが佐々木導誉でした。彼もまた尊氏方についた敗者の立場でしたが、則祐と同時期に反幕府蜂起の軍を起こして、尊氏と義詮をそれぞれ播磨、近江に引きずり出して反直義連合の形成までこぎつけたのです。その縁で佐々木導誉は赤松則祐に自分の娘を娶らせました。
 更に正平の一統において、光巌、光明両上皇、崇光天皇の三帝が南朝に拉致された折には、勧修寺顕経とはかって、広義門院西園寺寧子を説得の上で後光厳天皇を擁立し、北朝での存在感もましていたのです。

 そんな折、足利直冬方にいることに嫌気がさした足利尾張守高経が幕府に投降しました。

 

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2014年3月11日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑩佐々木導誉Ⅲ

 足利直義が死んだ直後から、南朝のターンが始まります。足利尊氏は崇光天皇の廃位を認めてまでして、南朝との和睦を進めましたが、南朝の方は端から足利尊氏を信用していませんでした。鎌倉には北条時行と新田義興を差し向け、京都には楠木党と北畠軍が殺到しました。関東の戦いでは尊氏は何とか南朝勢を撃破したものの、京とは延暦寺が南朝方についたので、留守居の足利義詮は孤立、一時的に京を明け渡してしまいます。この時に廃された北朝の天皇上皇達を義詮は供奉しなかったという失策を犯します。この時の攻防で細川頼春が討たれたりしているので、足利軍も相当混乱していたようです。光巌院・光明院・崇光院は賀名生に拉致されてしまいました。

 近江に落ちた足利義詮を導誉は助けて、京を奪還します。八幡まで進出していた南朝の後村上天皇が京都に入る以前に奪還を成功させたわけですが、その時京都には帝がいなければ、皇位継承の証である三種の神器もありませんでした。選帝や即位には色々と儀式があり、院政が発達した当時においては、そこに上皇が噛むことは不可欠なことでした。しかし、その有資格者が悉く賀名生に拉致されてしまったのでした。ついこの間まで関東にいた足利義詮にはどうすることもできませんでした。そこに知恵だししたのが佐々木導誉です。皇位継承の儀式で最低限可能な物を絞り、最低限皇位継承には治天(最高位の上皇)による伝国詔宣という儀式が必要であることを確認した導誉は勧修寺(坊城)経顕(彼は延暦寺の抗議を受けて天龍寺建立反対運動を朝廷で行った人物でもあります)を通じてその役目を、拉致を免れた皇室関係者に担わせることにしました。
 白羽の矢が当たったのは光巌・光明両上皇の母親であった広義門院西園寺寧子でした。当初は先例の無いことと頑なに拒んでいた広義門院でしたが、導誉らの粘り強い説得を受けて治天の役目を負うことを半ば無理矢理に承諾させられます。かくして即位をしたのが仏門に入る寸前だった弥仁親王こと後光巌天皇でした。
 その直後、導誉は山名時氏と所領を巡って対立します。山名時氏は最初は高師直に従って足利尊氏屋敷を囲みましたが、高師直が落ち目になるとこれを見限って足利直義につき、足利直義が不利になると再び尊氏方につくという方針の定まらない人物でした。北朝立て直しをするべきこの時期に、山名時氏は南朝に寝返って京都に攻め込みあろうことか、一時占拠するに至ります。今度は義詮も学習して後光巌天皇を避難させたうえで、京都を奪回します。佐々木導誉が領国としていた出雲国は山名時氏が帰参していた時に彼に与えていたのですが、この反逆を機に再び導誉の物になります。その代償として、導誉は嫡男秀綱を失うに至ります。
 そうこうしているうちに、足利尊氏がやっと京都から帰ってきました。足かけ二年弱にわたる長期の遠征となっておりました。

