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2014年5月29日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑭考察

 以上で洛中幕府編は区切りとなります。洛中幕府編の始まりは、都市計画上の洛中の定義とその洛内に武家の政庁及び菩提寺を置いてしまったことから始めました。それらはいずれもそれ以前の京の歴史にはなかったもの、鎌倉の武家の慣習をそのまま京に持ち込んだものでした。
 理想家肌の足利直義は志半ばに倒れ、それ以後の執事・管領達も政情不安の中で次々と後退してゆきます。それをしり目に佐々木導誉がキング・メイカーの地位につきますが、その地位は導誉の個人的な能力に立脚する者であり、彼が寿命で亡くなると、その地位は相続されることはありませんでした。
 
 細川頼之は比較的有能な管領としてよく国を治めましたが、寺社との関係構築に失敗し、春屋妙葩には見放された上に、興福寺や延暦寺の攻勢になすすべもなく妥協を強いられておりました。その要求はエスカレートする一方でした。細川頼之が春屋妙葩と対立したことは、後代になって彼の後継者達が林下禅や本願寺教団を強力にバックアップすることにつながったのではないかと思っております。

 本稿の最終段階ですでに足利義満は室町第に移り、等持寺の代替施設である相国寺が室町第の隣に建設されております。室町第の位置については、歴代上皇が置いた院庁と同じく洛外に置かれたものとみる見方と北方に拡大された新平安京の大内裏の位置であるとする二通りの味方があるかと思いますが、いずれにせよ足利義満はそういうものを志向し後にそれを実現させております。
 その後南北朝は合一し、足利義満は有力守護大名を取り潰し、明国の冊封を受けた挙げ句に朝廷の祭祀権を奪い取って新たな王朝を生み出す一歩手前までに至る足利義満の独壇場の時代となるのですが、幕府も洛外に移っており、義満の活躍の場に春屋妙葩はすでにいないので、それらの活動は別稿に譲りたいと思います。

 ただ、康暦の政変によって観応の擾乱以後、関東に避難した禅僧達が京に戻りやすい環境が出来上がったのは事実でして、義堂周信はそれで京に戻って足利義満のブレーンになりました。その後、初期幕府が置かれていた三条坊門第は足利義満の死後に足利義持が再興しました。足利義持は朝廷が足利義満に死後追贈した『太上天皇』号を辞退し、明との付き合いも止めて義満の政治の悉くを否定しました。三条坊門第の復興もその一環だったと言えるでしょう。しかし、義持の死後に後継となった足利義教は逆に足利義満路線を志向して、再び室町殿に戻りました。以後、第十三代の足利義輝が二条御所に移るまで、幕府は室町第に置かれます。

 後醍醐天皇が吉野に逃れてから以来、南北朝が合一するまでの期間のことを我が国では吉野朝時代とか、南北朝時代と呼びならわしております。しかし、考えてみるに平安時代が終わって以後、時代区分の呼称のよりどころが皇統の所在地にあった時代は明治以後を除けば南北朝のみなのですね。鎌倉時代は確かに鎌倉幕府が朝廷にも大きな影響を及ぼしましたが、それでも朝廷と幕府は並立する権力でした。公家や自社が支配する国衙・荘園と武家の領地は併存し、グレイゾーンも大きかったわけです。にもかかわらず、建久から元弘までの期間を鎌倉時代と呼んでよいのならば、暦応から康暦年間までの間は洛中時代と呼んでも差し支えはないのではないでしょうか。

 何より画期的だったのは、それまで今上帝の為の都市であった平安京に武家の幕『府』が入ったことでありましょう。ここには、皇位を譲った上皇も院庁を洛外に建てておりました。鎌倉幕府も朝廷を監視する為の施設を六波羅という鴨川の東側に建てたのです。そもそも『府』というものは、出先機関を意味します。古代中国において、皇帝が封じた王が自らの拠点とした根拠地を王府と呼んだのがその始まりです。日本においても、国府、大宰府、任那日本府、鎮守府等は京の中に置かれることはありませんでした。しかし、征夷大将軍となった足利尊氏は幕『府』を洛内に置いたのです。これは間違いなく、歴史の画期と言えるのではないでしょうか。
 併せて洛中幕府の隣接地に菩提寺を建てました。これを呼び水に洛内に法華宗が入り、信徒が組織化されて町衆という階層が現れてくるわけです。

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2014年5月27日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑬最後の神木と祇園社の独立

 春屋妙葩が南禅寺の住持に復帰し、叢林の頂点として差配の腕を振るっている間、顕密勢にも動きがありました。1379年(康暦元年)八月十四日、興福寺が再び春日神木を奉じて上洛したのです。応安七年に内部対立の調停を幕府に求めるために神木を持ち出して以来のことです。この間、興福寺は大和の豪族十市遠康討伐を幕府に求めたのですが、康暦の政変のせいで一旦沙汰やみになっていたものです。これに対して幕府は六ヶ国守護に命じて討伐することを確約すると、興福寺は神木を引っ込めて大和に帰ってゆきました。
 それから伊勢外宮が遷宮が遅々として進まないことを不満として神宝を打ち捨てたり、延暦寺が神輿の造り替えを求めて神輿を打ち捨てたりしましたが、速攻で要求を呑むとそれぞれ宝物を持って帰りました。
 興福寺のケースにおいて、六ヶ国守護が十市遠康を討ち取ったということはなかったようで、十市遠康は1384年(至徳元年)には自らの菩提寺を建てていたりしています。奇妙なことに足利尾張守高経失脚の遠因にもなった春日神木入洛がこれ以降ぱたりと止んだのです。一見、幕府は顕密寺院に妥協しまくっているようにも見えます。それは細川頼之政権時には要求がエスカレートしていったのですが、今回は後に引きずらせずに済ませることができています。その理由は私には判じかねますが、これを境に幕府は寺社に対する優位を確保したように思われるのです。

 その一例として、幕府は康暦の政変が起こった五年後の1384年(永徳四年)に幕府が祇園社を延暦寺の傘下から独立させることに成功したことを挙げておきます。祇園社は大和時代、斉明朝の頃に創建された寺院で、牛頭天王を祀っておりました。本地垂迹説によると牛頭天王は素戔嗚尊の化身ということになっております。この祇園社はもともと興福寺の傘下にあったのですが、十世紀に入って延暦寺の支配下に収まりました。
 また、祇園社には犬神人という下級の神官がいました。彼らは六角棒を持つ武装集団でした。祇園社の犬神人は文字通り延暦寺の走狗となって洛中洛外の他宗派弾圧を直接執り行っておりました。鴨川を渡るとすぐに四条通という立地でしたので、寺社の密集する東山や洛中ににらみを利かせることができたのでした。
 それが延暦寺の配下を離れることになったわけです。延暦寺にとっては利のない話ではありましたが、それでも呑んだのは、幕府と寺社との間で力関係の変化があったためと見なさざるを得ないのです。祇園社は延暦寺に替わる後ろ盾を探さなければならなくなりましたが、それに応じたのが京の町衆たちでした。祇園社では毎年祇園御霊会という祭祀を行っておりました。そもそも祇園社は疫病などの厄払いを祈願するものでしたが、京の町衆が支援をすることになってから、この祭祀に一つの変化が生じます。 山や鉾と呼ばれる山車を引いて洛中に巡回するようになりました。そう、祇園御霊会は現在では祇園祭と呼ばれております。

