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2014年4月 1日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑰貞治の政変と天龍寺

 本稿では貞治の政変について描写するわけですが、その前に興福寺について触れた同じ流れで、夢想疎石入寂後の天龍寺についても触れておきます。これも貞治の政変そのものに関わるというよりも、その後の政情に関連する文脈での記述です。
 夢想疎石の入寂後、本稿の時間軸である1362年(貞治元年)までに天龍寺は一度火災にあっております。足利尊氏が死んだ年である1358年(延文三年)に、雲居庵をのぞく全ての建物が焼失したそうです。天龍寺の建造物といっても現在の嵐山渡月橋の片隅にある曹源池近辺の坊だけではなく、寺地はもっと広大でした。嵐電でいうなら、嵐山駅から帷子ノ辻駅にいたる規模なのです。(嵐山――嵐電嵯峨――車折神社――有栖川――帷子ノ辻)その復興に五年はかかったといわれておりますので、大きなダメージであったことは確かです。
 火事の原因はわかりませんが、この火事の翌月に足利尊氏は朝廷に願い出て弟の故足利直義に対して従二位の追贈をしております。直義は天龍寺の命名者でもありますし、何やら事情があるのかもしれませんが、それは憶測の域を出ません。
 この焼けた天龍寺の復興を担当したのが夢想疎石の甥である春屋妙葩でした。彼はこの時、等持寺の住持を務めており、同じ敷地内にある幕閣の中にいました。とはいえ、尊氏が死ぬ前後における政情不安の中での再興だったので、困難を極めたと思われます。その翌年、仁木頼章が亡くなって、その弟の義長が没落すると、春屋妙葩は義堂周信ら夢窓派の僧侶を関東に送り出しております。観応の擾乱の折にも古先印元や大同妙喆らが関東に下向していますから、それと同じととらえることもできるかもしれませんが、いかがでしょうか。
 その翌年、復興途上の1361年(康安元年)には天龍寺と同じ寺域にある臨川寺が焼けた為にここの住持になって復興につとめました。その政情の混乱が一応おさまったのが、1362年(貞治元年)です。この年、足利尾張守家の義将が執事となって、その父高経がその後見をする体制ができました。その翌年、山名や大内ら南朝方についていた旧直義派が幕府に帰参し南朝の衰亡は決定的となったわけです。同じ年に春屋妙葩は復興なった天龍寺の住持職に就くことができました。これらが示すことは、足利尾張守高経が目指したのは直義の治世に戻すことにあったといえるでしょう。その傍証として、義将が執事に任命される前日の1362年(貞治元年)七月二十二日に故足利直義に正二位追贈されます。さらに大倉大明神の神号が送られ、天龍寺に祀られたのですね。これを担当したのは住持の春屋妙葩でした。高経の政治に直義の影響があったことはこの一事をもってしても、明白といえるのではないでしょうか。
 高経の治世において、高経が導誉たちに求め続けたのは法の順守でした。従わない場合はいかなる理由があっても罰を与えることを行ったのです。
 そんな体制を作り上げたのは佐々木導誉でした。佐々木導誉は細川清氏の反乱に懲りて二度と同じ轍を踏まない決意をしたものと思われます。その為に、自らの信条、守るべき範囲を抑えてでも政敵に妥協し、自分にはできないことを高経が実行することを期待したのではないか。そんな風に思います。

 そんな導誉の思惑は高経も理解していたでしょうが、彼の器量においては自分が進めたもの以外の政策方針をとる余地も、それを緩める余地もなかったのですね。そもそも、鎌倉時代を通して、足利一門は野党中の野党であり続けました。源氏将軍時代においても、頼朝流とは一線を画し、北条家全盛時代については、賜諱や婚姻政策で同調をせまられつつも、足利党は一貫して野党でした。
 南北朝の風雲に乗じて足利宗家は政権主流に入り込みましたが、足利尾張守家(斯波家)は足利政権下にあっても、宗家への対抗意識から野党であり続けたのでした。足利直義が政権中枢にあったころですら、一門衆として在京して宗家の補佐をしていたわけではなく、地方派遣軍の将として北陸平定に尽力していたのです。高師直と足利直義の二択では、彼にとっては直義以外の選択肢はなかったでしょうから。それが結果として、南朝方につくことにつながったわけですが、宗家のライバルとしてずっと政権の外にあったことは間違いがありません。
 足利尾張守高経の政策にはそんな野党臭さがふんぷんとしておりました。佐々木導誉は我慢できるところは我慢し、五年間、この政権をもたせたのです。しかし、高経が自らの政治をすればするほど、佐々木導誉の居場所がなくなってゆくわけです。高経は今やっている政治のやり方以外の方法を明らかに知りませんでした。その大本は直義がやった政策のコピーです。それは足利幕府が武家政権として自立する為に必要なことではありましたが、その過程で妥協が重ねられてきたことを忘れては、政権基盤そのものが揺らいでしまいます。

 そして、1366年(貞治五年)、佐々木導誉はクーデターを起こします。佐々木宗家の六角氏頼の館に兵八百が集められて、洛内は騒然とします。その対応の為に幕府に出府した足利尾張守高経に対して、足利義詮は任国越前国での逼塞を命じるのです。これに対して高経は抗議するも、義詮は自分にも止められないことと泣き落としにかかって、やむなく高経はその命に従います。このあたりの展開は1349年(貞和五年)に高師直の京での挙兵に驚いた足利直義が兄直義の館に逃げ込んで、結局政務を退いて出家を余儀なくされた展開そのままです。そして、この後どんどんと観応の擾乱の様相を深めてゆくことになります。

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