 帰還した尊氏はあいかわらず真面目に政治をしようとしません。政務一切は高師直に代わる執事として任命された仁木頼章が将軍御行書を発行して執り行う体制となりました。すると今度は足利直冬を担いだ桃井直常が山名時氏、足利尾張守高経らと語らって上洛軍を催したのです。桃井、足利尾張守家(斯波)は足利の一門衆であり、それに山名が加勢したので相当強力な勢力となり、一時は京都を占拠したのです。
 さりながら、足利直冬は父親に弓を向けることの罪深さに畏れを抱くナイーブな一面も持っておりました。石清水八幡宮の託宣がそれを詰る内容だったことに、直冬は戦意を失い軍団は離散したと太平記にあります。おそらく、足利直冬、桃井直常、足利尾張守高経、山名時氏とそれぞれが上洛の動機を異にしていて、直冬はそれらの統制をはかることに失敗したと考えてよいでしょう。この合戦においても佐々木導誉は尊氏・義詮方について奮戦しております。

 ここでほぼ趨勢が決したと判断した足利尾張守高経は尊氏・義詮達に帰参します。相前後して拉致されていた北朝の三上皇が京都に帰還し、畿内における南朝方の抵抗もおおむね終結の方向に向かってゆきます。すでに足利尊氏には寿命が来ておりました。癌を患い、1358年(延文三年)四月三十日、闘病の果てに亡くなりました。高師直死後に尊氏に執事として仕え続けた仁木頼章も同時に隠居します。

 ここにきて、佐々木導誉には遠慮をすべき人間はいなくなりました。おそらく彼は天皇や将軍や副将軍のようなカリスマが牛耳る政治に何の魅力も感じていなかったのではないかと思います。彼は後醍醐天皇や足利直義のような唯一の秩序を求めるような輩にたいしては、常に造反を企ててきました。それなりの大きさの武士団を率いる立場としては、固まった大勢の中で身動きができなくなることは我慢ができないことだったのではないでしょうか。彼ほどの才能がある人物であれば、政権を担う野望を持ってもおかしくないように思えますが、その実どんぐりの背比べの中でのせめぎ合いがいつまでも続くことを望んだのではないかと思います。
 足利義詮の代に入って、何度も政変が起こり、何人もの執事や管領が後退されましたが、この段階に入ると全てが佐々木導誉の手の内にあるゲームのような感じになってゆきます。

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2014年3月 8日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑨バトルロワイヤル

 ここで足利直義死後の洛中幕府の行方を素描したいと思います。

 観応の擾乱の初期において、足利直義が政務を退いた折、それに代わって足利尊氏の実子である義詮が鎌倉から京都に呼び出されました。彼は鎌倉府で関東の統制を行っていたのですが、足利尊氏の後を継ぐべく呼び出されたのでした。彼はそれまで足利直義の住居としていた三条坊門高倉の屋敷に入ってそこで政務を見ます。それまで直義は三条殿とよばれていたのですが、以後は義詮が新たな三条殿となります。鎌倉府へは義詮の弟の基氏がゆくことになりました。直義は錦小路堀川にあった細川顕氏邸が提供されてそこに住むことになります。僧形の直義のことは以後錦小路殿と呼ばれるようになりました。以後の経緯については前々編に書かせていただいております。足利直義は高師直を滅ぼしたものの、その一年後に足利尊氏の手によって虜とされ、命を落とすことになります。

 それ以後、足利義満が実験を握るまでは歴史の教科書にもほとんど触れられないことなので本稿において概略を描写してゆきたいと思います。とりあえず、太平記のおわりまでかっ飛ばします。普通だったら、将軍が誰という区分で語るべきでしょうが、さらに細かく将軍の執事は誰だったかという観点で分別してゆきます。

○執事:細川清氏の時代
 足利尊氏の死後、征夷大将軍は足利義詮が継ぎます。それと同時に仁木頼章は引退し、細川清氏がこれに代わって執事につきます。その翌年仁木頼章が亡くなるとその弟の義長が追放されます。仁木義長は軍才はあったのですが政略や駆け引きはどうも苦手だったようです。
 仁木義長を排除した細川清氏でしたが、同じ年のうちに、こんどは彼自身が失脚の憂き目にあいます。原因は佐々木導誉との確執にありました。失脚した清氏は南朝に走って楠正儀と組んで京都を一時的に制圧します。さりながら、一時の怒りによる戦争が勝利につながることはありませんでした。佐々木導誉らの反撃にあってあっさりと京は奪回されます。細川清氏は本拠地の四国に逃げ帰りますが、足利義詮の命を受けた同族の細川頼之の討伐軍に討たれてしまいます。
 清氏失脚後は執事選びに慎重にならざるを得ません。高師直にしろ、細川清氏にしろろくな運命をたどっていませんでした。仁木頼章は主君の影のような人生を送りましたが、遺された義長はよってたかってつぶしにかかってしまいましたから。

