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2014年3月15日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑫婆娑羅の躍如Ⅱ

 足利尾張守高経は直義派の重鎮であり、彼の投降は南朝方に大ダメージを与えることになりました。足利尊氏はこの頃病魔に冒されており、先が長くないことは見えておりました。後継者は三帝拉致を許した未熟な義詮であれば、今の内に幕閣に入れば自らを高く買わせられると判断したものでしょう。実際、足利尾張守家の家格は足利宗家と同等かそれ以上です。鎌倉時代に北条一門内の争いで名越氏が粛清させられていなければ、尾張守の血統は足利宗家になり替わっていたことは間違いないのですから。とはいえ、帰り新参では幕閣の中でも立場が弱く、婚姻政策をして立場を強化する必要がありました。その為に、息子の氏頼を佐々木導誉に娶らせたのでした。氏頼は足利尾張守高経の三男です。長男の家長は建武の乱において、奥州にいた北畠顕家の南下を鎌倉で押しとどめようとして敗死しています。次男の氏経は後継者とし、三男に導誉の娘を娶らせて自らの立場を固めたのでした。もちろん、この婚姻は佐々木導誉本人の幕府におけるプレゼンスを高める結果となったのです。まさに、ウィン・ウィンの関係でした。

 細川清氏は執事として幕府の政治を執り進める上で、導誉が張り巡らしたこれらの利権にぶつからないわけにはいきませんでした。例えば、この頃に加賀国守護の富樫氏が代替わりをしたのですが、佐々木導誉は子息に継職を認めずに、隣国越前国の守護である足利尾張守氏経に守護兼任を勧めたりします。この話は細川清氏が突っぱねました。すると別の機会で、帰参してきた頓宮四郎左衛門尉に領地を返還するようにと清氏が命じた時、これは赤松則祐が預かった領地であると、返還を拒んだのでした。無論、則祐の舅が佐々木導誉であることは偶然ではありません。やむを得ずこの頓宮四郎左衛門尉には清氏が守護をやっている越前国の守護代を務めさせることになりました。

 細川清氏が佐々木導誉を意識仕出した時、佐々木導誉が仕掛けます。足利義詮が七夕の夜宴の開催を細川清氏に命じて準備させていた所に、佐々木導誉が自邸で盛大な七夕パーティーを企画して招待状を足利義詮に送りつけます。その内容はまさに婆娑羅の面目躍如と呼ぶべきもので、七夕にちなんだ七尽くしの『闘茶会』でした。茶会といっても千利休の侘び茶はまだない時代のこと、種々の茶を飲み比べてその産地を当てさせるというゲーム的な趣向の会で、企画としては清氏の型のはまったものよりよほど面白いと、準備を命じた義詮本人が清氏の夜宴をキャンセルして、導誉の闘茶会の方へ赴いた為、清氏の面目が丸つぶれになりました。
 導誉はそれに畳み掛けるように、清氏が義詮になり替わらんとして、呪詛をしようとしていると義詮に讒訴します。何の根拠もないことで、難太平記では清氏には何の罪もないのに、導誉にはめられたとのべられています。それを真に受けた義詮は呪詛に対抗すべく、東山にある新熊野観音に避難します。
 当の清氏にとっては何が何だかわからない内に、将軍が洛外に出たことにあっけにとられてしまいますが、事情を悟って京を退去します。仁木義長を失脚してから半年余りの短い政権でした。とはいえ、中国方面軍としての実力者としての矜持は彼に反乱を起こさせます。南朝に降って挙兵し、楠木正行の弟である正儀と組んで一時的にではありますが、京を占領するに至ります。

 京を占領されかけた折、佐々木導誉は自らの居館を掃き清め、家宝で飾り、酒の振る舞いの準備をさせた上で撤退します。京を占領した細川清氏と楠木正儀はそれぞれ割り当てられた拠点を占領します。清氏は足利義詮の三条坊門邸を焼き払ってしまいました。楠木正儀の割当地に佐々木導誉邸があったのですが、導誉の館の粋なはからいに感服し、焼き払いも略奪もせずにそこに居座ります。占領がかなわなくなった折には、そこに鎧と太刀を置き土産にして撤退したのです。
 結果的にこれが南朝軍による最後の京都占領となりました。京都占領が失敗に帰したのは、細川清氏が急いでことを進めた為に、各地の南朝勢力がこれに間に合わせることができなかった為です。何とかついてこられたのは楠正儀だけだったのですね。細川清氏の失脚から京都撤退までわずか三ヶ月間のことでした。清氏側としては、まだ幕府内で名望が残っている内にことを起こさないと、京を占領できるだけの兵力を集められないという事情もあったのです。現に、仁木義長は兄の遺領を合わせて九か国の守護を兼任していましたが、失脚後して南朝に降った後は伊勢に逼塞せざるを得ない羽目に陥っています。

 楠木正儀の行動については、京童の間でも賛否両論。粋人として絶賛したものもいれば、佐々木導誉に騙された愚か者と評したものもおりました。いずれにせよ、楠木正儀としては南朝に未来がないことを見通して、和解のサインを送ったのだとすれば、これはこれで後の布石となりました。
 それに対して、細川清氏は畿内に勢力を留めることができなくなって、四国に撤退することを余儀なくされてしまいます。彼の治世は短すぎました。何をしたかったのか判断できないというよりは、何もさせてもらえなかったといっていいでしょう。最初にやったことが佐々木導誉の利権を冒すものだったことが政治生命の絶たれる原因だったという所でしょうか。

 これをもって足利尊氏死後の執事職は誰がふさわしいか。それを決める為の争いに、足利宗家当主でも、一門衆でもない、佐々木氏庶流の婆娑羅者である京極高氏が介入しうることが、満天下に示されたわけです。

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