 延暦寺は祇園社を失ったことになっておりますが、それで必ずしも他宗に対する圧力を弱めたわけではありませんでした。祇園社独立の三年後の1387年(嘉慶元年)、延暦寺は洛中四条櫛笥にあった法華宗妙顕寺を襲い、これを破却しております。これは、妙顕寺先代住持の大覚妙実が幕府と密接な関係を持っていたのが、彼の死後に関係が薄くなってしまったことと関係がないわけではなさそうです。しかし、この時点で法華宗はしっかり京の町衆の中に根を下ろしており、ほどなく復活することになります。

 ここで寺社を支える勢力として洛内の町衆という存在が現れました。彼らは洛内に住み、京における経済活動に従事する人々です。それまでは大教団が公家や武家をパトロンとして大寺院を支えてきたのですが、町衆がこのように活躍の場を得ることは洛内に幕府が入ってくるまでありえませんでした。康暦の政変の前に御所は洛内から室町殿に移り、将軍の持仏堂たる等持寺に代わるものとして相国寺が建立されております。幕府は洛外に出たと言えますが、実際問題、室町殿は平安京都市計画上の大内裏の北辺に位置しておりました。そこは一応洛外ですが、京の規模が広がったと見るならば、それは拡大された京市街の大内裏にあたる部分に建てられたと考えることもできます。足利義満は相国寺に七重大塔を建てて、禁裏をも睥睨したと言います。

 この強力な政権はそれから間もなく、南朝を併呑し、九州も配下に収め、日本国全土一統となった朝廷を圧迫しつつ明国との通商を開始するにいたります。足利尊氏・直義兄弟が始め、義満が完成させた京都の新秩序の完成形はここに成就したということができるでしょう。

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2014年5月17日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑫燃える天龍寺

 この政変劇の主役は言うまでもなく、細川頼之から管領の地位を奪い取った斯波義将です。とはいっても、彼一人の力ではクーデターの成立は期し難かったでしょう。彼は長い時間をかけて様々な人々を味方につけました。この政変劇においては、武力行使もしないで大和国に駐留し、最終局面では突然室町第を包囲するなど自らも駒として動いております。とするならば、駒を動かす黒幕に目を向けないわけにはいきません。  その人物は、すなわち春屋妙葩でした。  斯波義将がクーデターを起こすや、丹波国の雲門寺に籠もっていた春屋妙葩は上京し、天龍寺雲居庵に入りました。その時、京で臨済宗を統べていたのは龍湫周沢でした。彼は甲斐守護武田氏の血族で甲斐国出身の夢窓疎石の弟子でもありました。夢窓疎石が甲斐国に建てた恵林寺の住持もしていたことがあります。彼は仏画が得意で後世に不動明王の図画を残しております。不動明王は禅宗というよりは、真言宗等の密教系の寺院で崇められる神格であり、蘭渓道隆以後の純粋禅を求め続けた宗派の流れからは多少離れたところに龍湫周沢はおりました。おそらくはそういうところが春屋妙葩とそりが合わなかったところでしょう。南禅寺山門事件で細川頼之との関係が破たんした春屋妙葩が丹波国に引きこもった後、細川頼之は春屋妙葩の後継に龍湫周沢を選びました。細川頼之は臨済宗を篤く信仰しておりましたが、他宗派的なものに対して排他的な方向性を打ち出されるよりも、龍湫周沢の寛容さの方を好んだようです。それは興福寺や延暦寺に対する妥協的な態度にも表れておりました。そんな細川頼之が失脚したことは、龍湫周沢に自らの潮時を悟るに十分なことでした。彼は春寧院というところに隠棲することを選びます。  そして、それから間もなく、将軍足利義満は天竜寺雲居庵にいる春屋妙葩を訪ねます。この時点で春屋妙葩は天龍寺の住持でもなんでもないので、将軍が妙葩に用があれば御所に呼びつけてもよかったわけですが、斯波義将のアドバイスを入れて政策ブレーンとして迎えるために自ら出向いたということでありましょう。ここで今後の方針について話し合われたものと思われます。  真っ先に議題に上がったのは関東の不穏な情勢でしょう。それは斯波義将が火をつけたことではありますが、関東管領が自害したり、挙兵して西上の途についたものの引き返したりするなどとグダグダな状況となっておりました。政変が起こって振り上げた拳のおろしどころが見えなくなっていたのですね。解決の糸口となったのは、関東公方が送り込んだ謝罪使でした。名を古天周誓と言います。春屋妙葩と同じ夢窓派の僧で、鎌倉の瑞泉寺の住持をしておりました。鎌倉公方はすんなり許されます。その背景として春屋妙葩ら夢窓派のネットワークがあったことは言うまでもありません。これに感謝した鎌倉公方足利氏満は下総国葛飾郡馬橋にあった真言律宗の大日寺を萬満寺と号を改め、臨済宗寺院に宗旨替えさせるべく古天周誓に与えました。寺号は義満と氏満の「満」の字をもらったそのことです。  春屋妙葩も僧禄司という地位を得ることになりました。これは元々中国にあった官職で洪武帝が仏教寺院を統制させるために権限強化して設置したのを、日本でも導入したものです。それまでは禅宗・律宗の訴訟ごとには幕府は禅律方という役所で公家や武家に裁かせておりましたが、訴訟に加えて禅宗寺院の寺格決定や人事に至るまで禅宗のことは全て春屋妙葩に委ねられたということになります。僧禄に禅宗寺院を統括させるというアイデアは康暦の政変の前年に明国から帰国した同じ夢窓派の絶海中津あたりの入れ知恵かもしれません。彼自身、後に春屋妙葩の後任の僧禄となりました。  僧禄となった春屋妙葩は早速人事権を発動して、関東にいた義堂周信を京に呼び寄せます。彼は足利尊氏の死の直前に天龍寺が焼けて以後、関東に下って鎌倉公方足利基氏の元に寓居しておりました。春屋妙葩は権力掌握と同時にブレーンの充実が必要となり、明国帰りの絶海中津に関東にいた義堂周信に白羽の矢を立てたのでした。  春屋妙葩を中心とする夢窓派が大きく動いている最中、夢窓派の拠点である天龍寺がまたしても焼けてしまいました。この時の火災では公文書が悉く焼けたとのことです。真相は不明ですが、春屋妙葩の躍進に対する龍湫周沢派もしくは、他宗派の干渉によるものかもしれません。しかし、この時の夢窓主流派はこの事態をも活用するようになります。天龍寺の再建は以前と同様進められましたが、同時進行で室町殿の隣接地に新寺院を建立することとなったのでした。  この発想自体は三条坊門第に等持寺が建てられたものと同様ではありましたが、最大の違いはこの寺の開山が夢想疎石とされたことです。夢窓疎石自身は観応の擾乱の最中、1351年(観応二年)に亡くなっており、洛北寺院建立構想など夢想すらしていなかったはずです。本来は春屋妙葩が開山となるはずだったのですが、彼はこれを固辞した結果、彼の師である夢窓疎石を開山として自らは二代目住持となる形をとりました。禅宗寺院では実際に寺を開いた僧侶自らが開山を名乗ることを辞退して、師を開山として自らは二代目住持として入山することは珍しいことではないのですね。但し、既に鬼籍にいる夢想疎石を開山とする意味は、室町殿の膝下にもう一つの天龍寺を作ることでもありました。創建に十年を費やした巨大寺院となったのです。寺号は萬年山相国承天禅寺、通称相国寺と言います。相国は当時の足利義満の官職である左大臣の唐名であり、寺号の使用を後円融天皇に奏上して承認を得たことから、承天の号が加わりました。これをもって春屋妙葩は南禅寺山門事件の鬱憤を晴らしたと言えるでしょう。

