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2014年3月22日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑬執事から管領へⅠ

 足利尊氏の死後、細川清氏の執事が短命に終わったことにより、その後継をどうするのか丸々十ヶ月の歳月を費やしました。おおむね仁木頼章が死んでから、細川清氏が失脚してまでの期間に匹敵します。ぶっちゃけて言えば、適当な候補がいなかったことにつきます。それに高師直や細川清氏らは執事になってろくな目にあっていません。白羽の矢が立ったものがしり込みしたとしてもやむを得ぬことではありました。
 それでも、敢えて候補を探せばいるにはいました。例えば、佐々木導誉です。彼は毀誉褒貶の多い人物ではありましたが、足利尊氏や足利義詮ら、将軍職についた者に対しては忠実でありました。敵が多いことの裏返しではありますが。実際、細川清氏の追い落としを画策したのは、彼自身であり、その後釜に彼がつくことはなんとも後味の悪いことであります。何より、彼自身は足利一門ではなく、佐々木一族の代表としてその利益を確保する為に、幕閣にいる人物であります。そもそも執事とは家の子、すなわち家っ子=奴(やっこ)の代表であり、たまたま主人が将軍という高位につけた為に、権力がついてきたものに過ぎません。佐々木導誉が執事となることは、佐々木一族が足利宗家の奴隷であるということをふれて回ることと同義でした。
 仁木や細川は足利尊氏が上洛するまでは三河の土豪に過ぎませんでした。それが、丹波や四国の方面軍を任されることによって国の奪取に成功したのですから、一門衆とはいえ、家奴となることに抵抗はすくなかったでしょう。佐々木導誉とは立場を異にする人々でした。

 もう一人、候補がいます。それは足利尾張守(斯波)高経でした。今までさんざん触れたように、足利尾張守家は足利宗家と同格、嫡流だけども事情により宗家を継げなかった家柄でした。それだけに、宗家の家の子となる執事就任には渋りまくったのです。それでなくとも、彼は観応の擾乱においては、直義、直冬方につき、直冬を奉じて都に攻め込んだという経歴の持ち主でした。ただ、直冬のメンタルの弱さに愛想を尽かして幕府側に寝返ったわけでした。当時の幕府は弱体で、足利尾張守(斯波)高経のような有力者の寝返りは歓迎こそすれ、拒絶などは考えられない程でありました。とはいえ、一門衆の中でも帰り新参であるという負い目があったことは確かです。
 だから、自身に執事就任の話が舞い込んできた時、執事のことをこう表現して断っています。
「そもそも執事とは高一族のような家人か、上杉氏のような外戚がなるべきものである」と。
 鎌倉時代を通して、足利尾張守家(斯波家)と足利宗家の格の違いを定めてきたのは常に北条家の意向でした。故に、両家は競って北条一族、それも得宗家の娘との婚姻と、得宗の偏諱を求めてきました。その北条家が滅びて、足利尾張守家(斯波家)と足利宗家の格を測るものはなくなったはずでした。しかるに、宗家は将軍家となり、方や斜陽の南朝を支える武家の一つに過ぎなくなっていました。おそらくは足利尊氏の長子である直冬をかついでみて、能力やカリスマは自らが勝っていることを自覚したでしょう。それは義詮とてそう大差があるわけではありません。だから、直義が作った幕府に戻れば、主導権を取り返すことができることを確信したのでした。

 高経はプライドの高い人物です。しかし、だからと言ってその意が単純に自らの血統意識を顕示したものとは限らないです。むしろ、執事は執事として、家政のみに専念し、政治は一門衆に委ねるべきとしたのでしょう。そう考えると、この時期に高経がとった行動は解釈しやすくなります。
 足利尾張守高経は断りましたが、彼には五人の男子がおり、周囲の注目は彼らに集まりました。五子とは長男の家長、次男の氏経、三男の氏頼、四男の義将、五男の義種です。
 長男の家長は北畠顕家と鎌倉で戦い戦死しています。その後の嫡子として高経が見ていたのが、三男の氏頼でした。彼には早くから官職につけ、若狭国守護も任せておりました。帰参後は幕閣の重鎮となった佐々木導誉の娘を嫁にもらっております。ちなみに、氏頼の名は佐々木導誉の属する佐々木一門の宗家当主の六角佐々木氏頼と同じ名です。佐々木導誉、足利尾張守高経が執事にならないのであればと、衆目は高経の子である氏頼に向くのは必然でしたが、高経にとっては迷惑な話でした。
 高経は足利尾張守家から執事を出すことがやむを得ないにせよ、執事が政治に関与することを避けさせたかったのです。その為に執事は惣領に努めさせてはならないとも考えてました。将軍が執事を抱き込んで足利尾張守家に干渉した時、執事が兄であれば抗することができないからです。
 いずれにせよ、次男氏経には家督を継がせる気はなかったので、高経は彼を九州探題に任命して京より追いやりました。直冬の中国探題とは違って、守護の入れ替えはほとんど行っておりません。また、ろくに兵も与えておりませんでした。その頃の九州は、直冬が追い出された後幕府と南朝が戦って幕府側の旗色が悪くなっていた頃でした。そのあたりの事情はあまり斟酌された形跡もなく、九州に降った氏経は長者原の合戦で敗北し、周防の大内弘世の保護下にはいりました。この時点で大内弘世は南朝方だったので、実質捕虜としてみるべきかもしれません。

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