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2014年4月29日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅲ④喧嘩のやり方(京風味)

 ここで細川頼之の生い立ちを簡単に振り返ります。彼は1329年(元徳元年)、鎌倉時代末期に三河国額田郡細川で生まれました。細川家は足利一門衆でしたが、頼之は宗家ではありません。父頼春の代において分家をして宗家を支える役目を負っておりました。その宗家細川家は足利尊氏が天下を取った後は中国地方の制圧を命じられます。その命により、宗家の細川和氏、清氏親子は四国の主要部分を征服することに成功します。
 足利尊氏とその執事仁木頼章が相次いで亡くなると、次代の将軍足利義詮の執事として細川宗家の清氏が就くことになりました。しかし、この清氏が佐々木導誉と対立して失脚。その腹いせに南朝に降って一時的に京都を占領するという事態を引き起こしてしまいました。しかし、この軍事行動は補給が続かず清氏は阿波国に逃げ帰ります。足利義詮は清氏討伐を細川頼之に命じました。この命を奉じて頼之は細川清氏を討ち取ります。そして四国・中国を討ち平らげた武功をもって、京に凱旋すると従兄弟の清氏を失脚に追いやった佐々木導誉に管領になるようにと勧められ、就任に至った人物です。

 すなわち、彼は三河の御家人、それも分家の出であり、その生涯の大半を最前線の戦場で過ごしてきた経歴の持ち主です。それがいきなり幕府のナンバー2に祭り上げられたわけですから、彼には幕政を見る為の準備らしい準備はほとんどできていなかったと見て良いでしょう。導誉の無茶振りと言っていいかと思います。彼は先に足利義詮の執事だった見内の清氏を自ら討ち取っております。管領としての政治運営に失敗した折には彼自身にも同じ運命が降りかかることを覚悟せねばならなかったでしょう。細川頼之には失敗は許されないというプレッシャーも抱えることになります。

 頼之なりに構想はあったと思われます。細川頼之はつい最近まで中国地方の最前線で南朝方と戦っていた指揮官をやっておりました。折しも、南朝の後村上天皇が崩御しております。前線司令官的な発想としては機を逃さず、南朝を追い詰める方向に思考が向いておりました。幸いなことに、足利基氏と足利尾張守高経が相次いで亡くなることで足利一門内部の対立は収まってきております。主人の義満が幼君であることを逆用して南朝に対して攻勢に出ることを宣言し、その旗印の下で利害の異なる味方を大同団結させれば成果は出るはずでした。彼は手始めに南朝方の有力武将の楠木正儀を投降させ、細川頼之に匹敵する軍才の持ち主である今川了俊を九州に派遣することで南朝を追い詰めてゆこうと策を練っている最中でした。

そのようなことでしたので、細川頼之は畿内の寺社同士で繰り広げられた抗争の行方を軽く見すぎておりました。それでも管領という重責に応える為に良き執政であろうとし、客観的な事実認定に基づく裁定を下そうとしました。結果から見ればそれが事態をさらに悪化させたわけですが。
 管領細川頼之は定山祖禅のみを遠江国へ流罪に処しました。定山祖禅は延暦寺と園城寺を誹謗した事実については、書物に残っておりますので覆しようがありません。しかし、その本が書かれた動機が南禅寺楼門建築の為の関所をめぐるトラブルにあったとしても、定山祖禅が山門・寺門を誹謗したことと、南禅寺が楼門を建築することとは別個のことです。いわんや春屋妙葩まで流罪にする道理がありません。彼を流罪にすれば現在工事中の天龍寺の再建が滞ってしまいます。延暦寺としてはそれが狙いなのでしょうが、それが露骨に見え透いているだけに、そんな安い挑発に乗るわけにはいきません。落としどころとしては妥当な線であるはずでした。

 ところが、定山祖禅に流罪が言い渡されても、延暦寺は攻勢を緩めませんでした。強訴というものは平安時代から行われている寺社の要求行動ではあるのですが、歴史に基づく手順と言うものがあり、交渉はそれなりの時間をかけて行われるものでした。先に足利尾張守高経に対抗して、興福寺は春日神木を洛中に動座しましたが、神木は高経が失脚するまでの数年間にわたって放置されたままでした。すなわち、寺社にとって強訴とは粘り強くかつ、勝利を得るまで続けるゲームなのでした。故に、細川頼之が早期に提示した裁定は裁定として受け入れられず、前提と見なされてさらに強硬な要求に転化していったのでした。
 その一方で、細川頼之を管領の座に据えた佐々木導誉は隠居の準備を始め、出雲守護を三男の佐々木高秀に譲っております。管領にと推したものの、細川頼之は寺社相手の戦争の仕方をあまりにも知りませんでした。呆れ果てて早々に手じまいを始めたようにも見えます。
 実はこの時、佐々木導誉は佐々木一門の宗家である六角氏に追い込みをかけている所でした。1365年(貞治四年)に六角氏頼の嫡子、義信が齢十七で亡くなり、他に後継者がいない状況になっておりました。導誉はそこに孫(高秀の子)を氏頼の猶子にとねじ込んでいた所でした。このまま氏頼が死ねば、次代の近江守護は京極佐々木氏の手に帰します。導誉は事情が許せば延暦寺と喧嘩をすることは屁でもありませんが、彼が狙っている守護職のある近江国は領内に延暦寺・園城寺を抱えておりました。六角家を手に入れる前に細川頼之が山門・寺門を敵に回して大立ち回りされると、立場上頼之に加勢せねばならなくなりますし、そうすると六角氏頼が山門・寺門と手を結んで、反京極を訴える可能性もありました。佐々木導誉としてはできればこの争いに関わりたくなかったでしょう。導誉の隠居(と言っても京極家惣領を返上するわけではありません)はその意志を管領に伝える手段としてつかわれたのではないかと、私は考えます。

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