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2014年3月 6日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑧佐々木導誉Ⅱ

 ここまで玄恵の視点から三度にわたって足利直義の政治を見てきたわけですが、再び佐々木導誉に支点を戻すとともに、時代を四条畷合戦まで戻したいと思います。

 1347年(貞和三年)九月、河内国で楠木正行が蠢動します。河内守護で足利一門衆の細川顕氏がこれを抑えにかかりますが、失敗してしまいます。その過程で山名時氏が派遣されておりますが、かえって傷口を広げるに至りました。
 そこでやむを得ず足利尊氏の執事高師直が大軍団を編成して討伐に出ることになりました。佐々木導誉はこれに従軍し、四条畷合戦では敵の主力に打撃を与たりもしております。更に高師直軍は吉野に攻めかかりますが、この時、佐々木導誉は南朝方の奇襲を受けて子息の秀宗を討たれております。高師直軍の編成には足利一門衆のメンバーはほとんど入っておりませんでした。それが南朝を賀名生の片田舎に逼塞せしめる大戦果を挙げたわけです。この戦いそのものが、非足利一門衆武士団の力を幕府に見せつけたものであったはずでした。ところが幕府というか足利直義はその戦功を無視する挙にでます。

 それが足利直冬の長門探題任命でした。この役職は単なる長門国守護に毛が生えたようなものではなく、中国地方八ヶ国の成敗権を一手に握る強大な権限を持った役職でした。その八ヶ国の中には、佐々木導誉が守護を務める出雲国はもちろん、楠木正行との戦いをともに戦った伯耆・隠岐国守護山名時氏、安芸国守護武田信武らも含まれています。その調整を担当するのは高師直なのですが、これは不調に終わりました。高師直は足利宗家執事の座から罷免されるに至ります。

 その後、高師直は足利直冬が支配するはずの中国地方の守護達や自分付きの足利一門の武将達、土岐一族らを京に呼び寄せて、足利直義ごと足利尊氏の屋敷に包囲してクーデターを敢行しました。この包囲網の中に佐々木導誉本人は入っていないものの、息子秀綱や本家の六角氏頼を初めとした一族衆を差し向けています。以後観応の擾乱に突き進むわけですが、佐々木導誉は一貫して高師直・足利尊氏に味方しております。打出浜の合戦で尊氏方は敗れ、高師直は捕虜となった後に殺害されます。尊氏は屈辱的な条件で直義との和解を余儀なくされるわけですが、この時佐々木導誉は足利直義と南朝との折衝がうまくいかないことを見越して独自ルートで南朝に降って挙兵します。時を同じくして播磨国でも赤松円心の息子である則祐が護良親王の皇子を担いで挙兵しています。観応の擾乱が始まってからこちら赤松氏は当主を円心・範資と急死させております。直義を中心とした体制においては自らも次の標的とされることを恐れた結果であろうと推察されます。この事態にあたって、直義の許可も取らずに尊氏は導誉に向かい、義詮は赤松則祐に向かって出兵します。赤松則祐、佐々木導誉、足利尊氏、足利義詮の四人は反直義で結託しておりました。危機を察知した直義は京を脱出して一門衆の足利尾張守高経のいる越前まで下がります。

 導誉たちは京を奪い返して、江北の八相山の戦いで直義軍を撃破。直義は鎌倉に逃げますが、尊氏はこれを追って捕虜にした後、直義は死にます。
 そこから南朝の逆襲が始まるわけですが、それは次稿にて記したいと思います。

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