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2014年4月 8日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅱ⑲第二次観応の擾乱

 前稿において、足利尾張守高経の失脚劇は観応の擾乱そのままの展開だったと述べました。足利直義の場合は出家して政務は退いても在京でありました。監視下にあったかもしれませんが、ここ一番で逃亡が可能な程度は自由が認められておりました。
 高経は越前国に逼塞しただけではすみませんでした。幕府は討手を差し向けたのです。佐々木導誉の息子の高秀、赤松則祐の甥の光範、山名時氏の子の氏冬、土岐頼康、畠山義深ら土岐氏を除けば後々三管四職を占める重臣衆がこぞって北陸に集結しました。足利直義の側近であった畠山直宗や上杉重能が殺害されたのも越前国でしたが、高経は長い戦いの中に越前国に地盤を築いており、幕府軍を撃退するに至ります。

 ここに至って足利尾張守高経が取りえる選択肢は一気に増えました。今は幕府に帰順している旧直義党の勢力に呼びかけてこれを糾合すれば、再び日本国を二分する戦乱の巷に陥りかねないからです。その懸念が残る地は存在しておりました。鎌倉公方足利基氏が治める関八州です。

 観応の擾乱の過程で、それまで関東を治めていた足利義詮(千寿王)は京に呼ばれて、代わって京都で育てられていた弟の基氏(光王)が鎌倉府の主人として派遣されます。この時基氏はわずか十歳の童子に過ぎませんでした。この時実質的に関東の政務を見ていたのは高師冬と上杉憲顕でした。高師冬は高師直の従兄弟にあたり、師直とは猶子の関係にありました。一方の上杉憲顕は足利直義の側近である上杉重能の従兄弟であり、息子の能憲を重能の養子にしてもらっている関係にありました。観応の擾乱で高氏と上杉氏は全面対決し、上杉憲顕は高師冬を駆逐して鎌倉府を直義党の拠点にしてしまったのです。畿内での戦いに敗れた直義はその鎌倉に逃げ込んだものの、尊氏の追撃を受けて死を賜ることになって、上杉憲顕は出家の上信濃に追放となりました。
 足利尊氏は直義党を撃破したものの、鎌倉府に向かって南朝方の新田義興軍が迫っていたので、体制の立て直しは急務でした。上杉憲顕が勤めていた上野、越後守護は宇都宮氏綱に与えられ、関東執事には畠山国清を起用します。南朝が京の北朝の皇族を根こそぎ拉致する事件が起こったため尊氏は帰京せざるを得ず、後事は畠山国清に託されました。畠山国清は鎌倉府の機能を武蔵国入間川御所に移して新田義興ら南朝勢力と対峙することになります。

 足利尊氏の死の半年後、畠山国清は新田義興を武蔵国矢口の渡しで謀殺に成功し、基氏は晴れて鎌倉に凱旋します。そして国清は畿内の南朝勢力討伐の為に京に呼ばれます。その留守中に足利基氏は義堂周信ら夢窓派の禅僧を関東に呼び寄せたりしておりました。この頃夢窓派は根拠地の天龍寺が大火にあって、雲居庵一坊を残してすべて灰燼に帰した後でした。再建途上で行き場に困っていた状況ですが、それを基氏は奇貨として拾ったわけですね。京に呼ばれた国清は細川清氏と組んで仁木義長の失脚をさせるのですが、細川清氏が将軍足利義詮と対立すると、率いてきた兵と一緒に勝手に関東に引き揚げてしまいます。清氏は執事の地位を失うと報復の為に南朝に降って京を攻め落とすに至ります。国清の兵が京に残っていれば防げた事態だったため、国清への信頼は失墜するに至ります。京においても旧直義派の足利尾張守高経が実権を握るに至り、畠山国清は失脚。基氏はかつて自らの政治を補佐していた上杉憲顕を後任に据えたのです。これには宇都宮氏綱も抵抗しましたが成功せず、上杉憲顕は実権を握るに至ります。暦応の際には、足利直義、夢想疎石、上杉重能のトライアングルと似たものが、足利基氏、義堂周信、上杉憲顕で出来上がっていたわけです。
 足利尾張守高経もまた、旧直義派の重鎮であり、これが関東と連携を取るようになれば戦火が大きく燃え広がりかねなかったのです。更に言えば、鎌倉には反幕府の最強硬派の桃井直常までがかくまわれていたりもします。