○執事:足利尾張守義将の時代
 白羽の矢がたったのはついこのあいだまで直義派の重鎮として活動していた足利尾張守高経でした。しかし、彼は非常に高慢な人間で、『そもそも執事というものは高家のような一門ではない家人か、上杉家のような外戚が努める役職で足利一門衆筆頭の足利尾張守(斯波)家に執事とは役不足もいいところだ』と言い放ったのです。
 妥協案として彼自身は執事ではなく、息子それも四男の義将に就任させたのです。高経自身は執事の義将の後見として幕府の実権を握ったのです。
 義将には三人の兄がいました。長男の家長は鎌倉を守っていたところを北畠顕家の上洛軍と遭遇して敗死、次男の氏経は九州探題になったものの、懐良親王の軍に苦戦中で執事候補ではありませんでした。
 足利尾張守高経は自らの後継者を三男の氏頼とし、御曹司として期待をかけておりました。佐々木導誉の娘を妻とし、若狭守護まで任されていたのです。しかし、高経はそれをあえて外してその弟の義将を執事に据えたのですね。観応の擾乱の反省として、執事と一門衆が分離して反目することを、一門衆筆頭かつ執事後見という立場に立つことで防ごうとしたと言えるでしょう。
 高経にとって、執事とは家奴に過ぎませんでした。高師直がいかに権力をにぎっていたとしてもです。故に家督は執事に成り下がった義将に渡すつもりはありませんでした。家督は兄の氏頼に渡し、将軍の世話をする執事職はその弟である義将に任せて兄弟で幕府を支えるべきと考えたのでしょう。しかし、氏頼には高経の高邁すぎる発想はいまひとつ理解ができなかったようです。彼はこの決定を聞いて失意のあまりに出家隠遁してしまいました。

 細川清氏が討たれたという報せはもはや抵抗は無意味であるということを南朝方に走った一門衆に認識させるに十分なことでありました。南朝派として中国地方に勢力を保っていた山名時氏と大内弘世が帰参します。山名氏は新田系清和源氏で、大内氏は朝鮮半島の一国百済王の子孫が周防の国に流れて土着した一族の子孫と自称しておりました。もちろん二人とも足利一門衆ではありません。しかしながら、その降伏のタイミングは絶妙でした。実はこのとき、大内弘世の保護下に足利尾張守家の氏経がいました。彼は九州探題だったわけですが、結局懐良親王の軍に敗れて周防に落ち延びていたわけです。この時点で大内弘世は南朝方でしたから、足利尾張守氏経は大内・山名の幕府への帰参の取引材料にされた可能性があります。幕府とて可能であれば彼らの領地を奪いたいところではありましたが、残念ながらそこまでの実力はまだなかったからです。また、九州には懐良親王の勢力が大きく、勝手に明国と交易を始める始末です。この二人が味方に付くことによって、直義のころには完全に頓挫してしまった九州攻略は、再び糸口がつかめるようになったのです。
 しかしながら、幕府内においては足利尾張守高経と佐々木導誉との対立が深刻化しておりました。この二人は観応の擾乱において対立しておりましたし、さらに山名時氏や大内氏等当時の関係者が同じ舞台に集結することによって同じことが再び起ころうとしておりました。

○管領:細川頼之の時代
 足利尾張守高経は自らのふりを悟り、管領をはじめとする息子たちを引き連れて領国越前に引き揚げます。それから間もなく高経は病死しました。替って管領となったのが細川頼之です。太平記は彼の管領就任を持って天下泰平の成就が成ったと言祝で終わっておりますが、その終結自体が太平どころか、大きな反動に過ぎなかったのです。

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2014年3月 6日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑧佐々木導誉Ⅱ