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2014年5月15日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑪康暦の政変

 康暦元年閏四月十三日、クーデターが起こりました。足利義満の花の御所に斯波義将ら反細川頼之派の諸将が集まって管領細川頼之の罷免を要求したのです。花の御所を包囲した諸将の中には京極佐々木高秀の姿もありました。実は彼はこの前日に赦免してもらった足利義満と会見を行い、義満に改めて詫びを入れております。なので義満は怒り心頭に発しておりましたが、多勢に無勢どうにもなりません。
 細川頼之はその様子を見守っておりました。おそらくは洛内にある自らの館の中で。彼はこの展開を見通しておりましたし、これから自分がなすべきことも心得ておりました。政権基盤を確立するうえで、ずっと野党的立場にいた一門衆筆頭の斯波義将に踏み絵を踏ませて与党陣営に取り込むことは趣向として面白いことでしたが、義将がそれを拒否した以上、どちらかが身を引かねばならない局面でした。そして今回、斯波義将は土岐頼康を筆頭に佐々木高秀や鎌倉公方足利氏満、そして春屋妙葩らを仲間に引き入れて包囲戦を挑んできたのでした。抵抗は可能でしたが、観応の擾乱のような日本国を二つに割るような戦いは細川頼之にとってもこりごりなことでした。
 細川頼之は一族郎党を集めて根拠地である四国に引き揚げます。

 事態の後始末ですが、ここで登場するのが春屋妙葩でした。彼は細川頼之が失脚した五日後には天龍寺雲居庵におり、そこで足利義満と会見しております。そこで事後対策の打ち合わせを行ったようです。
 関東ではその前月に上杉憲春の兄弟の憲方が幕府討伐軍の将として起用され征西の旅にでましたが、伊豆国三島で兵を留め、そこでサボタージュを宣言しました。憲春が自害せざるを得なかったように、反幕挙兵は勝ち味の薄い話でした。焦った足利氏満は上杉憲方に関東管領を与えて自らの命に従うよう誘導しましたが、憲方はそのまま鎌倉に戻りました。四月の時点で政局は流動的でしたし、氏満の命令が実現可能かどうか見定めるためであり、万一義満が勝ち残った場合に生き残りを図るためでもありました。まもなく、細川頼之の失脚のニュースが流れます。
 鎌倉公方はこの政変の意味を理解していたようです。これは足利直義と高師直から始まる幕閣内の対立構図にあって、足利直義系の考えをくむ斯波義将が勝利したということを。上杉憲方の抵抗も反映したと思われますが、これをきっかけに幕府に詫びを入れて受け入れられました。

 斯波義将は細川頼之退任後の新体制の組閣を即座に始めました。その中で割をくったのが佐々木高秀です。彼は足利義満の室町第を斯波義将と土岐頼康らと一緒に包囲し、細川頼之の管領罷免に大いに寄与したのですが、まずいことにその前日に六角佐々木亀寿丸と近江で争った件について足利義満に詫びを入れ、許された直後でした。義満の意向に逆らうことは二度としないと誓ったその舌の根が乾かぬうちの反逆ですから、足利義満は佐々木高秀の領地を全部没収したのでした。但し、佐々木高秀と同様足利義満から追討命令をくらって許され、その後室町弟を囲んだ土岐頼康は政変後伊勢国守護を追贈されております。
 佐々木高秀は父親が斯波義将によほど恨まれていた(貞治の政変の立て役者が佐々木導誉です)のか、幕府に六角佐々木亀寿丸を擁護する強い動機があったためでありましょう。六角亀寿丸に足利義詮父親説がささやかれる所以でもあります。

 権力を握った斯波義将が最初に行ったのは細川頼之の追討です。細川頼之はこの展開を読んでいてすでに、領国の讃岐に引きこもり、四国全体を一門で防衛体制を作り上げました。それまでの細川氏の武威により、四国はほぼ細川一門の勢力圏にはいっておりました。これに対抗して、斯波義将は南朝方の武将である河野通堯を帰参させて伊予国守護に、細川家宗家の流れをくむ細川正氏を阿波国守護に任じて勢力を削ぎにかかりました。細川正氏は細川清氏の子であり、細川頼之は同族でありながら、自らの手で細川清氏を討ち取っております。いわば親の仇でありました。しかし、細川一門は頼之を中心に結束。細川正氏を懐柔し、河野通堯を伊予国周桑郡にて討ち取ってしまいました。細川軍の精強ぶりにさしもの斯波義将も二の足を踏むようになり、足利義満も頼之を討ち取ることには消極的だったこともあって、和睦の方向が模索されるようになりました。

 次稿ではこの一連の流れをプロデュースした春屋妙葩の視点でこの事件を追ってゆきます。

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2014年5月13日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑩四面楚歌

 1378年(永和四年)十一月、紀伊の豪族、橋本正督は南朝に与して挙兵し、和泉国守護の細川頼元の軍を打ち破ってしまいました。この時の細川家は西国最強の軍事力を有しておりましす。四国を平らげた後、中国探題となって足利直冬勢を叩きのめし、今川貞世の九州征服に道を拓いたのは細川頼之とその軍団に他なりません。もっとも、楠木正行の挙兵時には細川顕氏が天王寺・住吉浜の戦いで大敗北を蒙っております。
 もっとも細川軍が強いと言っても負ける時は負けるし、頼之の長い治世の間に油断も生じていたのでしょう。細川頼元は軍を退き、代打として山名義理・氏清兄弟が起用されます。彼らの父である時氏は細川顕氏とともに天王寺・住吉浜の戦いに参加して敗北しております。しかしながら、今回はさほどの苦もなく橋本正督の撃退に成功します。

