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2014年4月29日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅲ④喧嘩のやり方(京風味)

 ここで細川頼之の生い立ちを簡単に振り返ります。彼は1329年(元徳元年)、鎌倉時代末期に三河国額田郡細川で生まれました。細川家は足利一門衆でしたが、頼之は宗家ではありません。父頼春の代において分家をして宗家を支える役目を負っておりました。その宗家細川家は足利尊氏が天下を取った後は中国地方の制圧を命じられます。その命により、宗家の細川和氏、清氏親子は四国の主要部分を征服することに成功します。
 足利尊氏とその執事仁木頼章が相次いで亡くなると、次代の将軍足利義詮の執事として細川宗家の清氏が就くことになりました。しかし、この清氏が佐々木導誉と対立して失脚。その腹いせに南朝に降って一時的に京都を占領するという事態を引き起こしてしまいました。しかし、この軍事行動は補給が続かず清氏は阿波国に逃げ帰ります。足利義詮は清氏討伐を細川頼之に命じました。この命を奉じて頼之は細川清氏を討ち取ります。そして四国・中国を討ち平らげた武功をもって、京に凱旋すると従兄弟の清氏を失脚に追いやった佐々木導誉に管領になるようにと勧められ、就任に至った人物です。

 すなわち、彼は三河の御家人、それも分家の出であり、その生涯の大半を最前線の戦場で過ごしてきた経歴の持ち主です。それがいきなり幕府のナンバー2に祭り上げられたわけですから、彼には幕政を見る為の準備らしい準備はほとんどできていなかったと見て良いでしょう。導誉の無茶振りと言っていいかと思います。彼は先に足利義詮の執事だった見内の清氏を自ら討ち取っております。管領としての政治運営に失敗した折には彼自身にも同じ運命が降りかかることを覚悟せねばならなかったでしょう。細川頼之には失敗は許されないというプレッシャーも抱えることになります。

 頼之なりに構想はあったと思われます。細川頼之はつい最近まで中国地方の最前線で南朝方と戦っていた指揮官をやっておりました。折しも、南朝の後村上天皇が崩御しております。前線司令官的な発想としては機を逃さず、南朝を追い詰める方向に思考が向いておりました。幸いなことに、足利基氏と足利尾張守高経が相次いで亡くなることで足利一門内部の対立は収まってきております。主人の義満が幼君であることを逆用して南朝に対して攻勢に出ることを宣言し、その旗印の下で利害の異なる味方を大同団結させれば成果は出るはずでした。彼は手始めに南朝方の有力武将の楠木正儀を投降させ、細川頼之に匹敵する軍才の持ち主である今川了俊を九州に派遣することで南朝を追い詰めてゆこうと策を練っている最中でした。

そのようなことでしたので、細川頼之は畿内の寺社同士で繰り広げられた抗争の行方を軽く見すぎておりました。それでも管領という重責に応える為に良き執政であろうとし、客観的な事実認定に基づく裁定を下そうとしました。結果から見ればそれが事態をさらに悪化させたわけですが。
 管領細川頼之は定山祖禅のみを遠江国へ流罪に処しました。定山祖禅は延暦寺と園城寺を誹謗した事実については、書物に残っておりますので覆しようがありません。しかし、その本が書かれた動機が南禅寺楼門建築の為の関所をめぐるトラブルにあったとしても、定山祖禅が山門・寺門を誹謗したことと、南禅寺が楼門を建築することとは別個のことです。いわんや春屋妙葩まで流罪にする道理がありません。彼を流罪にすれば現在工事中の天龍寺の再建が滞ってしまいます。延暦寺としてはそれが狙いなのでしょうが、それが露骨に見え透いているだけに、そんな安い挑発に乗るわけにはいきません。落としどころとしては妥当な線であるはずでした。

 ところが、定山祖禅に流罪が言い渡されても、延暦寺は攻勢を緩めませんでした。強訴というものは平安時代から行われている寺社の要求行動ではあるのですが、歴史に基づく手順と言うものがあり、交渉はそれなりの時間をかけて行われるものでした。先に足利尾張守高経に対抗して、興福寺は春日神木を洛中に動座しましたが、神木は高経が失脚するまでの数年間にわたって放置されたままでした。すなわち、寺社にとって強訴とは粘り強くかつ、勝利を得るまで続けるゲームなのでした。故に、細川頼之が早期に提示した裁定は裁定として受け入れられず、前提と見なされてさらに強硬な要求に転化していったのでした。
 その一方で、細川頼之を管領の座に据えた佐々木導誉は隠居の準備を始め、出雲守護を三男の佐々木高秀に譲っております。管領にと推したものの、細川頼之は寺社相手の戦争の仕方をあまりにも知りませんでした。呆れ果てて早々に手じまいを始めたようにも見えます。
 実はこの時、佐々木導誉は佐々木一門の宗家である六角氏に追い込みをかけている所でした。1365年(貞治四年)に六角氏頼の嫡子、義信が齢十七で亡くなり、他に後継者がいない状況になっておりました。導誉はそこに孫(高秀の子)を氏頼の猶子にとねじ込んでいた所でした。このまま氏頼が死ねば、次代の近江守護は京極佐々木氏の手に帰します。導誉は事情が許せば延暦寺と喧嘩をすることは屁でもありませんが、彼が狙っている守護職のある近江国は領内に延暦寺・園城寺を抱えておりました。六角家を手に入れる前に細川頼之が山門・寺門を敵に回して大立ち回りされると、立場上頼之に加勢せねばならなくなりますし、そうすると六角氏頼が山門・寺門と手を結んで、反京極を訴える可能性もありました。佐々木導誉としてはできればこの争いに関わりたくなかったでしょう。導誉の隠居(と言っても京極家惣領を返上するわけではありません)はその意志を管領に伝える手段としてつかわれたのではないかと、私は考えます。

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2014年4月26日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅲ③続正法論事件

 定山祖禅は園城寺との抗争当時の五山筆頭南禅寺の住持でした。南禅寺楼門建設の為の関所そのものは幕府の許可を得て行っているもので、園城寺の小僧がトラブルに巻き込まれて死んだこと自体には双方に責はあるかも知れませんが、それ以降の園城寺の、そしてその尻馬に乗った延暦寺の振る舞いは彼にとっては理不尽そのものでありました。
 定山祖禅のような禅僧からみるに、天台宗は仏教と言っても色々なものが混ざり合っていたりしております。延暦寺には数々の坊社があるのですが、法華経もあれば阿弥陀信仰もあり、密教や修験道も入っております。土地神である山王権現とその使いである猿神をも祀っていたりしています。日蓮が比叡山を濁れる山と呼んだのはそんな意味あいからだったのですが、蘭渓道隆以降の禅宗にしても物の見方は同じでした。
 暦応以降、足利兄弟や足利尾張守高経らがパトロンになって夢窓疎石一門は大いに栄えます。しかし、足利尾張守高経の失脚直後に夢窓派の本拠である天龍寺が焼かれてしまって先行きに不安が出てきました。園城寺との抗争はそのすぐ後にあり、先行きの不安は延暦寺の跳梁を許す幕府への不満に転じて鬱積して言ったということもあったものと思われます。
 定山祖禅の著作『続正法論』は、臨済宗の正当性を今述べた気分を含めて書かれたものです。故に、筆が滑って延暦寺や園城寺に対して容赦のない誹謗をしてしまっておりました。すなわち、延暦寺は猿とか、園城寺は蛙といった、獣に例えて罵倒しているわけですね。その含意について考察しますと、延暦寺の猿は寺地の土地神に日吉山王権現という神号を奉じて祀っていたのですが、その神の使いが猿とされております。猿まで祀る延暦寺は仏教に値しないという所でしょうか。
 園城寺の蛙というのは、園城寺は別名三井寺と言います。古代の天皇の産湯を提供した故事によるものなのですが、それにちなんでの蛙呼ばわりです。すなわち、井の中の蛙大海を知らず。中国での最新の仏教研究に基づく禅宗こそ仏陀の正法を継ぐものであり、そこには猿を祀るべき故事はどこにもなく、禅を知らない園城寺は井の中の蛙同然であるということが言いたかったのでしょう。
 この書物が何の目的で、誰に読ませることを目的にしたのか、ネットで調べても見つからないので想像する他はないのですが、少なくとも延暦寺や園城寺に見せて挑発することが目的ではなかったでしょう。園城寺が延暦寺の支援を受け、興福寺経由で南禅寺楼門建設についての上奏文をあげましたが、それの対抗文書としても罵倒に品格がなさすぎです。さらにはすでに幕府や朝廷は禅宗側の肩を持っているので、ことさらにこのタイミングで禅の正当性をアピールする必要もないでしょう。とするならば、鬱屈憤懣を晴らす為の内部文書と見なした方がよさそうです。

