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2014年3月 8日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑨バトルロワイヤル

 足利義詮は即座に京を取り戻しましたが、上皇や皇室関係者はいません。途方に暮れた義詮は二条良基に相談して、出家して妙法院に入る準備をしていた弥仁親王に白羽の矢を立てます。そして、上皇の役目は広義門院西園寺寧子が勤めました。彼女は光巌上皇、光明上皇の母親に当たります。とにかく、形だけは整えての践祚でありました。
 足利尊氏・義詮親子はここから立て直しを始めるわけですが、高師直や足利直義がもはやいない中、彼らを支えたのは仁木頼章、義長兄弟でした。足利兄弟、高兄弟にも共通するところですが、兄弟で役割分担をしていました。軍権を握るのは兄尊氏、政治向きの調整を行うのは弟直義といった具合にです。高師泰、師直兄弟は自ら軍隊を率いて戦うのは兄高師泰、尊氏の執事として政治向きの調整を行うのは弟師直といった具合になります。もっとも四条畷合戦において高師直は自ら軍勢を率いましたが、これは足利尊氏の代行といった意味合いからです。
 仁木兄弟の場合はこれが反対で軍を率いるのは弟義長で、兄は高師直亡き後の執事として尊氏に仕えました。朝廷はなんとかなりましたが、足利一門衆は真っ二つに割れてしまいました。
 桃井、石塔、吉良、足利尾張守(斯波)ら有力一門衆は軒並み直義派でありました。ただし、リーダーである直義が死んだことは集団の維持にはなはだ齟齬をきたすことになります。とりあえず、彼らは南朝方につきました。かつて直義は南朝方に降伏していましたし、足利尊氏すらそうしました。ゆえに彼らに裏切りの罪悪感はありません。その南朝もいまや尊氏を敵として軍勢を差し向けたのです。そこに加勢することこそ、生き残りに道であったでしょう。
 それでも、彼らには中心となるリーダーはいませんでした。そこで担ぎ出されたのが、足利直冬です。桃井直常、足利尾張守高経そして山名時氏らが彼を担ぎました。山名時氏はもともと新田一門です。新田氏より足利氏が威勢が良いのをみて、新田を見限り足利尊氏についたわけです。観応の擾乱においては、高師直に味方していたはずですが、直冬が中国地方を追われた後を高師泰が引き継いだ形になった時点で直義派に鞍替えをしたのです。そしてのうのうと直冬を押し立てて都に攻め上ったのでした。大義も倫理もない戦いでありました。直冬自身は尊氏の実子であり、直冬が天下を掌握するということは子が父を殺すことと同義でもありました。若き直冬にはそのような苛烈な戦いをする強さはなかったようです。京をめぐって両軍が殲滅戦にかかるまえに、直冬は兵をまとめて引き揚げてしまいました。
 その直冬の姿は旧直義派一門衆にとって、盟主として押し立てるに値しないことはあきらかでした。足利尾張守高経はここで早々に足利尊氏方に帰参してしまいます。
 小康を得た足利尊氏は南朝と交渉して、光巌、光明、崇光の三上皇の返還交渉をして、何とか成功にこぎつけます。そこに延暦寺やら洛内の法華宗(日蓮宗)僧侶たちの暗躍があったようです。それから間もなく、足利尊氏は癌でなくなります。

○執事:細川清氏の時代
 足利尊氏の死後、征夷大将軍は足利義詮が継ぎます。それと同時に仁木頼章は引退し、細川清氏がこれに代わって執事につきます。その翌年仁木頼章が亡くなるとその弟の義長が追放されます。仁木義長は軍才はあったのですが政略や駆け引きはどうも苦手だったようです。
 仁木義長を排除した細川清氏でしたが、同じ年のうちに、こんどは彼自身が失脚の憂き目にあいます。原因は佐々木導誉との確執にありました。失脚した清氏は南朝に走って楠正儀と組んで京都を一時的に制圧します。さりながら、一時の怒りによる戦争が勝利につながることはありませんでした。佐々木導誉らの反撃にあってあっさりと京は奪回されます。細川清氏は本拠地の四国に逃げ帰りますが、足利義詮の命を受けた同族の細川頼之の討伐軍に討たれてしまいます。
 清氏失脚後は執事選びに慎重にならざるを得ません。高師直にしろ、細川清氏にしろろくな運命をたどっていませんでした。仁木頼章は主君の影のような人生を送りましたが、遺された義長はよってたかってつぶしにかかってしまいましたから。