 細川頼之の不敗伝説に終止符が打たれた瞬間でした。しかも、この時別の軍隊が大和国に駐屯していたのです。軍を率いる対象は斯波義将。彼にとってこの出陣は面白いものではありませんでした。此度の出兵は興福寺の依頼に基づくものだったからです。興福寺は大和国守護であり、その領地は地元豪族上がりの法相宗衆徒によって荘園経営がされておりました。十市遠康も大和国十市郡を治める衆徒でしたが、十市氏は南朝に与します。興福寺自体も北朝方の一条院門跡派と南朝方の大乗院門跡派に分かれてあい争っていたのです。細川頼之は春屋妙葩の面子を潰してさえも興福寺を立てたのは、大和国守護である興福寺を味方につけて大和路から吉野に入るルートを確保するという意味もあったのですね。その興福寺から吉野に向かう途上に十市遠康の領地がありました。そして、彼は南朝に味方して、興福寺領を次々に私領化しておりました。業を煮やした興福寺は幕府に討伐を依頼したのです。
 斯波義将にとって興福寺は愉快な存在ではありませんでした。何しろ、彼の父足利尾張守高経を春日神木の霊威をもって失脚させ死に至らしめたと吹聴していたのですから。事実は逆で高経は春日神木をガン無視しておりました。彼の失脚は神木の神威などではなく、佐々木導誉との政争に負けた結果にすぎなかったのです。興福寺は春日神木を京に置くとそのまま放置し、失脚するまでじっと待ち続けました。何年も月日がたち、高経が失脚すると意気揚々とそれまで放置していた神木を担いで大和国へ帰って行ったのです。政権が細川頼之に移って幕府は延暦寺と興福寺ら寺社の要求に屈するようになりました。その挙げ句の果てに、興福寺の要求による出兵です。先の執事(管領)としては、内心忸怩たるものであったことでしょう。幕府軍が大和の豪族を討伐するくらいのことは極めて簡単なことでしたが、それをしたところで興福寺の大和国における支配が強化されるだけで幕府にとっては何の益もないことのように義将には見えたのです。十市遠康の所領が吉野に向かうルート途上にあったとしても、そこに至る為には興福寺に便宜を図ってもらうよう頼まなければならないのです。それは今後も春日神木が京に上洛し続けることを意味しておりました。故に斯波義将率いる幕府軍は十市氏討伐を行うことなく、兵を大和国に留めました。

 そもそも何故こんな微妙な命令を下されることになったかと思えば、細川頼之が最初からこのような出兵を目論んでいたとは到底考えられません。成長し政治参画への意欲を示し始めた足利義満との妥協によるものであったと思われます。もし、斯波義将が義満の命令を全うして興福寺の要請による出兵を引き受け、十市遠康を討伐したなら、それは斯波義将が細川頼之の方針を支持することを意味します。断ったならば斯波義将とその背後にいる野党勢力を将軍の名をもって締め上げる材料に使えます。そのような判断から渋々将軍の指示に従ったということのようです。
 しかし、この妥協は細川頼之にとって最悪の形で跳ね返ってきました。斯波義将は大和まで進軍したところで兵を留め、十市討伐を行うことはなかったのです。斯波義将の傍には土岐頼康ら有力守護達が兵を伴ってつき従っておりました。足利直義が失脚した時と同じ、幕府に敵対する勢力が近国で大兵力をもってにらみ合いをする情勢ができあがっておりました。細川頼之はこの情勢において二つの手をうちます。一つは大和駐留軍の土岐頼康の討伐命令です。同時に土岐頼康と佐々木高秀の京屋敷を破却しました。直接斯波義将本人を命令違反者として敵対するのではなく、付属する武将を名指して罰することにより大和駐留軍の分断を策したのでした。そして、斯波義将には京への帰還命令を下したのです。

 土岐頼康は美濃に帰り、斯波義将は京に戻りましたが、不穏な状況は収まりません。
近江国では京極佐々木高秀が六角佐々木亀寿丸にたいして戦を仕掛けます。もともとは、養子に出していた佐々木高経(改名して高詮)が当主だったのですが幕府の意向で六角家から放逐されていたのです。政局の混乱に乗じて失地回復に乗り出したのでした。
 混乱は関東にも波及します。三月七日に関東管領の上杉憲春が鎌倉公方足利氏満に対して諌死をします。鎌倉幕府が反幕府の挙兵を計画していたようで、その計画阻止の為に命を主君にささげたのでした。
 この憲春は先代能憲の弟で、能憲には子がおらず、関東管領の座を憲春にゆずり、上杉家家督を別の弟の憲方に分割相続させてしまっていたのです。憲春は関東管領とはいっても、基盤となる所領は兄弟の方に与えられてしまって、その座は名目的なものとなっておりました。そんな折に京の政局不安に付け込んだ足利氏満は挙兵を目論んだわけです。
 客観的に見て暴挙であり、憲春は猛反対して押し留めようとしますが、彼にはそれを貫き通す力がなかったのでした。
 彼の死は幕府にも伝わり、鎌倉公方の謀反の計画もばれてしまいました。状況の収集をしないと混乱には拍車がかかる一方です。
 この間、細川頼之は辞意を表明し続け、そのたびに足利義満が慰留し続けておりました。細川頼之にはこの状況の落としどころが自らの下野しかないことを経験から知っておりました。足利直義からはじまって、仁木義長、細川清氏、尾州足利高経・義将親子といずれも同じようなパターンで失脚しております。
 足利義満はそれでもくいさがり、土岐頼康、佐々木高秀ら反乱勢力を許して取り込みを図ろうとしました。その主人の行動を脇で見て細川頼之は四面楚歌する情景を思い描かざるをえなかったのです。

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2014年5月10日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑨洛中幕府移転

 細川頼之の対南朝の政治構想は前代の足利尾張守高経のそれを引き継いで、真綿で締め上げるように南朝の勢力圏を削りながら、南朝の降伏を促すものでした。高経は九州攻めに失敗しますが、頼之は今川了俊の起用によって九州征服の目途をつけることに成功します。それにより、南朝の降伏後の扱いをどうするかという問題が現実味を帯びてきます。
 足利尾張守高経の政権構想は彼が足利直義を天龍寺に祀ったように、直義の方針を引き継いだものでした。彼の治世においても興福寺は神木を京に持ち込んだりして、旧仏教勢力は敵対しておりましたが、高経はこれを完全に無視しました。興福寺がその要求を遂げるのは高経の失脚後です。直義は鎮護国家の宗旨として禅宗を選んでおりましたし、延暦寺に対抗して法華宗を第二天台宗の位置づけで洛内に寺院を建てることをゆるしております。
 それに対して、細川頼之が旧仏教勢力に対して妥協的であったのは、いずれ南朝を京に迎えることを考えていたためではないかと思うのです。その時の政治体制はどうなるかと考えるならば、落としどころとしては皇統を大覚寺統と持明院統の双方から交替で出す文保の和談形式しかありえませんでした。正統を自認する南朝にとっては、これがプライドを維持できるギリギリの線です。それ以上の条件を突きつけるならば、南朝はこれを受け入れることはないでしょうし、結果としては南朝を滅ぼすことになるでしょう。
 それでも南朝は幕府をなかなか信用しませんでした。結果を見るにそれは全く正しい判断です。しかし、細川頼之としては、長い時間をかけて南朝の信頼を得る努力をすることを選びました。むろん、武力で九州を攻めながらです。反面、興福寺や延暦寺に対して強硬姿勢をとることは控えました。禅宗界では重鎮の春屋妙葩を手放して龍湫周沢を据えました。いわば、夢窓派を春屋派と龍湫派に分けたようなもので、その勢いは確実に削がれておりました。興福寺や延暦寺が引き起こす騒擾は平和のコストとして甘受し、一方で武力で兵糧断ちをしつつ、南朝の軟化を待ち続けていたのでした。細川頼之にとっては南朝という巨大な異物を呑みこむにあたって、旧仏教勢力の騒擾は小骨にすぎなかったのです。

