« 中漠:洛中幕府編Ⅱ⑰貞治の政変と天龍寺 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅱ⑲第二次観応の擾乱 »

2014年4月 5日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑱既得権益が出来上がるまで

 本稿では、足利尾張守高経失脚後の仏教界の動向を追ってゆく予定ですが、少し切り口を変えて現代政治についての意見も加味しようかと思います。  三権分立は現代民主主義国家の根幹をなすものであります。そして、国会、内閣、裁判所の三権は互いにチェック・アンド・バランスの役割を果たすように憲法上の規定として盛り込まれています。国家予算の策定は国会での承認が必要ということになり、毎年内閣が苦労して予算を作成して議会をせめぎ合っております。  しかし、明治憲法下においてはそうなっていなかったのですね。当初、行政は立法に超越して、内閣が議会を無視して政治を運営してゆく超然内閣なんてあり方も、許されておりました。  しかし、明治憲法下においても時代が下るにつれて立法が行政に拮抗するようになりました。その手段として取られたのが、予算の策定権です。予算の執行には議会の承認が必要だったのですが、行政が出してきた予算を議会が否決することによって、予算の執行を不可能にしたのでした。これには行政側も超然なんて言っていられなくなって議会対策を真面目にするようになります。これが明治憲法下におけるチェック・アンド・バランスのはじまりでした。  こういうのは憲法の起草者が想定していた事態ではないのですが、立法が行政に拮抗することによって、藩閥政治から、政党政治へと移行していったわけです。これは民主主義としての正しい発達の仕方の例でありますが、時々それが間違った事実認識を間違った形で承認してゆくことによって、民主主義の成長を阻害するケースもあります。それは例えば、昭和の議会で問題になった軍部の統制権のあり方です。確かに明治憲法下において、陸海軍は天皇が統制すると書かれているのですが、時の政府がとった軍縮方針において、野党側が天皇の統制権を盾にとって内閣の出した軍縮予算案を天皇の統制権を干犯するものであると批判しました。軍部といえども国家の歳入である税金で運用されている以上、議会の承認する予算の元に運営されているはずなのですが、予算の中に天皇の持つ統制権に守られた聖域が出来てしまったのです。しかもこの問題に対する聖断が仰がれた形跡はありません。明治憲法下においては、統制権は帝国元帥である天皇陛下に存するはずなのに極めて奇妙な現象でした。その結果政府は軍部を抑えられなくなり、戦時下で自らの自由を自ら縛ってゆく形に追い込まれてゆくことになったのです。  それに近いノリのことが近年、民主党政権下の政府と議会において起こっております。赤字国債の処理について。本来、予算の承認については、衆議院が参議院に優越するはずです。本予算を組むにあたって参議院が否決しても、衆議院で三分の二の賛成で再可決すれば本予算は通るのですが、近年の予算の歳入には赤字国債が含まれています。予算の執行のためには赤字国債の発行について、議会の承認が必要なので、政府は予算関連法案というものを提出してその年に赤字国債を出すことについて議会に承認を得るのです。しかし、この予算関連法案に関しては衆議院の優越というものはありません。衆議院が可決しても、参議院が否決すれば、予算は承認されないことになります。  もう一つは参議院における問責決議です。衆院の参院に対する優越は、予算決議だけではなく、内閣不信任案という切り札を持っていることにありますが、衆議院が与党優位で、かつ参議院が野党優位の場合、しばしば問責決議が発せられ、参議院においてはその可決が審議拒否の根拠となっております。参議院には内閣や閣僚を罷免させる権限は無いはずなのですが、審議拒否が閣僚や内閣の交替の例になっているケースがここ最近の自民党政権や民主党政権において続いております。内閣はこれに対抗しようにも、解散権はありません。併せて、参議院は三年ごとの半数入れ替えですから、議院の意思を変えようと思っても、最長六年かかることになります。これは事実上対抗手段が無いことに等しい。すなわち、衆議院の参議院に対する優位を示す予算の承認も、内閣不信任もそれと似た権能を既に参議院が具備しているにもかかわらず、内閣には参議院に対する解散権は無いのです。これでは、衆議院の参議院に対する優越など無いどころか、逆に参議院の方が優位な状況となっていますし、正しいチェック・アンド・バランス機能は働いていないと言っていいでしょう。  本稿では、だから憲法を改正して一院制にするか、内閣に参議院に対する解散権を与えるか、予算関連法案や問責決議に衆院の優越を認め、審議拒否を出来なくするかのどれかをとるべきだ、などというつもりはありません。ここで着目しているのは、統制権干犯にせよ、問責決議にせよ国家の制度を設定した者、憲法の起草者達が想定していないことでした。そういう根拠の無いものであっても、それが正しいと認められ、前例となってしまうとなかなかそれを覆すことは難しい。こうして出来上がるものを称して『既得権益』と言います。そして、ひとたび既得権益が出来上がってしまうと、その非合理性が顧みられることはほとんど無いのです。  さて、足利尾張守高経が幕府の実権を握ったのは1362年(貞治元年)七月で、春日大社の神木が京に動座したのが1364年(貞治三年)の十一月。高経が失脚して神木が春日大社に帰座したのが1366年(貞治五年)の八月ということでした。この時の神木は足利尾張守高経の宿所に放置されたとのことです。実際、一年九ヶ月の間神木は在京のまま高経は粛々と政務を見ていたわけです。その間も興福寺荘園から半済はとりたてておりました。  結局足利尾張守高経は佐々木導誉のクーデターによって失脚し、興福寺荘園から半済はとりたてもなくなりましたが、興福寺はこれを佐々木導誉の功績とは認めませんでした。春日大社の神木の神威であると喧伝したのです。  もし、佐々木導誉のクーデターがそれより遅れたとしても、神木はそのまま足利尾張守高経の屋敷前におかれたはずでしょうし、それ以前に高経が老衰で死んだとしても、神威が寿命を縮めたと主張するに相違ありません。にもかかわらす、それに対する否定は幕府の誰からも行われませんでした。興福寺が神威の証明に成功したことは他の旧仏教系の諸寺院も同調して同じことを仕掛けてくることが予想されました。そのターゲットとなったのが、春屋妙葩の率いる臨済宗集団だったのです。

|

« 中漠:洛中幕府編Ⅱ⑰貞治の政変と天龍寺 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅱ⑲第二次観応の擾乱 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/59383977

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:洛中幕府編Ⅱ⑱既得権益が出来上がるまで:

« 中漠:洛中幕府編Ⅱ⑰貞治の政変と天龍寺 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅱ⑲第二次観応の擾乱 »