 ところが、これがどういう経緯か延暦寺の目にとまったのでした。確かに内容延暦寺がぶち切れてもよいようなものでありましたが、それにしても狙いすましたようなタイミングです。園城寺の僧達が南禅寺の関所を襲い、最勝講で興福寺が延暦寺に喧嘩を吹っ掛けた時点では、足利幕府も朝廷も禅宗の味方をしており、将軍義詮も健在でした。しかし、義詮はその直後に病を得て年も越せずに死亡し、十一歳の幼君とついこの間まで最前線で戦争をしていた前線指揮官が、海千山千の古狸達が二派に分かれて足の引っ張り合いをする中で政治を執らなければならない状況でした。延暦寺にとっては美味しすぎるシチュエーションです。
 実際問題、続正法論の内容に延暦寺が怒ったというよりは、反撃の機会をじっとうかがっていた延暦寺が機が熟したと見てとるや、ストックしておいたネタを片手に逆襲に打って出たということでしょう。
 続正法論は延暦寺を猿と罵りましたが、その延暦寺はその誹りに対して、猿を使者に用いる日吉山王大権現の神輿を担いで、強訴する挙に出ました。神輿の効能は興福寺の春日神木に匹敵します。朝廷は死ぬ、と言うか機能停止してしまいます。延暦寺の要求は三つ。一つは続正法論の著者である定山祖禅の配流。二つ目はそもそもの諍いの原因となった建築途上の南禅寺楼門の破却。三つ目は定山祖禅の背後にいる夢想疎石派の中心人物春屋妙葩の配流でした。

 今回は延暦寺は最強硬の挙に出ております。その背景にあるのは同年1368年(応安元年)六月に発布された応安令でした。これは観応の擾乱の過程で足利尊氏が一時的、地方限定的に始めた半済令を全国一律・恒久的に適用することを定めたものです。とはいっても、先に失脚した足利尾張守高経の轍を踏まないように、皇族、摂関家、寺社の本所には適用しない旨も謳われております。守護の財源を恒久化した上に朝廷・寺社には半済撤廃による連携強化を策した素晴らしい法令のはずだったのですが、それは寺社達にとって幕府組み易しと感じさせるきっかけとなってしまったのです。

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2014年4月24日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅲ②宗門圧迫と幼君体制

 足利幕府は禅宗を保護し、全国一寺一塔運動を起こして寺院を建てまくりました。これは単に禅宗・臨済宗の教えを全国に広めようという動機だけではなく、寄進という形で寺院周辺の荘園の支配をさせてその収入を幕府財政に充てようという発想からのものです。曹洞宗を含め、禅寺の住持は輪番制で、師が弟子を一定期間複数の寺に派遣して、時期が来れば順番に交替させていたのです。その師の頂点に五山があるというわけで、足利直義や足利尾張守高経はこれらと密接にかかわりあってきたわけです。

故に、既に寺社が充満している畿内に禅寺を建てるということは、旧来の顕密仏教の利権を冒すものでもあったわけです。
 しかし、だからと言って顕密仏教が一枚岩だったわけではありません。良く知られている通り、天台宗と真言宗はそもそもその教祖である最澄と空海らにしてから大喧嘩をしておりますし、天台宗内部においても平安期に天台宗は延暦寺と園城寺の二派に分かれてしょっちゅう衝突しておりました。
 前稿描いた最勝講で諍いを起こした延暦寺と興福寺にしても、仕掛けたのは興福寺の方でした。すなわち、興福寺は予め武装していたのです。延暦寺側は最初はそれに追い立てられて、一旦は追い詰められたりしております。
足利尾張守高経が失脚した直後、幕府は興福寺の言い分をのんで、越前の領地を安堵しました。それを受けて春日神木を還御させたということがありました。実際は幕閣同士の争いに乗じたクーデターであったわけですが、興福寺に分け前を与えることによって、そのカモフラージュとしたわけですね。それに最勝講での諍いも絡んでいたのではないでしょうか。南禅寺問題に介入してくる延暦寺をけん制するよう幕府から頼まれたとすれば、腑に落ちるところもあるのですね。というのは、この騒擾で八名の死者が出たのですが、儀式そのものは恙なく執り行われたからです。

 禁中は穢れを徹底的に嫌います。最勝講は清涼殿で行われる儀式ですが、騒擾は南庭から紫宸殿にかけて発生しました。天下泰平・国家安穏を祈る場で戦闘が行われて、なおかつ死者の血で穢されたわけですから、死人が出た段階で儀式を行う意味は無くなっているわけです。にもかかわらず儀式の続行を命じたのは儀式の主催者である後光厳天皇本人でした。この事件が起きた1367年(貞治六年)時点で広義門院(西園寺寧子)も光厳院も亡くなっておりますので、崇光上皇は存命ではあるものの、事実上の朝廷トップです。
 皇位についても、正平一統で光明、光厳、崇光三帝を初めとする皇族達が悉く南朝に拉致をされた中、佐々木導誉が勧修寺経顕と諮って残された皇族であった弥仁親王を建てたのでした。弥仁親王が拉致を免れたのは、出家が予定されていたために他ならず、ギリギリのタイミングで皇位継承が可能になったわけでした。もし、佐々木導誉達が諮らなければ、弥仁親王は妙法院門跡となる筈でした。そこは、尊氏開幕からまもなく、佐々木導誉が焼き討ちをした寺院でもあります。後光厳天皇が在位できているのは佐々木導誉に負うところが大きいので、故に幕府と延暦寺が対立した折には幕府につくのは当然だったと言えましょう。朝廷も幕府側について、比叡山の横やりを許さない意志を示したのではないかと思います。もちろん、天皇は直接政治的行動をとることはできませんが、自らの管轄である禁中の儀式が血で穢されても続行させたということ自体が、朝廷が幕府支持であることを延暦寺に宣言したのと同然であったのでした。その姿勢に延暦寺もわずかな期間ではありますがおさまりました。

 ところが、その直後に今度は足利義詮が病床に伏し、年が明ける前に亡くなってしまいました。足利義詮は朝廷と幕府の一致結束の中心人物です。佐々木導誉が権勢をふるっていられるのも、足利将軍との個人的な関係によるところが大きいのですが、導誉はそれを喪い、政界再編の調整モードに入ってしまったのでした。幕府はすったもんだの末に、足利義詮の十一歳の息子、春王が元服し義満と名乗り、将軍位につきました。
 幕府の脇を支える管領のが導誉が推薦した細川頼之なのですが、これに対抗して前将軍夫人である渋川幸子が斯波義将、山名時氏と誼を通じて派閥を形成したのでした。掲げる神輿が幼君であっても宰相に強靱な権力基盤があるならば、意志は貫徹できますが、幕府自体が二派閥に割れている状況においては強権的な行動は対立者に付け入る隙をみせることになります。
 鎌倉で大きな権力を握っている独立組織である関東公方の足利基氏も亡くなっていて、後を継いだのは九歳の足利氏満です。政界の実力者がこの期間に相次いで亡くなって、観応の擾乱の二の舞は避けられたのですが、武士達が争いを避けているこの時期は非武士階層の権益を増やすチャンスでもありました。平和の維持にはそれら非武士階層の支援は不可欠であるが故に。この好機を延暦寺は見逃しませんでした。

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2014年4月22日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅲ①洛中幕府編年表