 そんな最中の1378年(永和四年)三月、将軍足利義満は、洛北の地に将軍御所の建設を命じました。この土地はもともと室町季顕が所有していた花亭とよばれる邸宅で、これを先代将軍の足利義詮が買い上げて崇光上皇の御所にしました。崇光上皇は在位時において南朝に拉致されて皇位を失ったという経歴の持ち主です。帰京後の住居として花亭があてがわれ、それにちなんで花の御所と呼ばれておりました。彼は自身の第一皇子である伏見宮栄仁親王を後光厳天皇(崇光天皇の弟)の後継とすることを望んだのですが、細川頼之がこれを突っぱねて後光厳天皇の皇子である緒仁親王(即位して後円融天皇)が立太子されました。そんなこともあって、崇光上皇は花の御所を離れ、花の御所も1377年(永和三年)には火事で焼けてしまって廃墟となっておりました。花の御所の隣は菊亭と称される今出川公直の館でしたが、足利義満は花の御所の焼け跡に加えて菊亭の土地を取得して自らの新居とすることに決めたのです。

 足利義満は細川頼之の政治を見て育ちました。それが必ずしも肯定的なものにならなかったのは、彼の母親と一門衆筆頭の影響下にあった為と言えるかもしれません。彼の母親は渋川幸子といい、彼女の姉が足利直義の妻になります。一門衆筆頭とは斯波義将であり、彼の父も足利一門衆代表として観応の擾乱においては足利直義派についておりました。直義は理念先行型の政治家であり、理念遂行のための抵抗勢力は力づくでも押しつぶしてしまいがちでした。それが彼自身や彼の後継を任じる尾張守高経の失脚を招いたりするのですが、禅宗に帰依しこれを篤く保護する一方で、延暦寺の反発をなにするものぞと天龍寺を建てさせたりしております。
 渋川幸子や斯波義将にしてみれば、細川頼之のやり方は迂遠であり、その効果は疑問符がつくものでした。細川頼之は決して禅宗をないがしろにしていたわけではないのですが、春屋妙葩の信頼を決定的に失ってしまったことは大きかったと言わざるを得ません。

 義満は母や斯波義将から足利幕府がいかにあるべきかを聞き、細川頼之からは南北朝合一後の体制設計という政治課題があることを知りました。花の御所建造はその為の布石であったのです。
 花の御所は今出川室町にあり、これは平安京の都市区画としては洛外にあたる地にあります。足利尊氏が三条坊門高倉に幕府を開いたのは前代未聞の事でした。尊氏自身はその後洛中・洛外に自宅を転々としましたが、政務をとっていた直義はずっと三条坊門第で政務をとり続けておりました。二代将軍義詮は直義に替ってここに入り、政務をとりました。三条坊門第は幕府として機能し続けております。
 洛内は本来は帝のおわすところで、武家の政庁があってよい場所ではないのですが、そこは空気を読まない直義の真骨頂でもありました。幕府も三代続くと、それが何を意味しているのかは流石に理解します。足利義満の御所移転は洛中幕府という異常状況の解消をもたらすものと言えました。
 しかしながらこの北小路室町第の建造は、さらに大きな政治構想の一角でしかなく、京都の伝統という観点から見るならば、直義の洛中幕府構想よりもなお性質の悪いものでした。それはおいおい語ってゆきたいと思います。

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2014年5月 8日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑧細川政権

 佐々木導誉が亡くなった1373年(応安六年)、その同じ年に天龍寺は火災にあいます。有力者の死などで政局が動いた時に火災にあうのは、これで三度目になります。一度目は足利尊氏が死んだ1358年(延文三年)、二度目は足利義詮、足利尾張守高経、足利基氏が亡くなった1367年(貞治六年)です。二度あることは三度あると言うか、しかも四度目もあったりしますが、それは後の話。

 しかも、この時京にはまたしても興福寺の神木が京に動座されておりました。と言っても、興福寺の神木動座は導誉の死の二年前、1371年(応安四年)に始まって、帰座するのは導誉の死の翌年1374年(応安七年)になりますので、直接の関係は無さそうです。春日神木は足利尾張守高経・義将親子の時も無視されておりましたので、扱いとしてはその程度のものだったのかもしれません。
 この時の強訴内容というのは、興福寺内の一乗院門跡と大乗院門跡間でもめ事があって、両門跡を交替させよとの要求で、本来であれば内々で解決させるべきことでしたが、内輪もめに摂関家である九条家がからんでいた為に、強訴に及んだ次第です。三年放置された後で、延暦寺が日吉大社の神輿修繕の約束が果たされていないことを名目に再強訴されるに及んで、門跡交替と修繕費拠出がなされた解決されるわけですが、細川頼之には寺社勢力の取り押さえ方が理解されておらず、事態を悪化させるだけ悪化させて(それでも全体の影響から見れば微々たるものだったのでしょう。細川的には)その場しのぎの妥協を繰り返していたのです。

 その一方で、細川頼之が派遣した九州探題今川了俊はその期待に応えて、肥前国蜷打で、南朝方の菊池武朝、阿蘇惟武らを撃破し、着々と征服の実をあげておりました。それまで九州探題には尾州足利氏経(足利尾張守高経の息子)、渋川義行(足利義詮夫人渋川幸子の甥)と相次いで政界の大物が自分の身内を派遣しては、失敗を繰り返しておりましたが、ついに今川了俊がその悪循環を断ち切ったのでした。同じ足利一門衆ではありましたが、今川了俊の才能を見込んで九州探題に抜擢した細川頼之はその功のみでも、十二分に慧眼の持ち主とたたえられるべきです。

 要するに、細川頼之は政策執行の優先順位が明確で、よほどのことがなければその順序を変えることはない、極めて几帳面なキャラクターであったわけですね。彼は自らの役割を南朝の打倒に据えてその方針に基づいて最短距離の手を打ってきました。楠木正儀は南北朝の争いの趨勢は既に決まったことを悟り、幕府に降伏しました。細川頼之はそんな正儀を和泉・河内両国守護に補することによって、北朝の優勢は決して覆らないことを知らしめました。残存勢力の九州も今川了俊が順調に懐良親王を追い詰めております。時間が必要な戦略ですが、着々と手を進めておりました。仏教勢力とのいざこざも、斯波義将を中心とする反対勢力も幼君を掌中に収めている間は無視することが可能だったわけですね。

 結果として細川頼之の政権は1367年(貞治六年)から1379年(康暦元年)までの十二年に及びます。それ以前の幕政の中心人物たちと比べてみると次のようになります。

 足利直義:1336年(建武三年)~ 1349年(貞和五年)十三年
 仁木頼章:1351年(観応二年)~ 1359年(延文四年) 七年
 細川清氏:1359年(延文四年)~ 1360年(延文五年) 二年
 足利高経:1362年(康安二年)~ 1366年(貞治五年) 四年

