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2014年4月10日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑳顕密仏教の逆襲と都合の良い三つの死

 佐々木導誉が故足利基氏の弔問かつ視察に鎌倉に赴いている最中に、畿内の旧仏教寺院の蠢動が始まります。それは、佐々木導誉が守護する近江国大津にある園城寺がきっかけになりました。天龍寺と同宗派である南禅寺において、楼門を新築するプロジェクトが進んでおりました。その資金調達の為に関所が設けられていたのですが、その関所で園城寺の童子がトラブルを起こして殺害されるという事件が起きたのです。足利幕府は普段から禅宗や日蓮宗など新興の宗派は保護するのに、延暦寺に後醍醐天皇がかくまわれた時にはこれを包囲攻撃し、佐々木導誉なども妙法院を焼き討ちするといった感じで古くからある顕密仏教はあまり顧みられることはありませんでした。本来であれば、南禅寺が設けた関所の不祥事を幕府に告発すべきところですが、相手はその幕府が保護している南禅寺の関所でした。公平な採決は望めないと考えたようです。そこで園城寺は宗徒を集めて南禅寺が設けた関所を攻撃し、破却しました。その際に南禅寺側の僧侶が殺害されるなど、単なる刑事事件ではなく暴力団抗争のような血で血を洗う展開になったため、幕府が介入することになりました。
 幕府は引付衆頭人今川貞世を召して、園城寺関所を三ヶ所、破壊させました。それだけではなく、園城寺と聖護院、実相院、円満院ら天台宗寺門派(要するに園城寺派)諸寺院の所領の一部を没収するに至りました。

 この一件においては南禅寺のみならず、幕府も当事者となってしまった為に、身動きがとれなくなってしまったので、朝廷が調停に動きました。
 朝廷は近々延暦寺、興福寺、園城寺、東大寺の四大寺院の高僧を招いて行う年中行事である最勝講というイベントを控えていたので、この抗争が長引くことを良しとしませんでした。そこで、足利尾張守高経の件で要求が通って気をよくしている興福寺に働きかけて、園城寺の言い分を聴取させました。そこに普段は犬猿の仲である延暦寺も今回に限っては園城寺と結託して南禅寺を非難しました。興福寺はこれを朝廷に伝え、朝廷の方はうまくとりなせたつもりだったのですが、園城寺はこれに不満を唱え、その抗議の意味をこめてその年の最勝講に僧侶は派遣しないことになります。
 その結果、最勝講は延暦寺、興福寺、東大寺の三寺合同で行われたわけですが、この儀式の最中に延暦寺宗徒と興福寺宗徒の間で乱闘事件が起こります。宗徒とはいえ、ともに太刀で武装しており八名の死者がでたとのことです。

 この前月に足利尾張守高経が越前国杣山城で病没しています。鎌倉公方足利基氏といい、このあたり、都合の良いタイミングで都合良く人が死ぬのですが、真相は藪の中です。足利尾張守高経・義将親子が失脚後、後任の執事は置かれずに足利義詮が親政を行ったそうではありますが、失脚の憂き目にあった高経の強談判に泣き落としをするしかなかった義詮にその器量があったとは考えにくい。
 高経の死というタイミングで、好機を得た義将は降伏して上洛。赦免されます。義将はそれより足利の名乗りをやめて先祖の領地をとって斯波と名乗るようになりました。高経の気位の高さを考えるなら、赦免時に払われるべき相応のペナルティと言えるかもしれません。
 同時に中国四国方面軍の細川頼之が呼び戻されます。彼は四国で細川清氏を討ち、大内・山名帰順後にまだ反幕府の態度を取り続ける中国地方の足利直冬の討伐をしておりましたが、直冬は1366年(貞治五年)以降、その活動を止めて行方不明になりました。一応の目的は完遂したことになり、凱旋と言っていいでしょう。
 細川頼之の上洛から間もなく、足利義詮は体調を崩し、病床に伏します。当然のこと、政務が滞るわけですが、ここで佐々木導誉と赤松則祐は細川頼之を執事に推挙します。そして、導誉はこれは先に亡くなった鎌倉公方足利基氏の遺言でもあることを明らかにするわけです。既に死亡している基氏の意はともかくとして、佐々木・赤松が細川頼之を推挙するのは明らかに足利尾張守改め斯波義将に対する牽制にありました。帰順間もない斯波義将にはこれに対する否応はなく、細川頼之はこれを受けます。

 足利義詮はこの時病床にあって、政務が執れる状況ではなかったので、単純に家政を見る執事ではなく、新たな呼称を必要としていました。先任の斯波義将の父高経も執事の呼称が家人の職であることを嫌っておりました。そこで新たに作られたのが『管領』という職務であり、事実上の将軍代行職です。そして、細川頼之が管領に就任したその直後に足利義詮は亡くなります。
 1367年(貞治六年)という年は、足利基氏、足利尾張守高経、足利義詮という重要人物三名が相次いで亡くなった年です。彼らがその寿命を延ばしていたなら再び天下大乱となっていた可能性は高かったと思われますが、相次いで亡くなったのは、神仏の采配か、何者かの暗躍か、推し量ることは難しいです。

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