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2014年4月12日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅱ㉑桃井直常の義

 前稿で、貞治の変は観応の擾乱のような大争乱になりかねない様相を呈していたのに、都合のよい時期に当事者達が次々と死んでいったために、結果として最悪な事態が免れたということを書きました。本稿においては、余談としてその場所のかけ離れた一連の全ての死に近い場所にいた人物を紹介したいと思います。
 彼の名は桃井直常。一門衆で幕府草創期には越中守護を任じられておりました。直義党の幹部の中でも最右翼の武闘派であり、観応の擾乱において和議のチャンスは何度かあった時にその悉くを潰した人物でもありました。昔、NHKの大河ドラマ太平記の中で、鎌倉で捕虜になった直義を尊氏が自分に従うように命じますが、直義はそれを拒否します。尊氏がその理由をただすと、直義は桃井直常を見捨てられないからだと答え、最終的に尊氏が振る舞う毒茶をそれと知りつつ服するに至ります。ドラマはドラマでしかありませんが、この解釈に立つならば、桃井直常は直義に愛され、愛されていることを自覚しつつも節を曲げることのできない不器用な漢でありました。

 1355年(文和四年)に山名時氏が足利直冬を担いで上洛すると、それに呼応して入京します。この折には足利尾張守高経もおりました。この時の上洛軍には大きな弱点がありました。それは足利直冬の統率力の無さに起因するものなのですが、山名・尾州足利・桃井らの連係がうまく取れていなかったことです。足利尾張守高経は足利一門衆筆頭意識が抜け切れず、山名は大ばくち打ちです。桃井は直義ですらもてあました頑固者であり、それぞれがそれぞれ違った思惑で動いていたので、一つの敗戦を契機に連合軍は瓦解します。そして、高経はさっさと幕府に帰参してしまい、その高経が幕府の実権を取ったタイミングで山名もそれに従います。幕府は幕府でこの帰参組の所領を没収することはありませんでした。なので、桃井も節を曲げて頭を下げれば帰参して赦された可能性はありました。しかし、桃井はブライドが邪魔をしてそれができなかったようです。高経もたいがいプライドの高い人物ではありますが、桃井は別のベクトルでプライドの高さを保った人物であったと言えるかもしれません。そして、拠点である越中国で高経と対峙していたのですが、結局戦線を維持できずに鎌倉に亡命します。
 鎌倉には尊氏の息子の基氏がいたのですが、関東はこの頃から一個の独立国でした。そこには観応の擾乱のとばっちりを受けた旧直義派の禅僧達がおり、尊氏派で基氏執事の畠山国清は上方に呼ばれた折にミソをつけ、結局、失脚してしまいます。それを継いだのが、上杉憲顕でした。彼はバリバリの直義派です。直常は彼にわたりをつけて鎌倉府に潜伏していたのでした。基氏も尊氏の血のつながった子ではありましたが、直義の猶子でもありました。なのでどちらに与するというわけではなく、対立するに陣営のはざまに立って、懊悩を内にかかえこんでおりました。少なくとも今川了俊は難太平記においてそのように悩むことがあったのではないかという推測をさしはさんでおります。

 貞治の変で足利尾張守高経・義将親子が失脚すると、鎌倉を取り巻く状況は一気にきな臭くなります。追い詰められた高経は救援を旧直義派に求めたろうことは想像に難くありません。桃井直常はもともと越中国にいたのですが、先に幕府に帰参した高経・義将親子に圧迫されて、鎌倉に流れてきておりました。なので、直常には今さら高経に味方する義務も義理もありませんし、彼らの行いを身勝手なものとして切り捨てていたことでしょう。

 とはいえ、尾州足利家に遺恨を持たない旧直義派が大勢いた鎌倉府には動揺が走ります。そして、基氏は鎌倉左京進を初めとする家臣二十余名を誅殺せざるを得ないところに追い込まれてしまいました。
 鎌倉左京進の政治的立場は想像するしか無いのですが、彼らが足利尊氏・畠山国清シンパであったとすれば、鎌倉公方基氏は高経・義将親子の檄に乗って反幕府の行動を取ろうとしたことになります。でも、桃井直常の立場からすれば、都合の良すぎる言辞を弄する高経・義将親子の話に乗ることはありえないですし、その動きを何とか封じたいと思うことでしょう。
 逆に誅殺された鎌倉左京進達が親高経・義将派であったとすれば、桃井直常は足利基氏を強力に支持したでしょう。ただ、それは基氏の懊悩が自らの身に病を呼びこんだ最中のことでした。桃井直常はこの足利宗家の御曹司に一宿一飯の恩義は感じていたことでしょう。彼の望みを叶えてやりたいと考えたかもしれません。心が弱い点においては、直冬も同じですが、基氏には時間がありました。与えられた時間の中で、上杉憲顕のようなお尋ね者を鎌倉府の柱石に据え、義堂周信のような天龍寺の火災等で京にいられなくなった臨済宗の僧侶達を受け入れて、直義が理想としていた政治に則った街をこの鎌倉に創り出しておりました。基氏の望みがその鎌倉を守ることとであれば、桃井直常はそれに従うことに吝かではなかったでしょう。

 いずれにせよ、貞治六年四月二日に足利基氏は鎌倉左京進ら家臣を誅殺し、その月が明けぬうちに亡くなりました。結果的に鎌倉が足利尾張守高経になびくことは無かったのですが、主人無き鎌倉府は京から見れば不穏そのものであり、佐々木導誉が派遣されることになりました。単純な弔問ということではなかったようです。三条公忠の日記である『後愚昧記』の貞治六年五月二十八日条に佐々木導誉の関東下向の旨が記されているのですが、そこに「関東事為成敗云々」とあります。単なる弔問ではなく、軍動員を伴うものであり、関東でしばらく統治をすることを含んだものであると見てよいでしょう。史実においては鎌倉に下った導誉と鎌倉方と戦いは起こりませんでした。導誉は尊氏とは仲がよかったものの、関東にはほとんど地盤はありません。上杉憲顕が基氏の遺児氏満を担いで導誉に歯向かったなら導誉を撃退することは可能でしたが、憲顕は導誉を受け入れました。これは足利一門の再分裂を忌避したということでありましょう。導誉も氏満の関東公方相続を認め、基氏死後の鎌倉府体制の立て直しに尽力しました。

