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2014年4月24日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅲ②宗門圧迫と幼君体制

 足利幕府は禅宗を保護し、全国一寺一塔運動を起こして寺院を建てまくりました。これは単に禅宗・臨済宗の教えを全国に広めようという動機だけではなく、寄進という形で寺院周辺の荘園の支配をさせてその収入を幕府財政に充てようという発想からのものです。曹洞宗を含め、禅寺の住持は輪番制で、師が弟子を一定期間複数の寺に派遣して、時期が来れば順番に交替させていたのです。その師の頂点に五山があるというわけで、足利直義や足利尾張守高経はこれらと密接にかかわりあってきたわけです。

故に、既に寺社が充満している畿内に禅寺を建てるということは、旧来の顕密仏教の利権を冒すものでもあったわけです。
 しかし、だからと言って顕密仏教が一枚岩だったわけではありません。良く知られている通り、天台宗と真言宗はそもそもその教祖である最澄と空海らにしてから大喧嘩をしておりますし、天台宗内部においても平安期に天台宗は延暦寺と園城寺の二派に分かれてしょっちゅう衝突しておりました。
 前稿描いた最勝講で諍いを起こした延暦寺と興福寺にしても、仕掛けたのは興福寺の方でした。すなわち、興福寺は予め武装していたのです。延暦寺側は最初はそれに追い立てられて、一旦は追い詰められたりしております。
足利尾張守高経が失脚した直後、幕府は興福寺の言い分をのんで、越前の領地を安堵しました。それを受けて春日神木を還御させたということがありました。実際は幕閣同士の争いに乗じたクーデターであったわけですが、興福寺に分け前を与えることによって、そのカモフラージュとしたわけですね。それに最勝講での諍いも絡んでいたのではないでしょうか。南禅寺問題に介入してくる延暦寺をけん制するよう幕府から頼まれたとすれば、腑に落ちるところもあるのですね。というのは、この騒擾で八名の死者が出たのですが、儀式そのものは恙なく執り行われたからです。

 禁中は穢れを徹底的に嫌います。最勝講は清涼殿で行われる儀式ですが、騒擾は南庭から紫宸殿にかけて発生しました。天下泰平・国家安穏を祈る場で戦闘が行われて、なおかつ死者の血で穢されたわけですから、死人が出た段階で儀式を行う意味は無くなっているわけです。にもかかわらず儀式の続行を命じたのは儀式の主催者である後光厳天皇本人でした。この事件が起きた1367年(貞治六年)時点で広義門院(西園寺寧子)も光厳院も亡くなっておりますので、崇光上皇は存命ではあるものの、事実上の朝廷トップです。
 皇位についても、正平一統で光明、光厳、崇光三帝を初めとする皇族達が悉く南朝に拉致をされた中、佐々木導誉が勧修寺経顕と諮って残された皇族であった弥仁親王を建てたのでした。弥仁親王が拉致を免れたのは、出家が予定されていたために他ならず、ギリギリのタイミングで皇位継承が可能になったわけでした。もし、佐々木導誉達が諮らなければ、弥仁親王は妙法院門跡となる筈でした。そこは、尊氏開幕からまもなく、佐々木導誉が焼き討ちをした寺院でもあります。後光厳天皇が在位できているのは佐々木導誉に負うところが大きいので、故に幕府と延暦寺が対立した折には幕府につくのは当然だったと言えましょう。朝廷も幕府側について、比叡山の横やりを許さない意志を示したのではないかと思います。もちろん、天皇は直接政治的行動をとることはできませんが、自らの管轄である禁中の儀式が血で穢されても続行させたということ自体が、朝廷が幕府支持であることを延暦寺に宣言したのと同然であったのでした。その姿勢に延暦寺もわずかな期間ではありますがおさまりました。

 ところが、その直後に今度は足利義詮が病床に伏し、年が明ける前に亡くなってしまいました。足利義詮は朝廷と幕府の一致結束の中心人物です。佐々木導誉が権勢をふるっていられるのも、足利将軍との個人的な関係によるところが大きいのですが、導誉はそれを喪い、政界再編の調整モードに入ってしまったのでした。幕府はすったもんだの末に、足利義詮の十一歳の息子、春王が元服し義満と名乗り、将軍位につきました。
 幕府の脇を支える管領のが導誉が推薦した細川頼之なのですが、これに対抗して前将軍夫人である渋川幸子が斯波義将、山名時氏と誼を通じて派閥を形成したのでした。掲げる神輿が幼君であっても宰相に強靱な権力基盤があるならば、意志は貫徹できますが、幕府自体が二派閥に割れている状況においては強権的な行動は対立者に付け入る隙をみせることになります。
 鎌倉で大きな権力を握っている独立組織である関東公方の足利基氏も亡くなっていて、後を継いだのは九歳の足利氏満です。政界の実力者がこの期間に相次いで亡くなって、観応の擾乱の二の舞は避けられたのですが、武士達が争いを避けているこの時期は非武士階層の権益を増やすチャンスでもありました。平和の維持にはそれら非武士階層の支援は不可欠であるが故に。この好機を延暦寺は見逃しませんでした。

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