 このようにしてみると、細川政権は足利直義が幕府の実権を握っていた期間に等しい時間を管領として幕政を差配しております。この長期政権をもたらした理由を考えるに、私は彼の果断さを挙げてみたいです。彼はお尋ね者となった宗家の当主を自らの手で討ち取っております。しかもその功をもって将軍家に優遇され、宗家の方は事実上没落します。
 その果断さは、それまで保護してきた禅宗の勢力に制約を加えるものも含まれておりました。頼之の価値観としては幕府は禅宗のみを保護するのでは無く、諸勢力のせめぎ合いの中でバランスを取ってゆくことを選んだのでしょう。故に丹波に引きこもった春屋妙葩に天龍寺に戻ることを懇願したりもしました。しかし、そのような頼之のあり方は春屋妙葩には受け入れがたいものでした、これが遺恨となって頼之は墓穴を掘るに至ります。

 このような思い違い、失脚の伏線となるような地雷を頼之はいくつも踏んでゆきました。その中でもひときわ大きかったのが、六角家のお家騒動です。1377年(永和三年)に六角家の当主佐々木高経は、先代六角氏頼の遺児、亀寿丸を担いだ先代の遺臣たちから反京極クーデターを受けたのでした。六角亀寿丸は氏頼の晩年の子と言われておりますが、一説に実は足利義詮の遺児、つまり現将軍義満の弟という説もあります。もし、亀寿丸が氏頼の本当の子だとすれば、たとえ赤子であろうと当主の座について、養子である高経は後見という形になったのでは無いでしょうか。それが当主の座が高経に委ねられたということは、高経は亀寿丸の存在を認識していなかったのでは無いかと思っております。
 そして、細川頼之は亀寿丸、元服して六角満高を近江守護に据えます。十歳に満たない童子の守護相続でした。これが認められるのなら、別段赤子の時に認められてもよかったはず。それが、後になって名乗られた説を支持する理由です。細川頼之が六角満高を近江守護に据えた理由は、父親の京極高秀ともどもうるさい存在だったからでしょう。導誉が生きている頃はさすがに手はだせないが、子供なら何とかできると踏んだのでしょう。結果、京極高秀・高経(改名して高詮)は立場を反細川頼之にあらためます。
 それだけだと大した話にはならないのですが、もう一つ、致命的な失策がありました。長期政権出あった為に、そのやりようを将軍に見られてしまったという問題です。これが最大の墓穴となります。それは幼主の成長です。細川頼之はここまで管領としてほぼ独裁的な政治的裁量を手中に収めておりましたが、その前提となるのが主君が幼く、政治的判断を執り行うに十分な経験を積んでいないということにありました。しかし、頼之が管領についた折にはわずか十歳の童子は既に二十歳を超える若武者に成長しておりました。細川頼之はこの若き将軍の成長という要素を見落としていたのです。

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2014年5月 6日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑦トリックスターのおわり

 山名時氏が死んだ翌々年佐々木導誉が亡くなります。山名時氏が南北朝の混乱に乗じて六か国もの守護を勝ち取れたのは、好んで混乱が引き起こされたからでもあります。それを行ったのが佐々木導誉でした。彼は北欧神話におけるロキのように、神話秩序の中にいてそれを引っ掻き回すトリックスターでもありました。

 彼がそのやり方を学んだのは日本の政治を壟断する鎌倉幕府の内管領、長崎円喜、高資親子のありようでした。若き日の彼は北条高時の相供衆として鎌倉に出仕しております。当時の鎌倉幕府は朝廷の皇位継承をめぐって大覚寺統と持明院統が対立している一件で仲裁人を務め、その一方で奥州安藤氏の内紛に介入するなどその影響力は全国規模に及んでおりました。とは言っても長崎円喜、高資親子は鎌倉幕府の将軍ではないのはもちろん、執権を司る北条一門でもありません。北条宗家である得宗家の家人に過ぎませんでした。
 その権力構造は対立する二勢力のいずれかに与することによってキャスティングボートを握ることにあったのです。併せて比較優位勢力内にある複数の拮抗勢力の最優位者に加担することによって、自身は小さい力であるにもかかわらず、事実上全体を牛耳ることが可能になったのです。すなわち、公家と武家は武家が優位です。幕府の将軍は朝廷から下ってくるお飾りで、幕政は事実上御家人層の合議によるものでした。御家人層の最強者は北条氏で、北条氏は得宗家、名越家・金沢家ら複数の家からなる血縁集団で、その中心となっているのは北条一門の宗家たる得宗家です。得宗家以外からも執権になる者がいましたが、宗家には逆らえません。その宗家の内情を知り、得宗の意志を具体化させるのが、家人である長崎親子の役目だったわけです。それぞれの階層において比較優位者たちが、組織の結束を強靭に固めてきたために、家格的には吹けば飛ぶような存在であるはずの長崎氏が日本国の支配者であるような顔ができたのです。このような政体になるのは日本においては特に珍しい事象ではなく、現代においては自民党海部内閣時代の小沢一郎幹事長が国政を掌握していたことが想起されます。当時の小沢氏は首相でも、総裁派閥出身でもなく、当時自由民主党最大派閥であった竹下派の中で、派閥の領袖たる竹下登・金丸信の下に置かれた七奉行の一人に過ぎませんでした。
 佐々木導誉の生涯を振り返るに、彼はそのような形で政権に関与することを望んだ節があります。導誉は鎌倉幕府の有力御家人ではありますが、佐々木一門の中では庶流の一家でしかなく、そのような血筋の導誉が野心を持ったなら、そのやり口の手本となるのは長崎親子であったに違いありません。
 その機会は訪れました。後醍醐帝が幕府に対して蜂起しました。北条家は圧倒的な軍勢でこれを弾圧しますが、楠木や赤松のゲリラ戦術に戦いが長期化する中、足利高氏と新田義貞が後醍醐帝に味方するという事態が起こって、北条家は滅亡してしまったのです。
 その混乱のさなか、佐々木導誉は持明院統の光厳天皇を奉じて鎌倉目指して落ち延びる北条仲時の一行を足止めし、その一方で仲時軍に同道した佐々木宗家の六角時信にデマを流して足利軍に降伏させます。結果として仲時は足止めされた番場の蓮華寺で自害し、導誉は光厳天皇を保護することに成功するわけですが、もしここで何もしなければ六角時信は滅亡する北条方と見なされて、佐々木一門は討伐の対象となった可能性は高かったと思われます。この直後に鎌倉が新田義貞に襲われて北条一門は滅びたのです。佐々木導誉の子の行動は佐々木一門の武士団としての発言力を保全するためのファインプレイであったといって良いでしょう。
 六角宗家はなんとかこの危機を脱したわけですが、おかげで導誉に頭が上がらなくなってしまいました。後醍醐の距離ということでは、同じ佐々木一門衆の塩冶高貞も建武政権に重用されていたのですが、建武の乱中に導誉がうまく丸め込んで足利陣営に引き入れました。これで導誉は佐々木一門の意を体現する者として、足利一門以外の武士団の代表として幕府を支えます。その過程で天龍寺建立に反対する延暦寺の目をそらすための挑発を請け負わされたり、寝返りを疑われた塩冶高貞を討たれたり、戦場で息子を戦死させたりしておりますが、導誉は尊氏や高師直の信頼をつかむことに成功します。
 その一方で足利幕府が担ぐ北朝は南朝に対して決定的な勝利を収めてしまいます。楠木正行の戦死と南朝の賀名生逼塞です。鎌倉幕府の事例を見るにこのままでは佐々木一門は、往時の非北条御家人と同じ憂き目にあいかねないことに気づきました。なので足利直義と高師直が対立した折には両者の仲立ちをするというよりも、高師直方に肩入れして対立を煽る方にまわったのです。
 結果として高師直と足利直義が死に、直義党は南朝に与したことで、風前の灯火だった南朝は息を吹き返し、北朝の皇族全員を賀名生に拉致するに至ります。この時、導誉は出家寸前だった皇子を即位させる工作を行いました。皇位継承には立太子の儀式などを初めとする色々と複雑な手続きが必要なのですが、この時の導誉は北朝の貴族に働きかけてかなり強引に先例の無い手法を用いさせております。この果断な働きで北朝も幕府もその命脈をぎりぎりのところで繋ぎました。