洛中幕府編Ⅰ~Ⅲの年代をほぼカバーする年表です。

1336年(建武三年)__二月_____赤松円心、播磨国守護になる。
_________________武田信武、安芸国守護になる。
__________五月二十五日_湊川の戦い。楠木正成、戦死。敗戦の報をうけ、後醍醐天皇、東坂本に逃れる。
__________六月_____足利尊氏、光巌上皇を奉じて上洛。東寺合戦。
__________六月三十_日_名和長年、洛中で戦死。
__________八月_十五日_光明天皇、践祚。
_____________十七日_足利尊氏、清水寺に願文を奉し、遁世を願う。
_________十一月__二日_後醍醐天皇、降伏して比叡山を降り、花山院に幽閉される。
______________七日_足利尊氏、建武式目発布。
_________十二月_____後醍醐天皇、京を脱出し吉野に逃れる。
1337年(建武四年)__七月_____山名時氏、伯耆国守護になる。
1338年(建武五年)__五月二十二日_北畠顕家、和泉国石津で戦死
_________________この月、和泉国久米田寺に利生塔を建立する。
__________六月_____吉良貞家、因幡国守護になる。
__________八月_十一日_足利尊氏、征夷大将軍となる。
_____________十七日_新田義貞、北陸で戦死。
1338年(暦応元年)____二十八日_暦応に改元
_________十一月_____高田専修寺の専空、戦災で焼けた大谷廟堂を再建する。
_________________吉良貞家、但馬国守護になる。
1339年(暦応二年)__八月_十六日_後醍醐天皇崩御。
__________九月__一日_足利直義、坊門三条等持院にて法華八講を主催。(師守記)
_________十一月二十六日_足利尊氏、三条坊門第等持院にて、後醍醐院百箇日の曼陀羅供を行う。(師守記)
1340年(暦応三年)_十_月____佐々木導誉、妙法院事件を起こす。
1341年(暦応四年)__四月__三日_出雲守護塩谷高貞、讒言により自害。
__________七月_____山名時氏、出雲国・隠岐国守護となる。
_________十_月_____細川頼春、備後国守護となる。
_________________足利尊氏、三条坊門高倉に等持寺を建てる。
_________________日蓮宗の妙顕寺、御溝傍今小路から四条櫛笥に移る。
1342年(康永元年)__四月二十七日_康永に改元。
_________________この年、細川顕氏、備前国守護となる。
1343年(康永二年)__五月_____高南宗継(高一族)、備中国守護になる。
__________八月_____出雲国守護交替。山名時氏⇒佐々木導誉
1344年(康永三年)_________富田秀貞(佐々木氏)、美作国守護になる。
1345年(貞和元年)_十_月二十一日_貞和に改元
_________________この年、日蓮宗の日静、光巌上皇から七条堀川に寺地を賜り、本国寺と号す。
1346年(貞和二年)_十_月_____因幡国守護交替。吉良貞家⇒上総左馬助。
1348年(貞和四年)__一月__五日_楠木正行、四条畷で戦死。
__________二月_____但馬国守護交替。吉良貞家⇒今川頼貞
__________六月__七日_足利如意丸、誕生。
_________________山名時氏、侍所頭人になる。
_________________長門国守護、厚東武実死去、息子武村継承。
1349年(貞和五年)__三月_____備後国守護交替。細川頼春⇒足利直冬。
__________四月_____足利直冬、長門探題に任じられる。
_________________上野頼兼、石見国守護を解任される。
_________________長門国守護交替。厚東武村⇒足利直冬。
_________閏六月__七日_高師直、執事を罷免される。
_________________足利直冬被官の上総左馬介、大内長弘に替わり周防国守護になる。
__________八月_十三日_高師直、足利尊氏邸を囲み、直義の引き渡しを要求する。_
__________九月_____長門国守護交替。足利直冬⇒厚東武村。
__________十月_____備後国守護交替。足利直冬⇒大平義尚。
_________十一月_____足利義詮、上洛
_________________但馬国守護交替。今川頼貞⇒上杉朝房
_________十二月_____足利直義、出家。恵源と号する。
_________________上杉重能、畠山直宗、越前にて暗殺される。
1350年(貞和六年)__正月_____播磨守護交替、赤松円心⇒赤松範資
1350年(観応元年)__二月二十七日_観応に改元
__________六月_____高師泰、石見国守護につく。
__________八月_____備前国守護交替、細川顕氏⇒松田信重
__________九月_____高師泰、長門国守護につく。
_________________因幡国守護交替。上総左馬助⇒今川頼貞
_________十_月_十六日_足利直冬、九州で挙兵。
_________十_月二十六日_足利直義、京を脱出。
_________十_月二十八日_足利尊氏、直冬討伐の為中国出陣
_________十二月_十三日_足利直義、南朝に降り、足利尊氏追討の綸旨を得る。
_________________周防国守護交替。上総左馬助⇒河野通盛
1351年(観応二年)__一月__七日_足利直義、京に入る。
__________二月_十七日_打出ヶ浜合戦
__________二月二十五日_足利如意丸、夭折。
__________二月二十六日_高師直・師泰兄弟、上杉能憲の手により討たれる。
__________二月_____長門国守護交替。高師泰⇒厚東武村
_________________備中国守護交替。高南宗継(高一族)⇒秋葉備中守
__________三月_____出雲国守護交替。佐々木導誉⇒山名時氏
__________四月__八日_赤松範資、死去。赤松則祐が播磨国守護につく。
__________八月__一日_足利直義派、軍をまとめて京を脱出する。
__________八月_十六日_夢窓疎石、天龍寺多宝院で後醍醐天皇十三回忌の仏事を営む。
__________八月_十八日_足利尊氏、京を出て近江出陣。
_________________備前国守護交替。細川顕氏⇒松田信重
__________九月_十二日_八相山の戦い。直義軍敗れて敦賀に撤退する。
__________九月二十二日_尊氏、妙顕寺への乱入狼藉禁止令を出す。
__________九月三十_日_夢窓疎石、入寂。
_________十_月二十四日_足利尊氏、南朝に降伏。
_________________長門国守護、厚東武村死去、息子武直継承。
_________十一月__四日_足利尊氏、直義討伐の為に京を出て鎌倉に向かう。
______________七日_南朝、北朝の崇光天皇を廃す。
_________________石見国守護に荒川詮頼が任じられる。
1352年(観応三年)__一月__五日_足利尊氏、鎌倉占領。
__________二月二十五日_延暦寺別院の祇園社(現八坂神社)、妙顕寺法華堂を破却。
____________二十六日_足利直義、没す。
_________閏二月__一日_祇園社、仏光寺を焼く。
__________三月_十二日_尊氏、鎌倉を回復。
__________三月_十五日_義詮、京都を回復。
__________四月__一日_義詮、祇園社に天下静謐を祈らせる。
__________四月__二日_義詮、延暦寺の戦功を賞する。
__________六月_____光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、南朝に拉致される。
__________八月_十七日_後光巌天皇、践祚。
__________八月_____出雲国守護交替。山名時氏⇒佐々木導誉
_________________因幡国守護交替。今川頼貞⇒高師秀
1352年(文和元年)__九月二十七日_文和に改元
__________九月_____周防国守護交替。河野通盛⇒大内弘直(長弘の息)
1353年(文和二年)__六月__九日_山名党を中心とした南朝軍、京都占領。
__________七月二十六日_義詮、京都奪還。
__________九月二十一日_足利尊氏、京都に帰還。
1355年(文和四年)__正月二十二日_足利直冬、桃井党を中核とした南朝軍、京都占領。
_________________尾張足利高経も、直冬方に加わる。
__________三月_十二日_足利尊氏・義詮親子、京都を奪還。
__________五月二十_日_義詮が、妙顕寺への乱入狼藉禁止令を出す。
__________八月__八日_光明上皇、解放されて京都に戻る。
__________八月二十九日_足利尊氏、妙顕寺に近江、備前に寺領を与える。
_________________尊氏・義詮、本国寺祖師堂建立の為に材木を寄進。
1356年(延文元年)__三月二十八日_延文に改元
_________________この年、尾張足利高経、直冬方から幕府に帰参。
1357年(延文二年)__一月二十二日_尊氏は京都祇園社と妙顕寺に天下静謐を祈らせる。
__________二月_十八日_光巌、崇光上皇、帰京する。
__________三月二十六日_義詮が、妙顕寺他に尊氏の為に祈祷させる。
__________八月二十五日_後光厳天皇、妙顕寺に四海静謐を祈らせる。
_________________春屋妙葩、等持寺の住持となる。
1358年(延文三年)__一月__四日_天龍寺火災。雲居庵を除いて消失。
__________二月_十二日_足利直義に従二位が追贈される。
__________四月二十七日_幕府は妙顕寺に、尊氏の為に祈祷を行わせる。
____________三十_日_足利尊氏、死去。仁木頼章、隠居する。
_________________細川清氏、足利義詮の執事となる。
__________六月二十五日_妙実、後光厳天皇から雨乞いの祈祷を命じられ、成功。
1359年(延文四年)_十_月_十三日_仁木頼章、死去。
