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2014年4月26日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅲ③続正法論事件

 定山祖禅は園城寺との抗争当時の五山筆頭南禅寺の住持でした。南禅寺楼門建設の為の関所そのものは幕府の許可を得て行っているもので、園城寺の小僧がトラブルに巻き込まれて死んだこと自体には双方に責はあるかも知れませんが、それ以降の園城寺の、そしてその尻馬に乗った延暦寺の振る舞いは彼にとっては理不尽そのものでありました。
 定山祖禅のような禅僧からみるに、天台宗は仏教と言っても色々なものが混ざり合っていたりしております。延暦寺には数々の坊社があるのですが、法華経もあれば阿弥陀信仰もあり、密教や修験道も入っております。土地神である山王権現とその使いである猿神をも祀っていたりしています。日蓮が比叡山を濁れる山と呼んだのはそんな意味あいからだったのですが、蘭渓道隆以降の禅宗にしても物の見方は同じでした。
 暦応以降、足利兄弟や足利尾張守高経らがパトロンになって夢窓疎石一門は大いに栄えます。しかし、足利尾張守高経の失脚直後に夢窓派の本拠である天龍寺が焼かれてしまって先行きに不安が出てきました。園城寺との抗争はそのすぐ後にあり、先行きの不安は延暦寺の跳梁を許す幕府への不満に転じて鬱積して言ったということもあったものと思われます。
 定山祖禅の著作『続正法論』は、臨済宗の正当性を今述べた気分を含めて書かれたものです。故に、筆が滑って延暦寺や園城寺に対して容赦のない誹謗をしてしまっておりました。すなわち、延暦寺は猿とか、園城寺は蛙といった、獣に例えて罵倒しているわけですね。その含意について考察しますと、延暦寺の猿は寺地の土地神に日吉山王権現という神号を奉じて祀っていたのですが、その神の使いが猿とされております。猿まで祀る延暦寺は仏教に値しないという所でしょうか。
 園城寺の蛙というのは、園城寺は別名三井寺と言います。古代の天皇の産湯を提供した故事によるものなのですが、それにちなんでの蛙呼ばわりです。すなわち、井の中の蛙大海を知らず。中国での最新の仏教研究に基づく禅宗こそ仏陀の正法を継ぐものであり、そこには猿を祀るべき故事はどこにもなく、禅を知らない園城寺は井の中の蛙同然であるということが言いたかったのでしょう。
 この書物が何の目的で、誰に読ませることを目的にしたのか、ネットで調べても見つからないので想像する他はないのですが、少なくとも延暦寺や園城寺に見せて挑発することが目的ではなかったでしょう。園城寺が延暦寺の支援を受け、興福寺経由で南禅寺楼門建設についての上奏文をあげましたが、それの対抗文書としても罵倒に品格がなさすぎです。さらにはすでに幕府や朝廷は禅宗側の肩を持っているので、ことさらにこのタイミングで禅の正当性をアピールする必要もないでしょう。とするならば、鬱屈憤懣を晴らす為の内部文書と見なした方がよさそうです。

 ところが、これがどういう経緯か延暦寺の目にとまったのでした。確かに内容延暦寺がぶち切れてもよいようなものでありましたが、それにしても狙いすましたようなタイミングです。園城寺の僧達が南禅寺の関所を襲い、最勝講で興福寺が延暦寺に喧嘩を吹っ掛けた時点では、足利幕府も朝廷も禅宗の味方をしており、将軍義詮も健在でした。しかし、義詮はその直後に病を得て年も越せずに死亡し、十一歳の幼君とついこの間まで最前線で戦争をしていた前線指揮官が、海千山千の古狸達が二派に分かれて足の引っ張り合いをする中で政治を執らなければならない状況でした。延暦寺にとっては美味しすぎるシチュエーションです。
 実際問題、続正法論の内容に延暦寺が怒ったというよりは、反撃の機会をじっとうかがっていた延暦寺が機が熟したと見てとるや、ストックしておいたネタを片手に逆襲に打って出たということでしょう。
 続正法論は延暦寺を猿と罵りましたが、その延暦寺はその誹りに対して、猿を使者に用いる日吉山王大権現の神輿を担いで、強訴する挙に出ました。神輿の効能は興福寺の春日神木に匹敵します。朝廷は死ぬ、と言うか機能停止してしまいます。延暦寺の要求は三つ。一つは続正法論の著者である定山祖禅の配流。二つ目はそもそもの諍いの原因となった建築途上の南禅寺楼門の破却。三つ目は定山祖禅の背後にいる夢想疎石派の中心人物春屋妙葩の配流でした。

 今回は延暦寺は最強硬の挙に出ております。その背景にあるのは同年1368年(応安元年)六月に発布された応安令でした。これは観応の擾乱の過程で足利尊氏が一時的、地方限定的に始めた半済令を全国一律・恒久的に適用することを定めたものです。とはいっても、先に失脚した足利尾張守高経の轍を踏まないように、皇族、摂関家、寺社の本所には適用しない旨も謳われております。守護の財源を恒久化した上に朝廷・寺社には半済撤廃による連携強化を策した素晴らしい法令のはずだったのですが、それは寺社達にとって幕府組み易しと感じさせるきっかけとなってしまったのです。

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