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2014年3月29日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑯仏教王国ヤマト

 ここまでもっぱら、武家の動向について見てきましたが、宗教側の動向について一稿割いておきます。佐々木導誉が妙法院を焼き討ちして叡山を自重させ、その間に足利直義、夢窓疎石による天龍寺プロジェクトが成功しました。しかし、それも束の間、間もなくおこった観応の擾乱に直義も夢窓も巻き込まれその最中に亡くなってしまいます。足利義詮の代には直義が行った、天龍寺や全国一寺一塔運動のような目立った動きは差し控えられておりました。というより、分裂した幕府の立て直しに手いっぱいで寺院建立どころではなかったのですね。
 そんな間隙をついて、じわりと影響力を行使し始めたのが、旧仏教系の勢力でした。

 旧仏教といっても、京に根を張る天台・真言の平安二宗と大和国にある法相、倶舎、三論、成実、華厳、律宗の南都六宗に大別されます。そもそも平安京とは平城京に跋扈する寺院の影響力にいやけがさした桓武天皇が、その影響力を及ばないところとして選んだ地でありました。なので、平安京が作られたといっても大和国におけるそれらの仏教寺院のプレゼンスが消滅したわけではないのです。
 平安時代になって全国各地に荘園が置かれます。荘園とは何かについて、念のために説明しておきますと、建前上律令体制下においては、私有地というものは存在しませず、すべてが国衙領でありました。しかし、743年に墾田永代私財法の発布により、新規開拓農地に私有が認められたことに端を発します。その時代は私有財産制度そのものがありませんでしたので、せっかく開墾した土地を朝廷が国衙領に編入して租税を課すなんてことが行われました。開拓者はそれではたまったものではありませんので、有力者、すなわち貴族ですね。貴族に開墾地を寄進し、収穫の一部を貴族に渡して保護してもらうことと引き換えに、自らは荘官として開墾地の差配を引き続き行うという取り決めを結びました。これを寄進地系荘園といいます。平安時代は貴族だけではなく、禁裏の皇室や皇族や、寺社も荘園を持つようになり、結果として国衙よりも荘園の方が多いという事態となりました。
 そんな荘園は保元平治の乱から鎌倉、足利時代にかけて武家によって侵略されまくっておりました。農地の要所要所には地頭が置かれて荘園の上がりを奪い取っていったわけですね。貴族達はこれに対抗する武力をもっておりませんでした。それもそのはず、武士とはもともと荘園のガードマンだったわけです。彼らが平氏や鎌倉殿等の武家の棟梁を仰いで荘園を支配する領家から自立していったのです。これは全国的に発生した現象だったわけですが、唯一武家による荘園侵略が思うように進まなかった国がありました。それが、興福寺が支配する大和国です。

 興福寺は法相宗の大本山で、藤原一門の氏寺でありました。藤原一門といえば、摂関家を中心に朝廷を牛耳る最大の帰属勢力だったわけですが、もともとは中臣氏という大和国の出身豪族から出たものです。故に、大和国と藤原氏は大変深い関係があり、藤原氏所有の荘園がさらに興福寺に寄進されるということもありました。
 平安時代末期後三条院が院政をはじめた折、院は摂関家の干渉を排除するために側近を中小貴族でかためたわけですが、それに対抗して時の関白藤原師実が自らの子息を興福寺に入れ、なおかつ興福寺を大和国国司につけたのでした。この慣例は鎌倉時代になっても変わりませんでした。源頼朝は全国に守護を置いたとされますが、大和国においては例外でありました。
 それは相手が僧侶だからという表面的な理由からではありませんでした。彼らは延暦寺と同じく京に強訴を行うだけの実力を有していたからです。興福寺は朝廷に対して圧力をかける手段をもっておりました。それが春日大社の神木と呼ばれるものです。

 春日大社は興福寺の寺域内にあって、藤原氏の守護神である建雷命(タケミカヅチのミコト)を初めとする四神をまつった氏神社です。神木はその守護神が宿る依代とされております。興福寺と朝廷の間でもめ事があった時、興福寺宗徒は合議の上、この神木を担いで京都の禁裏前に転がして放置します。
 行為としてはたったそれだけのことなのですが、これが非常な効力をもっておりました。そもそも朝廷の貴族達の大半は藤原氏であり、この神木に対して粗相があれば、そのものは興福寺と春日大社の人別帳から除却されてしまうのです。すなわち、興福寺と春日大社はその者を藤原一門であるとは認めないという意味なのですね。それは貴族としての地位・特権のすべてを失うことを意味しておりました。これを放氏といいます。ただでさえ、不吉なものに対しては方違えなどしてこれを避けた人々です。ある意味『呪いの塊』のようなものを禁裏のど真ん中に置かれてしまえば、そこで政務をとるのは不可能になります。実質、朝議はストップし、興福寺の要求を禁裏が呑むというのが概ねのパターンでした。

 さて、興福寺は越前国坂井郡川河口に荘園をもっていました。武家政権である足利氏は各国の守護に荘園から反済をとることを許しておりました。この越前国守護が足利尾張守高経です。彼は幕府の命令として同荘園に反済をもとめ、当然のごとく年貢をとりました。これに我慢できなかったのが興福寺であり、衆議の上満場一致で神木を動座させることに決しました。
 この二年後に足利尾張守高経は失脚の憂き目を見ますが、彼の失脚自体はこれが直接の原因というわけではありません。しかし、この神木動座が後々、厄介な問題となって足利政権に降りかかることになるのです。

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