_________________春屋妙葩、義堂周信ら夢窓派僧を関東に下向させる。
1361年(延文六年)__二月_____仁木義長、失脚。
1361年(康安元年)__三月二十九日_康安に改元
__________九月_____細川清氏、失脚。
_________十二月_____細川清氏、楠木正儀、一時京都を占領するも、奪回される。
_________________臨川寺火災。春屋妙葩、これを復興させる。
_________________尾張足利氏経、九州探題に任じられる。
1362年(康安二年)__六月_十四日_幕府、妙顕寺に病魔退散を祈願させる。
__________七月二十二日_故足利直義に正二位追贈、大倉大明神の神号が送られ、天龍寺に祀られる。
__________七月二十三日_尾張足利義将、執事に就任。父の高経、後見し幕府の実権を握る。
__________七月二十四日_細川清氏、讃岐にて細川頼之に討たれる。
1362年(貞治元年)__九月二十三日_貞治に改元
_________十_月_____尾張足利氏経、九州長者原の戦いで敗れ、大内氏の保護下に入る。
1363年(貞治二年)__二月二十_日_春屋妙葩、阿波国補陀寺で細川頼春十三回忌を務める。
__________九月_____春屋妙葩、天龍寺第十世住持となる。
_________________南朝に属した山名時氏、大内弘世、幕府に帰参。
_________________周防国守護交替。大内弘直⇒大内弘世(南朝方)
_________________長門国守護交替。厚東武直⇒大内弘世(南朝方)
1364年(貞治三年)__四月__三日_大覚妙実、六十八歳で示寂。
_________________備前国守護交替。松田信重⇒赤松則祐
_________十一月_____興福寺の神木、上洛する。
1365年(貞治四年)_十_月__三日_洛中火災。尾張足利高経、三条高倉に館を新築する。
_________十一月__八日_六角義信(氏頼の嫡男)死去。氏頼、佐々木高経(高詮)を猶子にする。
1366年(貞治五年)__八月__九日_貞治の変。尾張足利高経・義将失脚し、越前に下る。
_____________十二日_春日神木、帰座。
1367年(貞治六年)__三月二十九日_天龍寺火災。
__________四月__二日_鎌倉公方足利基氏、鎌倉左京進・安東九郎ら家臣二十二名を誅殺
__________四月二十六日_鎌倉公方足利基氏、没する。
__________五月二十六日_桃井直常、足利義詮に帰順。
____________二十九日_佐々木導誉、基氏弔問の名代として鎌倉に下向。
__________六月_____南禅寺造営関所で、園城寺とトラブルを起こす。南禅寺楼門事件の発端
_____________十八日_園城寺僧兵、南禅寺関所を破壊し、僧侶を殺傷する。
____________二十六日_幕府、今川貞世に園城寺の関所三ヶ所を破壊させる。
____________二十八日_幕府、園城寺、聖護院、実相院、円満院の領地を没収。
__________七月__五日_播磨領を巡り、石清水八幡宮の神輿上洛未遂。
_____________十三日_尾張足利高経、杣山城で没す。
__________八月__八日_園城寺、延暦寺と共同し興福寺経由で朝廷に奏状を献ず。
_____________十_日_春屋妙葩、天龍寺再建の事始めの儀を執行する。
_________________佐々木導誉、帰洛。
_____________十九日_最勝講で延暦寺・興福寺衆徒が諍いを起こす。
__________九月__四日_尾張足利義将、赦免されて上洛。以後斯波氏を名乗る。
______________七日_細川頼之、上洛。
_________十一月二十五日_細川頼之、管領になる。
_________十二月__七日_足利義詮、死去。
1368年(応安元年)__二月_十八日_応安に改元
____________二十四日_桃井直常、再度幕府に離反。
__________六月_十九日_石清水八幡宮の神輿上洛未遂。
__________八月二十九日_南禅寺問題で、延暦寺強訴に及ぶ。(続正法論への非難)
__________九月_____出雲国守護交替。佐々木導誉⇒佐々木高秀
_________十二月__七日_春屋妙葩、等持院で義詮一周忌の導師を務める。
1369年(応安二年)__七月_____幕府、南禅寺楼門破却を決定。春屋妙葩、天龍寺住持を辞す。
_________________この年、楠正儀が北朝に投降。
_________________この年、六角満高(氏頼の次男)誕生。
1370年(応安三年)__六月__七日_六角氏頼死去。佐々木高経(高詮、導誉の孫)近江守護になる。
_________________今川了俊、九州探題に任じられる。
1371年(応安四年)__三月二十八日_山名時氏、死去。
__________七月_____桃井直常、消息不明になる。
_________十一月_____春屋妙葩、丹後雲門寺に隠棲する。
_________十二月_____興福寺強訴。
1372年(応安五年)__六月_____今川了俊、南朝方から大宰府を奪回。
1373年(応安六年)__八月二十五日_佐々木導誉、死去。
_________________この年、天龍寺火災。
1374年(応安七年)__一月二十九日_後光厳天皇、崩御。
__________六月_____延暦寺二度目の強訴。
_________十一月_____興福寺の強訴問題決着。
1377年(永和三年)__一月_十三日_肥前蜷打合戦。今川了俊、菊池武朝・阿蘇惟武ら南朝軍を撃ち破る。
__________九月_____佐々木高経、近江守護を解かれる。
1378年(永和四年)__三月_十_日_足利義満、花の御所に移る。
__________四月_十七日_関東管領上杉能憲、死去。弟憲春が関東管領を継ぐ。
_________十一月__二日_南朝橋本正督、紀伊国で挙兵。
_________十二月_十三日_細川頼元、紀伊国で南朝の橋本正督に敗れる。
____________二十_日_山名義理が紀伊国守護に、山名氏清和泉国守護に任じられる。
1379年(永和五年)__一月__六日_興福寺の要請により足利義満、斯波義将を十市遠康討伐に差し向ける。
____________二十二日_足利義満、橋本正督討伐に山名義理、氏清、時義を差し向ける。
__________二月__九日_山名義理、紀伊国藤浪・石垣両城を攻略。
__________二月二十_日_細川頼之、辞意を表明するも足利義満が慰留。
____________二十二日_足利義満、土岐頼康追討を命じる。
____________二十三日_足利義満、大和派遣軍の斯波義将に帰還命令を出し、義将帰京。
____________二十九日_足利義満が土岐頼康と佐々木高秀の京屋敷を破却した件につき、高詮弁疏。
__________三月__七日_六角佐々木亀寿丸、京極佐々木高秀を近江甲良に攻める。
_________________関東管領山内上杉憲春、関東公方足利氏満に対して諌死。
_____________十八日_頼之再び辞意表明。義満慰留する。
_________________足利義満、土岐頼康を赦免する。
1379年(康暦元年)__三月二十二日_康暦に改元
____________二十六日_足利義満、六角亀寿丸に対し、京極佐々木高秀の討伐命令を出す。
__________四月_十三日_二条良基の仲介で足利義満、佐々木高秀を許す。
_________閏四月_十三日_康暦の変。斯波義将、土岐頼康、佐々木高秀ら足利義満邸を包囲。
_____________十四日_細川頼之、失脚。
_____________十九日_足利義満、天龍寺雲居庵に春屋妙葩を訪ねる。
____________二十八日_斯波義将、細川頼之の後任として管領に就任。
__________五月__二日_足利義満、謝罪使の古天周誓に関東公方足利氏満の赦免を伝える。
__________六月__二日_春屋妙葩、南禅寺住持として入院する。
__________八月_十四日_興福寺、神木上洛。
_________十_月_十_日_春屋妙葩、初代の僧禄となる。
1380年(康暦二年)
__________三月_____義堂周信、京に召し出される。
_________十二月_十二日_天龍寺火災。公文書などが焼ける。
_________この年_____佐々木高秀、出雲・飛騨・隠岐守護職を罷免される。
1381年(永徳元年)_________今川了俊、島津伊久を帰順させる。
1382年(永徳二年)_________足利義満、春屋妙葩を二世住持として相国寺の建立を発願。
1384年(永徳四年)_________足利義満、祇園社を延暦寺から独立させる。
1387年(嘉慶元年)_________妙顕寺、再び山門の衆徒により破却される。
1388年(嘉慶二年)__八月_十二日_春屋妙葩、示寂。
1389年(康応元年)_________足利義満、細川頼之を赦免する。
1390年(明徳元年)_閏三月_____土岐康行の乱。土岐康行、討たれる。
1391年(明徳二年)________今川了俊、八代城の名和顕興と征西大将軍良成親王を降伏させる。
_________________斯波義将、管領職を辞す。後任は細川頼元
_________十二月_____明徳の乱。山名氏没落。
1392年(明徳三年)_________管領交替。斯波義将⇒細川頼元
_________________相国寺竣工。
_________________南北朝合一。
_________________今川了俊、九州平定完了。
1395年(応永二年)_________今川了俊、九州探題を解任される。
1398年(応永五年)_________絶海中津、僧禄につく。
1399年(応永六年)_________応永の乱。大内義弘、没落。拙堂宗朴、大内陣を訪ねる。
_________________妙心寺住持拙堂宗朴、青蓮院に幽閉。寺領没収される。
1401年(応永八年)_________博多商人肥富、僧租阿、遣明使として明国に渡る。
1405年(応永十二年)_四月__五日_絶海中津、入寂。