 尊氏の後を継いだ義詮は天皇・上皇拉致の尻拭いを導誉にやってもらった関係で導誉には頭が上がらなくなっておりました。それ以後、導誉は将軍執事の選定と罷免に大きな影響力を持つキング・メーカーになります。その任期の長さは導誉との相性によってきまりました。細川清氏と足利尾張守高経は彼が手ずから執事の座から引きずり下ろしました。清氏には反撃を食らって一時的に京を占領されたりしました。高経の時にはあわや、観応の擾乱の再現となりかけましたが、都合の良いタイミングで当事者が次々と亡くなったせいです。その間、旧直義派武将の取り込みを行いましたが、これは直冬や清氏らが一時的にでも京を占領したことに鑑み、南朝を強くしすぎるよりも、内部の対立にとどめ置いた方が良いと学んだせいでありましょう。導誉はすでに対立を内部に引き入れてもびくともしないくらいの根っこを幕府内に生やしておりました。すでに義詮はこの世になく、神輿に掲げるのは幼主義満のみでした。相棒に選んだ管領は最前線司令官としては有能かも知れませんが、京で政治を行うには経験不足な若造でした。延暦寺対策の失敗を横目に自らは六角家を取りに行きます。それは六角氏の嫡男義信が死んだ時から周到な準備を重ねてきた結果であり、その最後の仕上げとして、導誉は孫の高経を六角家に押し込むことに成功します。事実上の導誉の勝利であり、わが世の春を謳歌したに違いありません。しかし、導誉は最後に一つ見落としをしていました。細川頼之の正体についてです。
 彼の相棒は政治に向かぬただの武辺者などではなく、自らの手で宗家当主を討ち取る胆力の持ち主でもありました。それは導誉には結局できなかったことでもあります。導誉本人は裏切り、寝返りを常とする人物ではありましたが、宗家当主を殺して自らがそれになり替わるというやり口はまねのできないことでした。
 細川頼之のしっぺ返しは佐々木江導誉の死後に炸裂することになります。

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2014年5月 3日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑥山名時氏

 1371年(応安四年)三月二十八日に山名時氏が死去しました。観応の擾乱で直義が死んで以降、政局を引っ掻き回していたのは佐々木導誉と足利尾張守高経と桃井直常、そしてこの山名時氏の四人であったと言って過言ではないでしょう。そしてこの四人がけん制し合って入れ代わり立ち代わり政局を動かすことによって、鎌倉幕府における北条氏のような、一門で全てを牛耳る勢力になることが防がれたわけです。没落した桃井氏を除く三家は三管四職の家格にして足利幕府の支える柱石として後代に続くことになります。

 導誉と高経は一通り取り上げましたし、桃井直常のために一稿もうけたりもしましたので、今回は山名時氏のために費やしたいと思います。
 山名氏は足利一門衆ではなく、新田一族の出です。鎌倉幕府滅亡の折、新田軍に参陣しましたが、中先代の乱で落とされた鎌倉の回復のために足利尊氏が勅許も得ずに出陣すると、新田一門であるにもかかわらず、山名時氏はそれにつきあって鎌倉に向かいます。この時尊氏が引き連れていったのは建武の親政に多かれ少なかれ不満をもっていた連中でしたので、山名時氏もその一人でした。ちなみに、山名時氏の母は上杉氏の出で、足利尊氏・直義兄弟の母である上杉清子の伯母にあたります。このころの新田義貞は絶頂期にありましたが、それでも尊氏を選んだのは彼自身に博打打ちの性分があったためでした。これ以後、山名時氏率いる山名軍は足利尊氏と行動をともにし、湊川では目覚ましい働きをしたと言います。その功績で山名時氏には名和長年が治めていた伯耆国があてがわれました。
 さて、その隣国出雲国は佐々木一族の塩冶高貞が守護をしておりました。塩冶高貞は高師直に謀反の嫌疑をかけられて、京から逃亡します。これを討ったのが山名時氏でした。彼はこの功績をもって塩冶高貞の出雲国守護そして、隠岐国守護を兼務することになりました。この二ヶ国は鎌倉時代からの佐々木一門の勢力下にあった土地でした。なので、出雲国は1343年(康永二年)に佐々木導誉に取り返されます。以後長く続く佐々木導誉戸の確執はここから始まります。
 楠木正行が和泉河内でゲリラ戦を展開した折、緒戦に敗れた細川清氏の援軍に赴きますが、突出しすぎて各個撃破の餌食になりました。この時はさらに高師直がフォローをして、楠木正行を打ち破ってついでに吉野の南朝を賀名生にまで追いました。
 その直後に足利直義は西国遠征に備えて過激な政策を推し進めます。足利直冬を長門探題に据えて、長門・周防・備前守護を直冬とその配下に与えたのでした。長門探題という役職は中国地方の軍事動員権をもつ強力な役職です。山名時氏にしてみれば、幕府の意向で鉢植えを挿げ替えられるように守護が入れ替えられるのも、幕府と守護の間に長門探題が入ってしまうことも認められませんでした。なので、その不満を聞きつつ幕府に抵抗した高師直が反直義クーデターを起こした時に、足利尊氏の邸宅を囲むことに参加したのです。
 ただ、同じ陣営に佐々木導誉がいたことは気に食わなかったらしく、一時失脚した直義が尊氏と高師直に反旗を翻した時には直義方に鞍替えします。変転する戦局の中彼は常に勝ち馬に乗り続けようとしますが、正平一統で後村上天皇が一時的に京都を制圧した時点で南朝方にいたことは失敗でした。京はすぐに奪回され、出雲国は佐々木導誉の手に落ちました。
 時氏としては、挽回のためにデモンストレーションをする必要に迫られていました。その頃、足利直冬が九州から中国に流れてきたので、時氏はこれを保護、旧直義派の桃井直常、足利尾張守高経と語らって京都の占領に成功します。しかし、この時も戦線を維持できなかったこともあったのですが、肝心な時に総大将の直冬が実の父親とは戦えないとばかりに戦意を喪失してしまって、京都占領軍は霧散するに至ります。
 プライドの高い足利尾張守高経は早々に直冬を見限り、桃井は幕府に降った高経相手の戦争を始めますが、時氏は直冬を手元に置き続け、保護しました。結果、直冬は政争とは関係のない所で生涯を全うすることに成功するに至ります。
 山名の惣領たる時氏にはそういうことはできません。佐々木導誉や赤松則祐と争いながら着実に地盤を固めてゆきました。そんな折、一時は袂を分かった足利尾張守高経とその子息義将が幕府の実権を握ることに成功します。時氏はこれをチャンスと周防の大内弘世と語らって、幕府に降伏します。それは自らの領土を全うした降伏でした。
 彼を許した足利尾張守高経が失脚したおりには、導誉の子の佐々木高秀、赤松、土岐、畠山らと一緒に息子の氏冬が高経の籠もる越前国杣山城を包囲します。そのまま、高経は亡くなり、以後反細川派の一角を占めるに至ります。その時点で時氏を含む山名一族は伯耆・丹波・丹後・因幡・美作の五ヶ国を得ておりました。山名氏は清和源氏と言っても、鎌倉時代には冷遇されていた新田氏の氏族です。それが対立する両陣営を行き来する間に五ヶ国の太守にまで成りあがったのですから、その戦略眼は鬼神の域にあると言っても差し支えないでしょう。難太平記によると、大きくしすぎた勢力が敵視されることを恐れて、自ら身を慎み、己が過去に憧れて肩で風を切る同族たちを憂いていたと言います。彼がこれほどまで大きな勢力を率いることができるようになったのかについては、その戦略眼だけとは言い難い部分はあります。世の中が乱れに乱れていたせいとも言えるでしょう。世の乱れは絶対的強者を生み出さない故、乱れています。その中で相対的に強いものにつき続け、自らの勢力を不断に育てていったからこそ、ここまで大きくなれたのです。では世の乱れの根源は何か。その一端に関わる者それこそが――佐々木導誉でした。

