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2014年3月11日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑩佐々木導誉Ⅲ

 足利直義が死んだ直後から、南朝のターンが始まります。足利尊氏は崇光天皇の廃位を認めてまでして、南朝との和睦を進めましたが、南朝の方は端から足利尊氏を信用していませんでした。鎌倉には北条時行と新田義興を差し向け、京都には楠木党と北畠軍が殺到しました。関東の戦いでは尊氏は何とか南朝勢を撃破したものの、京とは延暦寺が南朝方についたので、留守居の足利義詮は孤立、一時的に京を明け渡してしまいます。この時に廃された北朝の天皇上皇達を義詮は供奉しなかったという失策を犯します。この時の攻防で細川頼春が討たれたりしているので、足利軍も相当混乱していたようです。光巌院・光明院・崇光院は賀名生に拉致されてしまいました。

 近江に落ちた足利義詮を導誉は助けて、京を奪還します。八幡まで進出していた南朝の後村上天皇が京都に入る以前に奪還を成功させたわけですが、その時京都には帝がいなければ、皇位継承の証である三種の神器もありませんでした。選帝や即位には色々と儀式があり、院政が発達した当時においては、そこに上皇が噛むことは不可欠なことでした。しかし、その有資格者が悉く賀名生に拉致されてしまったのでした。ついこの間まで関東にいた足利義詮にはどうすることもできませんでした。そこに知恵だししたのが佐々木導誉です。皇位継承の儀式で最低限可能な物を絞り、最低限皇位継承には治天(最高位の上皇)による伝国詔宣という儀式が必要であることを確認した導誉は勧修寺(坊城)経顕(彼は延暦寺の抗議を受けて天龍寺建立反対運動を朝廷で行った人物でもあります)を通じてその役目を、拉致を免れた皇室関係者に担わせることにしました。
 白羽の矢が当たったのは光巌・光明両上皇の母親であった広義門院西園寺寧子でした。当初は先例の無いことと頑なに拒んでいた広義門院でしたが、導誉らの粘り強い説得を受けて治天の役目を負うことを半ば無理矢理に承諾させられます。かくして即位をしたのが仏門に入る寸前だった弥仁親王こと後光巌天皇でした。
 その直後、導誉は山名時氏と所領を巡って対立します。山名時氏は最初は高師直に従って足利尊氏屋敷を囲みましたが、高師直が落ち目になるとこれを見限って足利直義につき、足利直義が不利になると再び尊氏方につくという方針の定まらない人物でした。北朝立て直しをするべきこの時期に、山名時氏は南朝に寝返って京都に攻め込みあろうことか、一時占拠するに至ります。今度は義詮も学習して後光巌天皇を避難させたうえで、京都を奪回します。佐々木導誉が領国としていた出雲国は山名時氏が帰参していた時に彼に与えていたのですが、この反逆を機に再び導誉の物になります。その代償として、導誉は嫡男秀綱を失うに至ります。
 そうこうしているうちに、足利尊氏がやっと京都から帰ってきました。足かけ二年弱にわたる長期の遠征となっておりました。

 帰還した尊氏はあいかわらず真面目に政治をしようとしません。政務一切は高師直に代わる執事として任命された仁木頼章が将軍御行書を発行して執り行う体制となりました。すると今度は足利直冬を担いだ桃井直常が山名時氏、足利尾張守高経らと語らって上洛軍を催したのです。桃井、足利尾張守家(斯波)は足利の一門衆であり、それに山名が加勢したので相当強力な勢力となり、一時は京都を占拠したのです。
 さりながら、足利直冬は父親に弓を向けることの罪深さに畏れを抱くナイーブな一面も持っておりました。石清水八幡宮の託宣がそれを詰る内容だったことに、直冬は戦意を失い軍団は離散したと太平記にあります。おそらく、足利直冬、桃井直常、足利尾張守高経、山名時氏とそれぞれが上洛の動機を異にしていて、直冬はそれらの統制をはかることに失敗したと考えてよいでしょう。この合戦においても佐々木導誉は尊氏・義詮方について奮戦しております。

 ここでほぼ趨勢が決したと判断した足利尾張守高経は尊氏・義詮達に帰参します。相前後して拉致されていた北朝の三上皇が京都に帰還し、畿内における南朝方の抵抗もおおむね終結の方向に向かってゆきます。すでに足利尊氏には寿命が来ておりました。癌を患い、1358年(延文三年)四月三十日、闘病の果てに亡くなりました。高師直死後に尊氏に執事として仕え続けた仁木頼章も同時に隠居します。

 ここにきて、佐々木導誉には遠慮をすべき人間はいなくなりました。おそらく彼は天皇や将軍や副将軍のようなカリスマが牛耳る政治に何の魅力も感じていなかったのではないかと思います。彼は後醍醐天皇や足利直義のような唯一の秩序を求めるような輩にたいしては、常に造反を企ててきました。それなりの大きさの武士団を率いる立場としては、固まった大勢の中で身動きができなくなることは我慢ができないことだったのではないでしょうか。彼ほどの才能がある人物であれば、政権を担う野望を持ってもおかしくないように思えますが、その実どんぐりの背比べの中でのせめぎ合いがいつまでも続くことを望んだのではないかと思います。
 足利義詮の代に入って、何度も政変が起こり、何人もの執事や管領が後退されましたが、この段階に入ると全てが佐々木導誉の手の内にあるゲームのような感じになってゆきます。

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