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2014年4月12日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ㉑桃井直常の義

 前稿で、貞治の変は観応の擾乱のような大争乱になりかねない様相を呈していたのに、都合のよい時期に当事者達が次々と死んでいったために、結果として最悪な事態が免れたということを書きました。本稿においては、余談としてその場所のかけ離れた一連の全ての死に近い場所にいた人物を紹介したいと思います。
 彼の名は桃井直常。一門衆で幕府草創期には越中守護を任じられておりました。直義党の幹部の中でも最右翼の武闘派であり、観応の擾乱において和議のチャンスは何度かあった時にその悉くを潰した人物でもありました。昔、NHKの大河ドラマ太平記の中で、鎌倉で捕虜になった直義を尊氏が自分に従うように命じますが、直義はそれを拒否します。尊氏がその理由をただすと、直義は桃井直常を見捨てられないからだと答え、最終的に尊氏が振る舞う毒茶をそれと知りつつ服するに至ります。ドラマはドラマでしかありませんが、この解釈に立つならば、桃井直常は直義に愛され、愛されていることを自覚しつつも節を曲げることのできない不器用な漢でありました。

 1355年(文和四年)に山名時氏が足利直冬を担いで上洛すると、それに呼応して入京します。この折には足利尾張守高経もおりました。この時の上洛軍には大きな弱点がありました。それは足利直冬の統率力の無さに起因するものなのですが、山名・尾州足利・桃井らの連係がうまく取れていなかったことです。足利尾張守高経は足利一門衆筆頭意識が抜け切れず、山名は大ばくち打ちです。桃井は直義ですらもてあました頑固者であり、それぞれがそれぞれ違った思惑で動いていたので、一つの敗戦を契機に連合軍は瓦解します。そして、高経はさっさと幕府に帰参してしまい、その高経が幕府の実権を取ったタイミングで山名もそれに従います。幕府は幕府でこの帰参組の所領を没収することはありませんでした。なので、桃井も節を曲げて頭を下げれば帰参して赦された可能性はありました。しかし、桃井はブライドが邪魔をしてそれができなかったようです。高経もたいがいプライドの高い人物ではありますが、桃井は別のベクトルでプライドの高さを保った人物であったと言えるかもしれません。そして、拠点である越中国で高経と対峙していたのですが、結局戦線を維持できずに鎌倉に亡命します。
 鎌倉には尊氏の息子の基氏がいたのですが、関東はこの頃から一個の独立国でした。そこには観応の擾乱のとばっちりを受けた旧直義派の禅僧達がおり、尊氏派で基氏執事の畠山国清は上方に呼ばれた折にミソをつけ、結局、失脚してしまいます。それを継いだのが、上杉憲顕でした。彼はバリバリの直義派です。直常は彼にわたりをつけて鎌倉府に潜伏していたのでした。基氏も尊氏の血のつながった子ではありましたが、直義の猶子でもありました。なのでどちらに与するというわけではなく、対立するに陣営のはざまに立って、懊悩を内にかかえこんでおりました。少なくとも今川了俊は難太平記においてそのように悩むことがあったのではないかという推測をさしはさんでおります。

 貞治の変で足利尾張守高経・義将親子が失脚すると、鎌倉を取り巻く状況は一気にきな臭くなります。追い詰められた高経は救援を旧直義派に求めたろうことは想像に難くありません。桃井直常はもともと越中国にいたのですが、先に幕府に帰参した高経・義将親子に圧迫されて、鎌倉に流れてきておりました。なので、直常には今さら高経に味方する義務も義理もありませんし、彼らの行いを身勝手なものとして切り捨てていたことでしょう。

 とはいえ、尾州足利家に遺恨を持たない旧直義派が大勢いた鎌倉府には動揺が走ります。そして、基氏は鎌倉左京進を初めとする家臣二十余名を誅殺せざるを得ないところに追い込まれてしまいました。
 鎌倉左京進の政治的立場は想像するしか無いのですが、彼らが足利尊氏・畠山国清シンパであったとすれば、鎌倉公方基氏は高経・義将親子の檄に乗って反幕府の行動を取ろうとしたことになります。でも、桃井直常の立場からすれば、都合の良すぎる言辞を弄する高経・義将親子の話に乗ることはありえないですし、その動きを何とか封じたいと思うことでしょう。
 逆に誅殺された鎌倉左京進達が親高経・義将派であったとすれば、桃井直常は足利基氏を強力に支持したでしょう。ただ、それは基氏の懊悩が自らの身に病を呼びこんだ最中のことでした。桃井直常はこの足利宗家の御曹司に一宿一飯の恩義は感じていたことでしょう。彼の望みを叶えてやりたいと考えたかもしれません。心が弱い点においては、直冬も同じですが、基氏には時間がありました。与えられた時間の中で、上杉憲顕のようなお尋ね者を鎌倉府の柱石に据え、義堂周信のような天龍寺の火災等で京にいられなくなった臨済宗の僧侶達を受け入れて、直義が理想としていた政治に則った街をこの鎌倉に創り出しておりました。基氏の望みがその鎌倉を守ることとであれば、桃井直常はそれに従うことに吝かではなかったでしょう。

 いずれにせよ、貞治六年四月二日に足利基氏は鎌倉左京進ら家臣を誅殺し、その月が明けぬうちに亡くなりました。結果的に鎌倉が足利尾張守高経になびくことは無かったのですが、主人無き鎌倉府は京から見れば不穏そのものであり、佐々木導誉が派遣されることになりました。単純な弔問ということではなかったようです。三条公忠の日記である『後愚昧記』の貞治六年五月二十八日条に佐々木導誉の関東下向の旨が記されているのですが、そこに「関東事為成敗云々」とあります。単なる弔問ではなく、軍動員を伴うものであり、関東でしばらく統治をすることを含んだものであると見てよいでしょう。史実においては鎌倉に下った導誉と鎌倉方と戦いは起こりませんでした。導誉は尊氏とは仲がよかったものの、関東にはほとんど地盤はありません。上杉憲顕が基氏の遺児氏満を担いで導誉に歯向かったなら導誉を撃退することは可能でしたが、憲顕は導誉を受け入れました。これは足利一門の再分裂を忌避したということでありましょう。導誉も氏満の関東公方相続を認め、基氏死後の鎌倉府体制の立て直しに尽力しました。

 もっとも、もしそこに桃井直常がいたことが発覚すれば、導誉はこれを捕らえて刑に処したことでしょう。導誉は観応の擾乱においては一貫して足利尊氏方であり、彼にとってみれば足利尾張守高経も桃井直常も直義方の残党です。貞治の変においては、政変の主導権を取って動いておりました。上杉は潰せないが桃井直常は敗残の末の食客にすぎませんから、これを捕まえて報復されてもおかしくはありません。
 この時、桃井直常は導誉と入れ違いに京に入りました。頭を丸めた上での帰参願です。義詮はこれを赦しました。実はこの時、義詮は越前に兵を差し向けていたのですが、足利尾張守高経・義将親子の抵抗は強く攻めあぐねていました。そこで桃井直常を彼の旧領地である越中に戻して高経・義将親子に対峙させようと画策したのです。実際問題、ここを統治していたのは尾州足利義将だったので、越中を支配したければ自ら越中を征服せよと言ったも同然なことでもありました。もっとも、敵地の守護に任じて征服戦を戦わせるのは、今川範国なども似たようなことをされてます。(今川家の場合は数代かけて遠江・駿河両国を征服しました)何より、前越中守護の尾州足利義将は幕府軍の攻勢にあって、越前国栗屋におりました。留守を狙うことは容易だったことでしょう。桃井直常は自身が越中守護にはならず、弟の直信にその役目を委ねます。
 尾州足利親子が越前に逼塞しており、越中は切り取り放題とはいえ、桃井氏はその尾州足利親子に越中国から放逐された身です。手早く失地回復をするためには、尾州足利親子の存在感が邪魔でした。鎌倉公方足利基氏の死が観応の擾乱の再現を恐れた末の懊悩が原因とする立場に立つならば、その懊悩の原因は足利尾張守高経にありました。そんな状況の中で桃井一族はその再興をかけて尾州足利と越中国で対峙していたわけです。

 足利尾張守高経が死んだのはそれから間もなくのことでした。足利基氏と同じく、その死の真相は不明です。息子の義将も降伏し、尾張足利の名を捨てて斯波と名乗ることと引き換えに赦しを得ます。斯波義将があっさり赦された理由はやはり憎まれていたのはあくまでも高経であって義将ではなかったことでありましょうが、この時点では分国越前国は畠山義深が預かり、越中国も桃井氏のものとなっており、義将の処遇は宙に浮いたままの状況でした。畠山義深も兄国清の失脚のあおりを受けて没落していたところを今回の戦いで名誉挽回した復帰組でした。
 政変後の政局は山名時氏と佐々木導誉の二人を軸にそれぞれが派閥を形成して対峙します。山名時氏は足利義詮夫人の渋川幸子と組み斯波義将を抱き込みます。渋川幸子の姉は足利直義に嫁いでおりましたから、斯波義将が赦されたのは旧直義派の人脈によるものだったと思われます。桃井直常も畠山義深もこれには多少は複雑な気持ちになったことではなかったかと思われます。
 この政変のもう一方の黒幕、佐々木導誉は鎌倉におりましたので、幕府の実権は山名・渋川連合の手に落ちたように見えたのですが、その直後に公方足利義詮は病で倒れます。
 その直前に中国地方を平定した細川頼之が上洛していました。佐々木導誉はそれを口実に、関東の支配は上杉憲顕にまかせて帰洛します。これ以降、渋川幸子派と佐々木導誉派の二派閥による勢力均衡の中で、幕政が取られてゆきます。渋川派が斯波義将を取り込んだ以上、そこに桃井の寄って立つ余地はありませんでした。渋川幸子は京に戻った導誉と妥協をはかります。そして、直接政務を見ることができなくなった足利義詮を補佐する管領として佐々木導誉が推す細川頼之を管領につける代償に、斯波義将の処遇を保証させることに成功するのです。
 こうしてみてゆくと、足利義詮も桃井直常も足利尾張守高経失脚後の政界再編の波に乗り切れずに弾き出されたと言ってよいかもしれません。そして、病の義詮はそのまま死に、桃井直常の弟、直信は越中守護を解任されます。その後釜に座ったのは斯波義将でした。