 そのようなきな臭い政治動向の中で、動乱の予兆となるような出来事が起きます。先に夢窓派の一大拠点である天龍寺が足利尊氏の晩年に焼けた話をしておりますが、足利尾張守高経が実権を握るまでには再建を果たして直義を大倉大明神として天龍寺に祀ったりしておりました。しかし、1367年(貞治六年)三月二十九日にまたしても、天龍寺は火災にあってしまうのですね。
 天龍寺の火災が政治の動きと関連するという証拠はないのですが、この後二回、天龍寺は火災にあいます。それぞれが、佐々木導誉の死亡の年と、細川頼之の失脚の翌年です。この時代政変が多いことは確かでであり、天龍寺の焼亡と重ね合わせることは必ずしも妥当ではないかもしれませんが、足利尾張守義将執事就任の年に足利直義の正二位追贈と神号授与があり、天龍寺に直義廟が勧請されたことを考えると、その義将失脚、高経が越前で逼塞したタイミングで天龍寺が焼けたことは偶然以外の何かが起こった可能性は否定できないと思います。

 月をまたいで、四月二日、今度は鎌倉府の足利基氏が鎌倉左京進、安東九郎ら家臣二十二名を殿中で誅殺するという挙にでます。この前月、足利基氏は当時鎌倉ではやっていた疫病にかかっており、病床下での粛清命令であったと言われております。
 難太平記19巻目において、今川貞世(了俊)が書き残している内容の大意によると、そもそも鎌倉府というのは義詮が多少間違えようとも、関八州の大名たちが一丸となって日本国の守護たるべしとの考えから尊氏・直義兄弟が合意の上で基氏に代々将軍家の守りとして鎌倉を与えたのが発祥だった。しかし、その後将軍家に恨みを持つ者から直義の真意とは鎌倉は幕府から独立して行くべしということにあったと言いふらすのを聞いて、基氏は「こんなことでは鎌倉府は天下の災厄のもととなってしまう」と懊悩したとあります。
 その結果基氏は義詮に先だって死んだ、と難太平記は続くのですが、その通り、四月二十六日に基氏は亡くなります。享年二十八。流行病であったはしかで命を落としたというのが公式発表です。難太平記には噂として懊悩の末に自殺したのかもしれないという話もあるが、真相は推し量りがたいと結んでおります。
 そういう経緯を絡めて考えると粛清にあったのは越前の高経に呼応して反幕府の旗を揚げるべしと扇動する不満分子だったようにも思われます。あるいは、鎌倉府が高経に呼応するのに反対する旧尊氏系の家臣達であったという解釈も可能でしょう。
 いずれにせよ、結果として基氏の死によって高経への呼応どころではなくなりました。直後に観応の擾乱発生から一貫して反幕府の態度を貫き、鎌倉にかくまわれていた桃井直常は頭を丸めて京に向かって帰参を願い出ます。幕府はこれを許して弟の直信を越中守護に封じて尾張守高経に挑ませました。入れ替わりに幕府は佐々木導誉を鎌倉に派遣して、基氏の遺児氏満に鎌倉公方を相続させることと、上杉憲顕ら鎌倉府の家臣団が幕府に従うことの確認を行っております。

 佐々木導誉は近江守護として、そしてキングメーカーとして幕閣で隠然とした勢力を保っておりました。短期間とはいえ京を離れていたわけですが、その間隙をついて抑えられていた勢力が蠢動を始めたのです。

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