○執事:足利尾張守義将の時代
 白羽の矢がたったのはついこのあいだまで直義派の重鎮として活動していた足利尾張守高経でした。しかし、彼は非常に高慢な人間で、『そもそも執事というものは高家のような一門ではない家人か、上杉家のような外戚が努める役職で足利一門衆筆頭の足利尾張守(斯波)家に執事とは役不足もいいところだ』と言い放ったのです。
 妥協案として彼自身は執事ではなく、息子それも四男の義将に就任させたのです。高経自身は執事の義将の後見として幕府の実権を握ったのです。
 義将には三人の兄がいました。長男の家長は鎌倉を守っていたところを北畠顕家の上洛軍と遭遇して敗死、次男の氏経は九州探題になったものの、懐良親王の軍に苦戦中で執事候補ではありませんでした。
 足利尾張守高経は自らの後継者を三男の氏頼とし、御曹司として期待をかけておりました。佐々木導誉の娘を妻とし、若狭守護まで任されていたのです。しかし、高経はそれをあえて外してその弟の義将を執事に据えたのですね。観応の擾乱の反省として、執事と一門衆が分離して反目することを、一門衆筆頭かつ執事後見という立場に立つことで防ごうとしたと言えるでしょう。
 高経にとって、執事とは家奴に過ぎませんでした。高師直がいかに権力をにぎっていたとしてもです。故に家督は執事に成り下がった義将に渡すつもりはありませんでした。家督は兄の氏頼に渡し、将軍の世話をする執事職はその弟である義将に任せて兄弟で幕府を支えるべきと考えたのでしょう。しかし、氏頼には高経の高邁すぎる発想はいまひとつ理解ができなかったようです。彼はこの決定を聞いて失意のあまりに出家隠遁してしまいました。

 細川清氏が討たれたという報せはもはや抵抗は無意味であるということを南朝方に走った一門衆に認識させるに十分なことでありました。南朝派として中国地方に勢力を保っていた山名時氏と大内弘世が帰参します。山名氏は新田系清和源氏で、大内氏は朝鮮半島の一国百済王の子孫が周防の国に流れて土着した一族の子孫と自称しておりました。もちろん二人とも足利一門衆ではありません。しかしながら、その降伏のタイミングは絶妙でした。実はこのとき、大内弘世の保護下に足利尾張守家の氏経がいました。彼は九州探題だったわけですが、結局懐良親王の軍に敗れて周防に落ち延びていたわけです。この時点で大内弘世は南朝方でしたから、足利尾張守氏経は大内・山名の幕府への帰参の取引材料にされた可能性があります。幕府とて可能であれば彼らの領地を奪いたいところではありましたが、残念ながらそこまでの実力はまだなかったからです。また、九州には懐良親王の勢力が大きく、勝手に明国と交易を始める始末です。この二人が味方に付くことによって、直義のころには完全に頓挫してしまった九州攻略は、再び糸口がつかめるようになったのです。
 しかしながら、幕府内においては足利尾張守高経と佐々木導誉との対立が深刻化しておりました。この二人は観応の擾乱において対立しておりましたし、さらに山名時氏や大内氏等当時の関係者が同じ舞台に集結することによって同じことが再び起ころうとしておりました。

○管領:細川頼之の時代
 足利尾張守高経は自らのふりを悟り、管領をはじめとする息子たちを引き連れて領国越前に引き揚げます。それから間もなく高経は病死しました。替って管領となったのが細川頼之です。太平記は彼の管領就任を持って天下泰平の成就が成ったと言祝いで終わっておりますが、その終結自体が太平どころか、大きな反動に過ぎなかったのです。

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