 桃井直常は南朝の姉小路家綱の支援を得て越前にて再び反斯波闘争を継続します。しかし、桃井直常が幕府からはじきだされたその年に、後村上天皇が崩御します。観応の擾乱の折には幕府内訌の間隙をついて、一時的ではありますが正平の一統をなしとげましたが、今回は付け入るすきも与えられないままの死でした。

 もちろん、桃井直常がこれらの死に直接の関与をしていたとは考えにくいのですが、桃井直常はこれら全ての死の間近にいた可能性があります。彼らがもし生き延びていたなら、最悪の想定として足利尾張守高経が南朝に投降し、関東公方の足利基氏を担いで足利義詮を打倒したやもしれません。そうなれば後村上天皇を奉じる南朝軍が京を占領して今度は北朝後続を悉く滅ぼすなどということも、想像できるでしょう。少なくとも、桃井直常はその流れが押し留められる過程の全てを目撃した筈です。仮にそこに桃井直常の意志があったとすれば、その意志に伴う行動とはどんなことがありえたでしょうか。

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2014年4月10日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑳顕密仏教の逆襲と都合の良い三つの死

 佐々木導誉が故足利基氏の弔問かつ視察に鎌倉に赴いている最中に、畿内の旧仏教寺院の蠢動が始まります。それは、佐々木導誉が守護する近江国大津にある園城寺がきっかけになりました。天龍寺と同宗派である南禅寺において、楼門を新築するプロジェクトが進んでおりました。その資金調達の為に関所が設けられていたのですが、その関所で園城寺の童子がトラブルを起こして殺害されるという事件が起きたのです。足利幕府は普段から禅宗や日蓮宗など新興の宗派は保護するのに、延暦寺に後醍醐天皇がかくまわれた時にはこれを包囲攻撃し、佐々木導誉なども妙法院を焼き討ちするといった感じで古くからある顕密仏教はあまり顧みられることはありませんでした。本来であれば、南禅寺が設けた関所の不祥事を幕府に告発すべきところですが、相手はその幕府が保護している南禅寺の関所でした。公平な採決は望めないと考えたようです。そこで園城寺は宗徒を集めて南禅寺が設けた関所を攻撃し、破却しました。その際に南禅寺側の僧侶が殺害されるなど、単なる刑事事件ではなく暴力団抗争のような血で血を洗う展開になったため、幕府が介入することになりました。
 幕府は引付衆頭人今川貞世を召して、園城寺関所を三ヶ所、破壊させました。それだけではなく、園城寺と聖護院、実相院、円満院ら天台宗寺門派(要するに園城寺派)諸寺院の所領の一部を没収するに至りました。

 この一件においては南禅寺のみならず、幕府も当事者となってしまった為に、身動きがとれなくなってしまったので、朝廷が調停に動きました。
 朝廷は近々延暦寺、興福寺、園城寺、東大寺の四大寺院の高僧を招いて行う年中行事である最勝講というイベントを控えていたので、この抗争が長引くことを良しとしませんでした。そこで、足利尾張守高経の件で要求が通って気をよくしている興福寺に働きかけて、園城寺の言い分を聴取させました。そこに普段は犬猿の仲である延暦寺も今回に限っては園城寺と結託して南禅寺を非難しました。興福寺はこれを朝廷に伝え、朝廷の方はうまくとりなせたつもりだったのですが、園城寺はこれに不満を唱え、その抗議の意味をこめてその年の最勝講に僧侶は派遣しないことになります。
 その結果、最勝講は延暦寺、興福寺、東大寺の三寺合同で行われたわけですが、この儀式の最中に延暦寺宗徒と興福寺宗徒の間で乱闘事件が起こります。宗徒とはいえ、ともに太刀で武装しており八名の死者がでたとのことです。

 この前月に足利尾張守高経が越前国杣山城で病没しています。鎌倉公方足利基氏といい、このあたり、都合の良いタイミングで都合良く人が死ぬのですが、真相は藪の中です。足利尾張守高経・義将親子が失脚後、後任の執事は置かれずに足利義詮が親政を行ったそうではありますが、失脚の憂き目にあった高経の強談判に泣き落としをするしかなかった義詮にその器量があったとは考えにくい。
 高経の死というタイミングで、好機を得た義将は降伏して上洛。赦免されます。義将はそれより足利の名乗りをやめて先祖の領地をとって斯波と名乗るようになりました。高経の気位の高さを考えるなら、赦免時に払われるべき相応のペナルティと言えるかもしれません。
 同時に中国四国方面軍の細川頼之が呼び戻されます。彼は四国で細川清氏を討ち、大内・山名帰順後にまだ反幕府の態度を取り続ける中国地方の足利直冬の討伐をしておりましたが、直冬は1366年(貞治五年)以降、その活動を止めて行方不明になりました。一応の目的は完遂したことになり、凱旋と言っていいでしょう。
 細川頼之の上洛から間もなく、足利義詮は体調を崩し、病床に伏します。当然のこと、政務が滞るわけですが、ここで佐々木導誉と赤松則祐は細川頼之を執事に推挙します。そして、導誉はこれは先に亡くなった鎌倉公方足利基氏の遺言でもあることを明らかにするわけです。既に死亡している基氏の意はともかくとして、佐々木・赤松が細川頼之を推挙するのは明らかに足利尾張守改め斯波義将に対する牽制にありました。帰順間もない斯波義将にはこれに対する否応はなく、細川頼之はこれを受けます。

 足利義詮はこの時病床にあって、政務が執れる状況ではなかったので、単純に家政を見る執事ではなく、新たな呼称を必要としていました。先任の斯波義将の父高経も執事の呼称が家人の職であることを嫌っておりました。そこで新たに作られたのが『管領』という職務であり、事実上の将軍代行職です。そして、細川頼之が管領に就任したその直後に足利義詮は亡くなります。
 1367年(貞治六年)という年は、足利基氏、足利尾張守高経、足利義詮という重要人物三名が相次いで亡くなった年です。彼らがその寿命を延ばしていたなら再び天下大乱となっていた可能性は高かったと思われますが、相次いで亡くなったのは、神仏の采配か、何者かの暗躍か、推し量ることは難しいです。

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2014年4月 8日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑲第二次観応の擾乱

 前稿において、足利尾張守高経の失脚劇は観応の擾乱そのままの展開だったと述べました。足利直義の場合は出家して政務は退いても在京でありました。監視下にあったかもしれませんが、ここ一番で逃亡が可能な程度は自由が認められておりました。
 高経は越前国に逼塞しただけではすみませんでした。幕府は討手を差し向けたのです。佐々木導誉の息子の高秀、赤松則祐の甥の光範、山名時氏の子の氏冬、土岐頼康、畠山義深ら土岐氏を除けば後々三管四職を占める重臣衆がこぞって北陸に集結しました。足利直義の側近であった畠山直宗や上杉重能が殺害されたのも越前国でしたが、高経は長い戦いの中に越前国に地盤を築いており、幕府軍を撃退するに至ります。

 ここに至って足利尾張守高経が取りえる選択肢は一気に増えました。今は幕府に帰順している旧直義党の勢力に呼びかけてこれを糾合すれば、再び日本国を二分する戦乱の巷に陥りかねないからです。その懸念が残る地は存在しておりました。鎌倉公方足利基氏が治める関八州です。