 もっとも、もしそこに桃井直常がいたことが発覚すれば、導誉はこれを捕らえて刑に処したことでしょう。導誉は観応の擾乱においては一貫して足利尊氏方であり、彼にとってみれば足利尾張守高経も桃井直常も直義方の残党です。貞治の変においては、政変の主導権を取って動いておりました。上杉は潰せないが桃井直常は敗残の末の食客にすぎませんから、これを捕まえて報復されてもおかしくはありません。
 この時、桃井直常は導誉と入れ違いに京に入りました。頭を丸めた上での帰参願です。義詮はこれを赦しました。実はこの時、義詮は越前に兵を差し向けていたのですが、足利尾張守高経・義将親子の抵抗は強く攻めあぐねていました。そこで桃井直常を彼の旧領地である越中に戻して高経・義将親子に対峙させようと画策したのです。実際問題、ここを統治していたのは尾州足利義将だったので、越中を支配したければ自ら越中を征服せよと言ったも同然なことでもありました。もっとも、敵地の守護に任じて征服戦を戦わせるのは、今川範国なども似たようなことをされてます。(今川家の場合は数代かけて遠江・駿河両国を征服しました)何より、前越中守護の尾州足利義将は幕府軍の攻勢にあって、越前国栗屋におりました。留守を狙うことは容易だったことでしょう。桃井直常は自身が越中守護にはならず、弟の直信にその役目を委ねます。
 尾州足利親子が越前に逼塞しており、越中は切り取り放題とはいえ、桃井氏はその尾州足利親子に越中国から放逐された身です。手早く失地回復をするためには、尾州足利親子の存在感が邪魔でした。鎌倉公方足利基氏の死が観応の擾乱の再現を恐れた末の懊悩が原因とする立場に立つならば、その懊悩の原因は足利尾張守高経にありました。そんな状況の中で桃井一族はその再興をかけて尾州足利と越中国で対峙していたわけです。

 足利尾張守高経が死んだのはそれから間もなくのことでした。足利基氏と同じく、その死の真相は不明です。息子の義将も降伏し、尾張足利の名を捨てて斯波と名乗ることと引き換えに赦しを得ます。斯波義将があっさり赦された理由はやはり憎まれていたのはあくまでも高経であって義将ではなかったことでありましょうが、この時点では分国越前国は畠山義深が預かり、越中国も桃井氏のものとなっており、義将の処遇は宙に浮いたままの状況でした。畠山義深も兄国清の失脚のあおりを受けて没落していたところを今回の戦いで名誉挽回した復帰組でした。
 政変後の政局は山名時氏と佐々木導誉の二人を軸にそれぞれが派閥を形成して対峙します。山名時氏は足利義詮夫人の渋川幸子と組み斯波義将を抱き込みます。渋川幸子の姉は足利直義に嫁いでおりましたから、斯波義将が赦されたのは旧直義派の人脈によるものだったと思われます。桃井直常も畠山義深もこれには多少は複雑な気持ちになったことではなかったかと思われます。
 この政変のもう一方の黒幕、佐々木導誉は鎌倉におりましたので、幕府の実権は山名・渋川連合の手に落ちたように見えたのですが、その直後に公方足利義詮は病で倒れます。
 その直前に中国地方を平定した細川頼之が上洛していました。佐々木導誉はそれを口実に、関東の支配は上杉憲顕にまかせて帰洛します。これ以降、渋川幸子派と佐々木導誉派の二派閥による勢力均衡の中で、幕政が取られてゆきます。渋川派が斯波義将を取り込んだ以上、そこに桃井の寄って立つ余地はありませんでした。渋川幸子は京に戻った導誉と妥協をはかります。そして、直接政務を見ることができなくなった足利義詮を補佐する管領として佐々木導誉が推す細川頼之を管領につける代償に、斯波義将の処遇を保証させることに成功するのです。
 こうしてみてゆくと、足利義詮も桃井直常も足利尾張守高経失脚後の政界再編の波に乗り切れずに弾き出されたと言ってよいかもしれません。そして、病の義詮はそのまま死に、桃井直常の弟、直信は越中守護を解任されます。その後釜に座ったのは斯波義将でした。

 桃井直常は南朝の姉小路家綱の支援を得て越前にて再び反斯波闘争を継続します。しかし、桃井直常が幕府からはじきだされたその年に、後村上天皇が崩御します。観応の擾乱の折には幕府内訌の間隙をついて、一時的ではありますが正平の一統をなしとげましたが、今回は付け入るすきも与えられないままの死でした。

 もちろん、桃井直常がこれらの死に直接の関与をしていたとは考えにくいのですが、桃井直常はこれら全ての死の間近にいた可能性があります。彼らがもし生き延びていたなら、最悪の想定として足利尾張守高経が南朝に投降し、関東公方の足利基氏を担いで足利義詮を打倒したやもしれません。そうなれば後村上天皇を奉じる南朝軍が京を占領して今度は北朝後続を悉く滅ぼすなどということも、想像できるでしょう。少なくとも、桃井直常はその流れが押し留められる過程の全てを目撃した筈です。仮にそこに桃井直常の意志があったとすれば、その意志に伴う行動とはどんなことがありえたでしょうか。

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