 ここまで玄恵の視点から三度にわたって足利直義の政治を見てきたわけですが、再び佐々木導誉に支点を戻すとともに、時代を四条畷合戦まで戻したいと思います。

 1347年(貞和三年)九月、河内国で楠木正行が蠢動します。河内守護で足利一門衆の細川顕氏がこれを抑えにかかりますが、失敗してしまいます。その過程で山名時氏が派遣されておりますが、かえって傷口を広げるに至りました。
 そこでやむを得ず足利尊氏の執事高師直が大軍団を編成して討伐に出ることになりました。佐々木導誉はこれに従軍し、四条畷合戦では敵の主力に打撃を与たりもしております。更に高師直軍は吉野に攻めかかりますが、この時、佐々木導誉は南朝方の奇襲を受けて子息の秀宗を討たれております。高師直軍の編成には足利一門衆のメンバーはほとんど入っておりませんでした。それが南朝を賀名生の片田舎に逼塞せしめる大戦果を挙げたわけです。この戦いそのものが、非足利一門衆武士団の力を幕府に見せつけたものであったはずでした。ところが幕府というか足利直義はその戦功を無視する挙にでます。

 それが足利直冬の長門探題任命でした。この役職は単なる長門国守護に毛が生えたようなものではなく、中国地方八ヶ国の成敗権を一手に握る強大な権限を持った役職でした。その八ヶ国の中には、佐々木導誉が守護を務める出雲国はもちろん、楠木正行との戦いをともに戦った伯耆・隠岐国守護山名時氏、安芸国守護武田信武らも含まれています。その調整を担当するのは高師直なのですが、これは不調に終わりました。高師直は足利宗家執事の座から罷免されるに至ります。

 その後、高師直は足利直冬が支配するはずの中国地方の守護達や自分付きの足利一門の武将達、土岐一族らを京に呼び寄せて、足利直義ごと足利尊氏の屋敷に包囲してクーデターを敢行しました。この包囲網の中に佐々木導誉本人は入っていないものの、息子秀綱や本家の六角氏頼を初めとした一族衆を差し向けています。以後観応の擾乱に突き進むわけですが、佐々木導誉は一貫して高師直・足利尊氏に味方しております。打出浜の合戦で尊氏方は敗れ、高師直は捕虜となった後に殺害されます。尊氏は屈辱的な条件で直義との和解を余儀なくされるわけですが、この時佐々木導誉は足利直義と南朝との折衝がうまくいかないことを見越して独自ルートで南朝に降って挙兵します。時を同じくして播磨国でも赤松円心の息子である則祐が護良親王の皇子を担いで挙兵しています。観応の擾乱が始まってからこちら赤松氏は当主を円心・範資と急死させております。直義を中心とした体制においては自らも次の標的とされることを恐れた結果であろうと推察されます。この事態にあたって、直義の許可も取らずに尊氏は導誉に向かい、義詮は赤松則祐に向かって出兵します。赤松則祐、佐々木導誉、足利尊氏、足利義詮の四人は反直義で結託しておりました。危機を察知した直義は京を脱出して一門衆の足利尾張守高経のいる越前まで下がります。

 導誉たちは京を奪い返して、江北の八相山の戦いで直義軍を撃破。直義は鎌倉に逃げますが、尊氏はこれを追って捕虜にした後、直義は死にます。
 そこから南朝の逆襲が始まるわけですが、それは次稿にて記したいと思います。

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2014年3月 4日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑦玄恵は何でも知っているⅢ

 建武式目の八名の内の公家衆は皆、鎌倉の足利家とのつながりがあったと小木曽千代子氏が『玄恵法印の研究』という著書の中で考察されております。それに加えて、玄恵も同様ではなかったかと推論を進めておられました。
 足利直義は建武政権下で鎌倉府執権として成良親王の鎌倉府を支えていたので、その時に彼の存在は把握していたのかもしれません。中先代の乱の折に足利尊氏も数ヶ月間鎌倉に滞在していましたが、越前の局の子についてはガン無視していたようで、記録に残っておりません。
 足利直義に仕えていた玄恵が新熊野丸をまず、直義に紹介したのは、鎌倉府執権時代か、中先代の乱鎮圧時に足利直義が彼の存在を把握しており、そのことを玄恵にも伝えていたからかもしれません。
尊氏はこの子を認知せず、すったもんだの末に弟直義の養子として落ち着くことになりました。そして直義の元で元服して直冬と名乗ることになります。足利一門は一門衆こそ精強でしたが、尊氏、義詮父子を支える連枝と呼べる存在は、直義とまだ五歳の基氏だけでした。直義には自らの後継者もいませんでしたので、渡りに船だったことは確かでしょう。