 観応の擾乱の過程で、それまで関東を治めていた足利義詮(千寿王)は京に呼ばれて、代わって京都で育てられていた弟の基氏(光王)が鎌倉府の主人として派遣されます。この時基氏はわずか十歳の童子に過ぎませんでした。この時実質的に関東の政務を見ていたのは高師冬と上杉憲顕でした。高師冬は高師直の従兄弟にあたり、師直とは猶子の関係にありました。一方の上杉憲顕は足利直義の側近である上杉重能の従兄弟であり、息子の能憲を重能の養子にしてもらっている関係にありました。観応の擾乱で高氏と上杉氏は全面対決し、上杉憲顕は高師冬を駆逐して鎌倉府を直義党の拠点にしてしまったのです。畿内での戦いに敗れた直義はその鎌倉に逃げ込んだものの、尊氏の追撃を受けて死を賜ることになって、上杉憲顕は出家の上信濃に追放となりました。
 足利尊氏は直義党を撃破したものの、鎌倉府に向かって南朝方の新田義興軍が迫っていたので、体制の立て直しは急務でした。上杉憲顕が勤めていた上野、越後守護は宇都宮氏綱に与えられ、関東執事には畠山国清を起用します。南朝が京の北朝の皇族を根こそぎ拉致する事件が起こったため尊氏は帰京せざるを得ず、後事は畠山国清に託されました。畠山国清は鎌倉府の機能を武蔵国入間川御所に移して新田義興ら南朝勢力と対峙することになります。

 足利尊氏の死の半年後、畠山国清は新田義興を武蔵国矢口の渡しで謀殺に成功し、基氏は晴れて鎌倉に凱旋します。そして国清は畿内の南朝勢力討伐の為に京に呼ばれます。その留守中に足利基氏は義堂周信ら夢窓派の禅僧を関東に呼び寄せたりしておりました。この頃夢窓派は根拠地の天龍寺が大火にあって、雲居庵一坊を残してすべて灰燼に帰した後でした。再建途上で行き場に困っていた状況ですが、それを基氏は奇貨として拾ったわけですね。京に呼ばれた国清は細川清氏と組んで仁木義長の失脚をさせるのですが、細川清氏が将軍足利義詮と対立すると、率いてきた兵と一緒に勝手に関東に引き揚げてしまいます。清氏は執事の地位を失うと報復の為に南朝に降って京を攻め落とすに至ります。国清の兵が京に残っていれば防げた事態だったため、国清への信頼は失墜するに至ります。京においても旧直義派の足利尾張守高経が実権を握るに至り、畠山国清は失脚。基氏はかつて自らの政治を補佐していた上杉憲顕を後任に据えたのです。これには宇都宮氏綱も抵抗しましたが成功せず、上杉憲顕は実権を握るに至ります。暦応の際には、足利直義、夢想疎石、上杉重能のトライアングルと似たものが、足利基氏、義堂周信、上杉憲顕で出来上がっていたわけです。
 足利尾張守高経もまた、旧直義派の重鎮であり、これが関東と連携を取るようになれば戦火が大きく燃え広がりかねなかったのです。更に言えば、鎌倉には反幕府の最強硬派の桃井直常までがかくまわれていたりもします。

 そのようなきな臭い政治動向の中で、動乱の予兆となるような出来事が起きます。先に夢窓派の一大拠点である天龍寺が足利尊氏の晩年に焼けた話をしておりますが、足利尾張守高経が実権を握るまでには再建を果たして直義を大倉大明神として天龍寺に祀ったりしておりました。しかし、1367年(貞治六年)三月二十九日にまたしても、天龍寺は火災にあってしまうのですね。
 天龍寺の火災が政治の動きと関連するという証拠はないのですが、この後二回、天龍寺は火災にあいます。それぞれが、佐々木導誉の死亡の年と、細川頼之の失脚の翌年です。この時代政変が多いことは確かでであり、天龍寺の焼亡と重ね合わせることは必ずしも妥当ではないかもしれませんが、足利尾張守義将執事就任の年に足利直義の正二位追贈と神号授与があり、天龍寺に直義廟が勧請されたことを考えると、その義将失脚、高経が越前で逼塞したタイミングで天龍寺が焼けたことは偶然以外の何かが起こった可能性は否定できないと思います。

 月をまたいで、四月二日、今度は鎌倉府の足利基氏が鎌倉左京進、安東九郎ら家臣二十二名を殿中で誅殺するという挙にでます。この前月、足利基氏は当時鎌倉ではやっていた疫病にかかっており、病床下での粛清命令であったと言われております。
 難太平記19巻目において、今川貞世(了俊)が書き残している内容の大意によると、そもそも鎌倉府というのは義詮が多少間違えようとも、関八州の大名たちが一丸となって日本国の守護たるべしとの考えから尊氏・直義兄弟が合意の上で基氏に代々将軍家の守りとして鎌倉を与えたのが発祥だった。しかし、その後将軍家に恨みを持つ者から直義の真意とは鎌倉は幕府から独立して行くべしということにあったと言いふらすのを聞いて、基氏は「こんなことでは鎌倉府は天下の災厄のもととなってしまう」と懊悩したとあります。
 その結果基氏は義詮に先だって死んだ、と難太平記は続くのですが、その通り、四月二十六日に基氏は亡くなります。享年二十八。流行病であったはしかで命を落としたというのが公式発表です。難太平記には噂として懊悩の末に自殺したのかもしれないという話もあるが、真相は推し量りがたいと結んでおります。
 そういう経緯を絡めて考えると粛清にあったのは越前の高経に呼応して反幕府の旗を揚げるべしと扇動する不満分子だったようにも思われます。あるいは、鎌倉府が高経に呼応するのに反対する旧尊氏系の家臣達であったという解釈も可能でしょう。
 いずれにせよ、結果として基氏の死によって高経への呼応どころではなくなりました。直後に観応の擾乱発生から一貫して反幕府の態度を貫き、鎌倉にかくまわれていた桃井直常は頭を丸めて京に向かって帰参を願い出ます。幕府はこれを許して弟の直信を越中守護に封じて尾張守高経に挑ませました。入れ替わりに幕府は佐々木導誉を鎌倉に派遣して、基氏の遺児氏満に鎌倉公方を相続させることと、上杉憲顕ら鎌倉府の家臣団が幕府に従うことの確認を行っております。

 佐々木導誉は近江守護として、そしてキングメーカーとして幕閣で隠然とした勢力を保っておりました。短期間とはいえ京を離れていたわけですが、その間隙をついて抑えられていた勢力が蠢動を始めたのです。

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2014年4月 5日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑱既得権益が出来上がるまで

