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2014年3月13日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑪婆娑羅の躍如Ⅰ

 足利尊氏の死後、それまで執事を務めていた仁木頼章は仏門に入り、一門衆の細川清氏が足利義詮の執事になったと言われています。しかし、私自身は多分これは正確ではないと考えてます。と言うのは僧形であっても現役武将をやっている人物がすぐそばにいるからです。例えば佐々木導誉や赤松円心ら、後の足利義満も出家後にも政務に関与していた人物は普通にいます。また、仁木頼章の出家時点で足利一門は二派に分かれて抗争を繰り広げており、その一方の雄である足利尊氏が亡くなった直後にその側近が円満に引退できるとはちょっと考えにくいです。というのも、彼は執事職だけではなく、丹波・丹後・武蔵・下野の守護職をも兼帯していたのです。弟の義長にも備後・遠江・伊勢・伊賀・志摩等の守護職が任されていました。日本国六十六州のうち、九ヶ国が仁木兄弟の手にあったわけですね。当時は足利一門が真っ二つになって争っていた時代です。足利尊氏といえども自分の勢力圏の土地は信頼のおける人物に任せなければ、前面の敵に対応できません。しかも、これらの国は足利幕府軍の兵力の供給源でもあるわけです。執事を辞めたからと言って、守護まで辞めさせるのは簡単なことではありませんし、後任の執事にとって前任執事の支配国は引き継がないことには執事としての職責がはたせません。これらの国は足利尊氏が残したやっかいな遺産でした。故に、仁木頼章は死ぬまで執事職を辞めるに辞められなかったのではないかと思います。

 しかしながら人間の一生は限られていて、仁木頼章は足利尊氏の死の翌年没します。仁木頼章の職掌を継いだのは彼の弟の仁木義長でした。しかし、その兄が持っていた権力は義長にとっては大きすぎました。故に翌年に仁木頼章が亡くなると、その直後に仁木義長が失脚の憂き目にあいます。仁木頼章・義長兄弟で守護を担当した国は九ヶ国にも及びます。兄亡き後義長が一人で担うには重すぎました。新たに執事となった細川清氏としても、将軍の意志を代行するにあたって、広大な領地を持つ仁木一族の勢力をそいでおく必要がありました。畠山国清、細川清氏、土岐頼康、六角氏頼らがこの謀議に加わり、河内国誉田に蜂起した南朝軍を討つ名目で洛外に出ます。
 仁木義長は周囲に攻撃的になり、追い詰められて将軍義詮拘束を企てますが、佐々木導誉の妨害で失敗し、自滅する形で失脚します。佐々木導誉としては、仁木義長との利害対立はなかったわけですが、畠山・細川を初めとする一門衆の空気を読んだもののようです。仁木義長は伊勢に逼塞を余儀なくされました。伊勢を除く仁木氏の分国は他の諸侯たちの分け取りとなったのです。

 仁木義長の失脚で、頭角をあらわしたのが細川清氏です。細川氏は足利幕府草創期には四国方面軍を率いておりました。清氏はその嫡流ですが、南北朝の戦いの初期に代替わりがあり、清氏は若すぎることもあって軍事は庶流の定禅や顕氏ら頼貞系が担っておりました。しかし、定禅は1339年頃に亡くなり、顕氏も観応の擾乱で直義派、尊氏派の間をふらふらして去就が定まらず、正平一統で南朝軍が上洛した時に足利義詮を守ろうとして戦死しております。

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 公頼系の人々は初期から尊氏方についておりました。清氏は叔父である頼春による後見の元、経験値を積んでゆきます。そういう所から、清氏に執事のお鉢がまわってきたわけですが、観応の擾乱の余波冷めやらぬ政治情勢です。伊勢の仁木義長は南朝に与し、反撃の機会を窺っております。
 この時の幕府は必ずしも一枚岩ではありませんでした。山名時氏ら有力諸侯は依然として南朝方に与したままですし、足利尾張守高経のような帰参組もいます。細川清氏は確かに足利義詮が頼りにできる一門衆には違いありませんでしたが、その配下には非一門衆である佐々木導誉、赤松則祐、土岐頼康らもいたのです。

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 洛中に足利尊氏が幕府を立てて以来、佐々木導誉は本家を立てつつ、一門を結束させてきましたが、観応の擾乱後は佐々木一門の外に政略結婚を仕掛けます。最初の一人が赤松則祐。観応の擾乱が始まって、父親の赤松円心、兄の赤松範資が次々と亡くなったあとを継いだ則祐は足利尊氏の足利直冬追討の征旅には支配地である書写山に陣を置かせるなどして、全面協力しましたが、結果として尊氏は敗れ高師直は殺害される羽目になりました。このまま足利尊氏が直義に取り込まれてしまうと、赤松一族の幕府における立場が無くなってしまいます。そこで護良親王の遺児を立てて反幕府の蜂起をするところまで追い込まれてしまうわけです。そこに救いの手を差し伸べたのが佐々木導誉でした。彼もまた尊氏方についた敗者の立場でしたが、則祐と同時期に反幕府蜂起の軍を起こして、尊氏と義詮をそれぞれ播磨、近江に引きずり出して反直義連合の形成までこぎつけたのです。その縁で佐々木導誉は赤松則祐に自分の娘を娶らせました。
 更に正平の一統において、光巌、光明両上皇、崇光天皇の三帝が南朝に拉致された折には、勧修寺顕経とはかって、広義門院西園寺寧子を説得の上で後光厳天皇を擁立し、北朝での存在感もましていたのです。

 そんな折、足利直冬方にいることに嫌気がさした足利尾張守高経が幕府に投降しました。

 

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