 この時の足利直義は絶頂でした。楠木正行が討ち取られた後、紀州討伐軍が催されその大将に足利直冬をつけます。この時、二十一歳で年齢的にはありえなくはないのですが、この頃の直冬は実戦経験もなければ足利一門としての教育も三年程度しか施されていない促成栽培でした。おそらく、中国地方の経営についての戦略が楠木正行の活躍で遅れをきたしたために、それを取り戻すべくの策であったことでしょう。紀州遠征は一応の成功をみて、直冬は凱旋します。そして、その翌年に長門探題としての赴任を命ぜられるわけです。長門探題は八ヶ国の成敗権を持つ強大な組織であったことから、1349年(貞和五年)八月、高師直は当地の守護達の指示を集めてクーデターを成功させます。直義の油断というか、性急に過ぎた政策スケジュールが最大の原因だったと私は評価します。これをもって直義の内閣は崩壊しました。武家の側近の上杉重能と畠山直宗は流罪の上で殺害され、太平記で妙吉※に擬せられていた大同妙喆や古先印元らは鎌倉に逃亡し、直義は主たるブレーンを失ってしまったのです(※園太暦、師守記に妙吉に関する記述はあるそうでどうやら実在したらしいです)

 十二月に直義本人も出家を余儀なくされてしまいます。その時に彼が選んだ法号が『恵源』というものでした。見方によっては玄恵の法号をひっくり返して、玄の字を直義の出自である源氏の源の字と入れ替えたものと判じることも可能です。自分でもこれは突飛な発想であると思うのですが、この後に恵源と玄恵のとの関わりを示す史料が残っております。直義出家の翌年、1350年(観応元年)三月二日に玄恵法印が入寂します。享年七十二歳なのですから、十二分に長生きなのですが、なぜこのタイミングかと考えると粛清の可能性が皆無とは言えないでしょう。奇しくもその前月の一月十一日に赤松円心が亡くなっていたりもします。円心は直冬討伐の為の軍編成の最中の死去でした。
 直義は出家隠遁中にもかかわらず、入寂した玄恵の為に追善詩集の出版の発起人となります。それが1350年(観応元年)四月下旬に編まれた『玄恵法印追善詩歌』です。玄恵は僧であり、儒者であると同時に、詩人でもあったのですね。そして、その半年後に足利直義は京を脱出して南朝に投降し、直義派武将たちを率いて兄尊氏と高師直に対して反撃に出るのです。その行動は儒教的な倫理観、仁義を欠くものでした。玄恵の死はそのきっかけとしてとらえるべきものであるのかもしれません。

 玄恵は一般に天台の学僧と言われていますが、実は延暦寺の僧籍に彼の名はないそうです。それでも、たとえば花園天皇宸記という花園天皇の日記には僧都と書かれており、僧形であったことは確かです。彼が天台学僧と言われるのは先に述べた通り、幕府が延暦寺を潰そうとした時に、玄恵が延暦寺の由来を説明し、神格の高い延暦寺を潰してはならないことを力説した、と太平記に書かれているためであろうかと私は思います。そして、太平記においては、玄恵は足利尊氏・直義兄弟が比叡山を許すことこそ、徳を積むことになるのだと、王道を進むことを勧めております。そう、建武式目と同様に太平記もまた朱子学の影響を受けているわけです。

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2014年3月 1日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑥玄恵は何でも知っているⅡ