 本稿では、足利尾張守高経失脚後の仏教界の動向を追ってゆく予定ですが、少し切り口を変えて現代政治についての意見も加味しようかと思います。  三権分立は現代民主主義国家の根幹をなすものであります。そして、国会、内閣、裁判所の三権は互いにチェック・アンド・バランスの役割を果たすように憲法上の規定として盛り込まれています。国家予算の策定は国会での承認が必要ということになり、毎年内閣が苦労して予算を作成して議会をせめぎ合っております。  しかし、明治憲法下においてはそうなっていなかったのですね。当初、行政は立法に超越して、内閣が議会を無視して政治を運営してゆく超然内閣なんてあり方も、許されておりました。  しかし、明治憲法下においても時代が下るにつれて立法が行政に拮抗するようになりました。その手段として取られたのが、予算の策定権です。予算の執行には議会の承認が必要だったのですが、行政が出してきた予算を議会が否決することによって、予算の執行を不可能にしたのでした。これには行政側も超然なんて言っていられなくなって議会対策を真面目にするようになります。これが明治憲法下におけるチェック・アンド・バランスのはじまりでした。  こういうのは憲法の起草者が想定していた事態ではないのですが、立法が行政に拮抗することによって、藩閥政治から、政党政治へと移行していったわけです。これは民主主義としての正しい発達の仕方の例でありますが、時々それが間違った事実認識を間違った形で承認してゆくことによって、民主主義の成長を阻害するケースもあります。それは例えば、昭和の議会で問題になった軍部の統制権のあり方です。確かに明治憲法下において、陸海軍は天皇が統制すると書かれているのですが、時の政府がとった軍縮方針において、野党側が天皇の統制権を盾にとって内閣の出した軍縮予算案を天皇の統制権を干犯するものであると批判しました。軍部といえども国家の歳入である税金で運用されている以上、議会の承認する予算の元に運営されているはずなのですが、予算の中に天皇の持つ統制権に守られた聖域が出来てしまったのです。しかもこの問題に対する聖断が仰がれた形跡はありません。明治憲法下においては、統制権は帝国元帥である天皇陛下に存するはずなのに極めて奇妙な現象でした。その結果政府は軍部を抑えられなくなり、戦時下で自らの自由を自ら縛ってゆく形に追い込まれてゆくことになったのです。  それに近いノリのことが近年、民主党政権下の政府と議会において起こっております。赤字国債の処理について。本来、予算の承認については、衆議院が参議院に優越するはずです。本予算を組むにあたって参議院が否決しても、衆議院で三分の二の賛成で再可決すれば本予算は通るのですが、近年の予算の歳入には赤字国債が含まれています。予算の執行のためには赤字国債の発行について、議会の承認が必要なので、政府は予算関連法案というものを提出してその年に赤字国債を出すことについて議会に承認を得るのです。しかし、この予算関連法案に関しては衆議院の優越というものはありません。衆議院が可決しても、参議院が否決すれば、予算は承認されないことになります。  もう一つは参議院における問責決議です。衆院の参院に対する優越は、予算決議だけではなく、内閣不信任案という切り札を持っていることにありますが、衆議院が与党優位で、かつ参議院が野党優位の場合、しばしば問責決議が発せられ、参議院においてはその可決が審議拒否の根拠となっております。参議院には内閣や閣僚を罷免させる権限は無いはずなのですが、審議拒否が閣僚や内閣の交替の例になっているケースがここ最近の自民党政権や民主党政権において続いております。内閣はこれに対抗しようにも、解散権はありません。併せて、参議院は三年ごとの半数入れ替えですから、議院の意思を変えようと思っても、最長六年かかることになります。これは事実上対抗手段が無いことに等しい。すなわち、衆議院の参議院に対する優位を示す予算の承認も、内閣不信任もそれと似た権能を既に参議院が具備しているにもかかわらず、内閣には参議院に対する解散権は無いのです。これでは、衆議院の参議院に対する優越など無いどころか、逆に参議院の方が優位な状況となっていますし、正しいチェック・アンド・バランス機能は働いていないと言っていいでしょう。  本稿では、だから憲法を改正して一院制にするか、内閣に参議院に対する解散権を与えるか、予算関連法案や問責決議に衆院の優越を認め、審議拒否を出来なくするかのどれかをとるべきだ、などというつもりはありません。ここで着目しているのは、統制権干犯にせよ、問責決議にせよ国家の制度を設定した者、憲法の起草者達が想定していないことでした。そういう根拠の無いものであっても、それが正しいと認められ、前例となってしまうとなかなかそれを覆すことは難しい。こうして出来上がるものを称して『既得権益』と言います。そして、ひとたび既得権益が出来上がってしまうと、その非合理性が顧みられることはほとんど無いのです。  さて、足利尾張守高経が幕府の実権を握ったのは1362年(貞治元年)七月で、春日大社の神木が京に動座したのが1364年(貞治三年)の十一月。高経が失脚して神木が春日大社に帰座したのが1366年(貞治五年)の八月ということでした。この時の神木は足利尾張守高経の宿所に放置されたとのことです。実際、一年九ヶ月の間神木は在京のまま高経は粛々と政務を見ていたわけです。その間も興福寺荘園から半済はとりたてておりました。  結局足利尾張守高経は佐々木導誉のクーデターによって失脚し、興福寺荘園から半済はとりたてもなくなりましたが、興福寺はこれを佐々木導誉の功績とは認めませんでした。春日大社の神木の神威であると喧伝したのです。  もし、佐々木導誉のクーデターがそれより遅れたとしても、神木はそのまま足利尾張守高経の屋敷前におかれたはずでしょうし、それ以前に高経が老衰で死んだとしても、神威が寿命を縮めたと主張するに相違ありません。にもかかわらす、それに対する否定は幕府の誰からも行われませんでした。興福寺が神威の証明に成功したことは他の旧仏教系の諸寺院も同調して同じことを仕掛けてくることが予想されました。そのターゲットとなったのが、春屋妙葩の率いる臨済宗集団だったのです。

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2014年4月 1日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑰貞治の政変と天龍寺

 本稿では貞治の政変について描写するわけですが、その前に興福寺について触れた同じ流れで、夢想疎石入寂後の天龍寺についても触れておきます。これも貞治の政変そのものに関わるというよりも、その後の政情に関連する文脈での記述です。
 夢想疎石の入寂後、本稿の時間軸である1362年(貞治元年)までに天龍寺は一度火災にあっております。足利尊氏が死んだ年である1358年(延文三年)に、雲居庵をのぞく全ての建物が焼失したそうです。天龍寺の建造物といっても現在の嵐山渡月橋の片隅にある曹源池近辺の坊だけではなく、寺地はもっと広大でした。嵐電でいうなら、嵐山駅から帷子ノ辻駅にいたる規模なのです。(嵐山――嵐電嵯峨――車折神社――有栖川――帷子ノ辻)その復興に五年はかかったといわれておりますので、大きなダメージであったことは確かです。
 火事の原因はわかりませんが、この火事の翌月に足利尊氏は朝廷に願い出て弟の故足利直義に対して従二位の追贈をしております。直義は天龍寺の命名者でもありますし、何やら事情があるのかもしれませんが、それは憶測の域を出ません。
 この焼けた天龍寺の復興を担当したのが夢想疎石の甥である春屋妙葩でした。彼はこの時、等持寺の住持を務めており、同じ敷地内にある幕閣の中にいました。とはいえ、尊氏が死ぬ前後における政情不安の中での再興だったので、困難を極めたと思われます。その翌年、仁木頼章が亡くなって、その弟の義長が没落すると、春屋妙葩は義堂周信ら夢窓派の僧侶を関東に送り出しております。観応の擾乱の折にも古先印元や大同妙喆らが関東に下向していますから、それと同じととらえることもできるかもしれませんが、いかがでしょうか。
 その翌年、復興途上の1361年(康安元年)には天龍寺と同じ寺域にある臨川寺が焼けた為にここの住持になって復興につとめました。その政情の混乱が一応おさまったのが、1362年(貞治元年)です。この年、足利尾張守家の義将が執事となって、その父高経がその後見をする体制ができました。その翌年、山名や大内ら南朝方についていた旧直義派が幕府に帰参し南朝の衰亡は決定的となったわけです。同じ年に春屋妙葩は復興なった天龍寺の住持職に就くことができました。これらが示すことは、足利尾張守高経が目指したのは直義の治世に戻すことにあったといえるでしょう。その傍証として、義将が執事に任命される前日の1362年(貞治元年)七月二十二日に故足利直義に正二位追贈されます。さらに大倉大明神の神号が送られ、天龍寺に祀られたのですね。これを担当したのは住持の春屋妙葩でした。高経の政治に直義の影響があったことはこの一事をもってしても、明白といえるのではないでしょうか。
 高経の治世において、高経が導誉たちに求め続けたのは法の順守でした。従わない場合はいかなる理由があっても罰を与えることを行ったのです。
 そんな体制を作り上げたのは佐々木導誉でした。佐々木導誉は細川清氏の反乱に懲りて二度と同じ轍を踏まない決意をしたものと思われます。その為に、自らの信条、守るべき範囲を抑えてでも政敵に妥協し、自分にはできないことを高経が実行することを期待したのではないか。そんな風に思います。

 そんな導誉の思惑は高経も理解していたでしょうが、彼の器量においては自分が進めたもの以外の政策方針をとる余地も、それを緩める余地もなかったのですね。そもそも、鎌倉時代を通して、足利一門は野党中の野党であり続けました。源氏将軍時代においても、頼朝流とは一線を画し、北条家全盛時代については、賜諱や婚姻政策で同調をせまられつつも、足利党は一貫して野党でした。
 南北朝の風雲に乗じて足利宗家は政権主流に入り込みましたが、足利尾張守家(斯波家)は足利政権下にあっても、宗家への対抗意識から野党であり続けたのでした。足利直義が政権中枢にあったころですら、一門衆として在京して宗家の補佐をしていたわけではなく、地方派遣軍の将として北陸平定に尽力していたのです。高師直と足利直義の二択では、彼にとっては直義以外の選択肢はなかったでしょうから。それが結果として、南朝方につくことにつながったわけですが、宗家のライバルとしてずっと政権の外にあったことは間違いがありません。
 足利尾張守高経の政策にはそんな野党臭さがふんぷんとしておりました。佐々木導誉は我慢できるところは我慢し、五年間、この政権をもたせたのです。しかし、高経が自らの政治をすればするほど、佐々木導誉の居場所がなくなってゆくわけです。高経は今やっている政治のやり方以外の方法を明らかに知りませんでした。その大本は直義がやった政策のコピーです。それは足利幕府が武家政権として自立する為に必要なことではありましたが、その過程で妥協が重ねられてきたことを忘れては、政権基盤そのものが揺らいでしまいます。

 そして、1366年(貞治五年)、佐々木導誉はクーデターを起こします。佐々木宗家の六角氏頼の館に兵八百が集められて、洛内は騒然とします。その対応の為に幕府に出府した足利尾張守高経に対して、足利義詮は任国越前国での逼塞を命じるのです。これに対して高経は抗議するも、義詮は自分にも止められないことと泣き落としにかかって、やむなく高経はその命に従います。このあたりの展開は1349年(貞和五年)に高師直の京での挙兵に驚いた足利直義が兄直義の館に逃げ込んで、結局政務を退いて出家を余儀なくされた展開そのままです。そして、この後どんどんと観応の擾乱の様相を深めてゆくことになります。

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