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2014年5月 1日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑤妙葩隠遁と六角処分、付けたり九州探題の事

 ここに至って、細川頼之は完全に手詰まりになりました。頼之を支持して管領につけた佐々木導誉が早々と引退してしまっては、幕府と朝廷・寺社とをつなぐ人間がいなくなってしまいます。彼の得意分野は軍事関係であって、こういう京風の駆け引き合戦は全くの不得意分野でした。それでも思い切りの良い所が、細川頼之の特徴です。
 彼はもう一段の妥協を決めます。すなわち、延暦寺の要求の二番目、南禅寺楼門の取り壊しを呑んだのです。楼門の破壊は礎石まで壊す徹底的なものだったそうです。細川頼之はこれで幕引きがされることを天にも祈るつもりであったでしょうが、彼以外の誰もそこが落としどころとは考えておりません。

 もちろん、延暦寺の三番目の要求対象である春屋妙葩もその一人でした。彼は師である夢窓疎石と同郷の甲斐国出身者ではありますが、師について京・鎌倉を往還しながら齢を重ねてきただけあって、細川頼之のやり方がどれだけ甘いものなのかを熟知しておりました。定山祖禅が処罰され、南禅寺の楼門が破却した後、標的になるのは春屋妙葩であることは確定です。幕府の態度を見るに、山門の圧力に十二分に抗しきれるようには全く見えませんでした。春屋妙葩から見て、細川頼之は全く頼りがいのない、「豎子、ともに謀るに足らず!」と范増の如く罵るべき軽輩に成り下がったのでした。

 春屋妙葩は攻撃の矛先が自分に向く前に、天龍寺の住持を辞して阿波の光勝院に隠遁します。光勝院は夢窓疎石が細川頼之の父、頼春の菩提を弔う為に建てた寺です。妙葩は幕府が流罪の命を下す前に、自らに流刑を課したのです。但し、これもまた細川頼之の苦手な京風の駆け引きの一環でした。実はこの時阿波に隠棲したのは妙葩だけではなく、京都五山にいて妙葩を支持する弟子達はこぞって寺を抜けて妙葩に付き従いました。一応これに満足して延暦寺は日吉大社の神輿を引き揚げます。幕府はその放置された期間中に毀損した神輿の修理費用を出す約束までしていたのでした。頼之はその上で春屋妙葩に帰京を促しますが、妙葩はそれに従わず、頼之の領国である阿波を離れて丹後国の雲門寺に弟子を引き連れて移ってしまいました。

 細川頼之は安易に妥協を重ねることによって、それまでずっと幕府が守ってきた臨済宗教団を敵に回してしまったのです。やむを得ず、頼之は京に残った臨済僧龍湫周沢を起用して体裁を繕いました。龍湫周沢は春屋妙葩と同じ夢窓疎石の弟子で、春屋妙葩は兄弟子に当たります。細川頼之は春屋妙葩と彼に従って京を離れた宗徒達の僧籍を剥奪しました。これによって細川頼之は春屋派を完全に敵に回してしまったわけです。

 宗門との争いはこれでけりをつけたつもりの細川頼之は、体制固めと攻勢に出ます。
 まずは懸案の近江守護ですが、1370年(応安三年)六月七日に六角氏頼が死去し、猶子につけた京極佐々木高経(後の高詮、導誉の孫)が近江守護になります。とはいっても、その前年に氏頼の実子亀寿が誕生している為、亀寿が成人し、近江国守護を相続するまでの後見人という立場としての相続です。実はこのあたりの事情は複雑な要素がからんでいる節があり、一説に亀寿は六角氏頼の子ではなく、足利義詮の子(だとすれば生誕年は応安三年ではなく、義詮の生前もしくは死の前後ということになります)と言われているのです。導誉の死後に六角の遺臣達が亀寿を担いで当主高経とそのと父親高秀を近江国から放逐する挙に出ますが、亀寿誕生の翌年に父親が死んだり、足利義詮父親説が出たりするような胡散臭さが付きまとうのは、『後見』という建前自体なかった結果ではないかという気がします。すなわち、クーデターの為に、六角氏頼の遺児が探し出されたのではないかということです。無論これは推測にすぎませんが、1370年(応安三年)に京極佐々木出身の高経が近江守護を継いだことは事実です。近江国は事実上佐々木導誉の手中に落ちました。同じ年、畿内における南朝の最有力武将である楠木正儀が幕府に降ります。これにより南朝は詰んだ形になって、残る南朝勢力の拠点はほぼ九州のみになりました。これで九州征伐に注力できる環境が整ったのです。九州制圧については、尾州足利、渋川氏から九州探題を補任するという試みがなされましたが、ことごとく失敗に終わっております。
 細川頼之はその轍を踏むことがないよう、家門の高さではなく、軍略の確かなものを選んで派遣することにしました。それが、遠江、駿河を領する今川家の次男了俊でした。了俊は頼之の期待にたがわぬ大活躍をしてのけますが、それはまた別稿で述べさせていただきます。

 細川頼之が悪戦苦闘の日々を送ったこの期間中に二人の有力者が亡くなりました。一人は山名時氏、そして佐々木導誉です。佐々木導誉は今までたびたび述べてきたとおり、幕府に隠然とした影響力を保ち続け、いつ終わってもおかしくなかった幕府の命脈をつないだ人物です。細川頼之の後ろ盾でもありました。これにより、反頼之勢力はにわかに勢いづくことになります。

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