 さて、ここまで玄恵の半生を追いつつこの時代における儒学の片鱗を述べ立てたわけですが、建武式目と同じくこの時代の日本における儒学に強い影響を受けた文学作品があります。それが太平記です。足利直義が政権を担った1340年代にはその祖形のものができていた、と今川了俊が記した難太平記に記されています。難太平記といっても、別段太平記を非難する為に書かれた書物ではありません。どちらかというと、江戸期に大久保彦左衛門が書いた三河物語の祖形というべきもので、作者である今川了俊が子孫たちの為に、自らの家柄及び武功と主家である足利家との関係を記して子孫たちに瀬名今川家(了俊の家系)担う者の心得を述べたものです。その目的とは別に、同書に太平記を難じた個所があった為に難太平記と呼びならわされるようになったものです。
 1340年代は今川了俊は十代から二十代の間で、その頃の今川家の当主は了俊の父の範国でした。太平記の批判はその範国が語ったものとして書かれており、そこにも玄恵が登場します。
 これによると、法勝寺(天台宗系)の恵鎮が太平記三十巻本を等持寺にいる足利直義に見せに来て、それをその当時直義の元で働いていた玄恵に読み語らせた所、直義はその内容に誤りが多いことを歎じて修正を命じたという内容が記されているのです。現存太平記は四十巻本であり、三代将軍足利義満の初期治世まで語っています。当の巻三十には足利直義本人の死が談ぜられているので、1340年代の三十巻本の章立ては現代の四十巻本とは異なることがわかります。では、三十巻本にはどこまでの記録がされていたか。それは言うまでもなく、後醍醐天皇の崩御であったと断言できます。これは文学者、歴史学者の定説といってよいでしょう。現代に残された四十巻本太平記は前半と後半に分かれていて、前半部は後醍醐天皇の治世の始まりから書き記されて、後醍醐天皇の崩御で終わるのです。後半部は南朝の大立て者たちが妖怪化して復活し、現世を混沌の坩堝に陥れる展開で、滅びし者どもの恨みを晴らす挽歌的な色合いの物語となっているのです。
 前半部分は有徳の後醍醐天皇が、欠徳の北条高時を滅ぼしたものの、驕った為に失徳し、「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と恨みをのんで身を滅ぼす過程を描いた物語です。この物語においては、王者を王者たらしめるのは血統ではなく、ただ有徳であることが重要だったのです。この徳治論はまさしく朱子学の名分論のロジックにのっとったものなのですね。
 この時期、足利直義は天龍寺を建てて後醍醐天皇の死をどのように飾ろうかと思案をしていた所でした。恵鎮が持ち込み、玄恵が読んだ太平記に足利直義は不満をもらし、改稿を命じました。故に、現存する太平記の前半部分は足利直義の意を汲んだものであったと私は見ます。その主人公は後醍醐天皇であり、徳治と滅びに彩られた物語でありました。

 1345年(貞和元年)八月二十九日、後醍醐天皇七回忌法要にあわせ、天龍寺落慶供養が営まれました。佐々木導誉を使って叡山の反発を押さえつけました。その同じ年に、一つの事件が起きます。足利尊氏の隠し子が上京してきたのでした。名を新熊野丸(いまくまのまる)といいます。
 彼の母は越前の局という名前が伝えられておりますが、身分が低い人物であるということ以外は何もわかっておりません。彼が生まれたのは1327年(嘉暦二年)と推定されておりますが、その頃足利高氏(尊氏)は鎌倉におり、また、越前の局との関係も夫婦でも、内縁関係でもなく行きずりのことであったそうです。故に、高氏(尊氏)は生まれた子供の認知もしませんでした。その結果、鎌倉の東勝寺に喝食として養われることになりました。東勝寺は北条泰時が建てた北条一門の菩提寺です。縁もゆかりもない人間がそうそう入ることは叶わないでしょうから、この寺にはそのような事情のある子が引き取られていたのではないでしょうか。その子が六歳の頃、彼を養っていた東勝寺において、北条高時を初めとする一門衆が割腹して果てました。頑是ない年頃のこと、この事件は彼の心に大きな襞を作ったろうことは想像に難くありません。この時、鎌倉に夢想疎石がいて、新田軍から覚海尼(北条高時の母)らを保護したのですが、新熊野丸もまた生き残ったようです。
 北条氏滅亡後、東勝寺は再建され、新熊野丸は喝食としての生活をつづけたのですが、立志の想い止みがたく、還俗して新熊野丸(いまくまのまる)となのり、上洛して最初に頼ったのが玄恵法印でした。玄恵は思案して、これを足利尊氏ではなく、まず足利直義に引き合わせました。

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