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2014年5月 6日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑦トリックスターのおわり

 山名時氏が死んだ翌々年佐々木導誉が亡くなります。山名時氏が南北朝の混乱に乗じて六か国もの守護を勝ち取れたのは、好んで混乱が引き起こされたからでもあります。それを行ったのが佐々木導誉でした。彼は北欧神話におけるロキのように、神話秩序の中にいてそれを引っ掻き回すトリックスターでもありました。

 彼がそのやり方を学んだのは日本の政治を壟断する鎌倉幕府の内管領、長崎円喜、高資親子のありようでした。若き日の彼は北条高時の相供衆として鎌倉に出仕しております。当時の鎌倉幕府は朝廷の皇位継承をめぐって大覚寺統と持明院統が対立している一件で仲裁人を務め、その一方で奥州安藤氏の内紛に介入するなどその影響力は全国規模に及んでおりました。とは言っても長崎円喜、高資親子は鎌倉幕府の将軍ではないのはもちろん、執権を司る北条一門でもありません。北条宗家である得宗家の家人に過ぎませんでした。
 その権力構造は対立する二勢力のいずれかに与することによってキャスティングボートを握ることにあったのです。併せて比較優位勢力内にある複数の拮抗勢力の最優位者に加担することによって、自身は小さい力であるにもかかわらず、事実上全体を牛耳ることが可能になったのです。すなわち、公家と武家は武家が優位です。幕府の将軍は朝廷から下ってくるお飾りで、幕政は事実上御家人層の合議によるものでした。御家人層の最強者は北条氏で、北条氏は得宗家、名越家・金沢家ら複数の家からなる血縁集団で、その中心となっているのは北条一門の宗家たる得宗家です。得宗家以外からも執権になる者がいましたが、宗家には逆らえません。その宗家の内情を知り、得宗の意志を具体化させるのが、家人である長崎親子の役目だったわけです。それぞれの階層において比較優位者たちが、組織の結束を強靭に固めてきたために、家格的には吹けば飛ぶような存在であるはずの長崎氏が日本国の支配者であるような顔ができたのです。このような政体になるのは日本においては特に珍しい事象ではなく、現代においては自民党海部内閣時代の小沢一郎幹事長が国政を掌握していたことが想起されます。当時の小沢氏は首相でも、総裁派閥出身でもなく、当時自由民主党最大派閥であった竹下派の中で、派閥の領袖たる竹下登・金丸信の下に置かれた七奉行の一人に過ぎませんでした。
 佐々木導誉の生涯を振り返るに、彼はそのような形で政権に関与することを望んだ節があります。導誉は鎌倉幕府の有力御家人ではありますが、佐々木一門の中では庶流の一家でしかなく、そのような血筋の導誉が野心を持ったなら、そのやり口の手本となるのは長崎親子であったに違いありません。
 その機会は訪れました。後醍醐帝が幕府に対して蜂起しました。北条家は圧倒的な軍勢でこれを弾圧しますが、楠木や赤松のゲリラ戦術に戦いが長期化する中、足利高氏と新田義貞が後醍醐帝に味方するという事態が起こって、北条家は滅亡してしまったのです。
 その混乱のさなか、佐々木導誉は持明院統の光厳天皇を奉じて鎌倉目指して落ち延びる北条仲時の一行を足止めし、その一方で仲時軍に同道した佐々木宗家の六角時信にデマを流して足利軍に降伏させます。結果として仲時は足止めされた番場の蓮華寺で自害し、導誉は光厳天皇を保護することに成功するわけですが、もしここで何もしなければ六角時信は滅亡する北条方と見なされて、佐々木一門は討伐の対象となった可能性は高かったと思われます。この直後に鎌倉が新田義貞に襲われて北条一門は滅びたのです。佐々木導誉の子の行動は佐々木一門の武士団としての発言力を保全するためのファインプレイであったといって良いでしょう。
 六角宗家はなんとかこの危機を脱したわけですが、おかげで導誉に頭が上がらなくなってしまいました。後醍醐の距離ということでは、同じ佐々木一門衆の塩冶高貞も建武政権に重用されていたのですが、建武の乱中に導誉がうまく丸め込んで足利陣営に引き入れました。これで導誉は佐々木一門の意を体現する者として、足利一門以外の武士団の代表として幕府を支えます。その過程で天龍寺建立に反対する延暦寺の目をそらすための挑発を請け負わされたり、寝返りを疑われた塩冶高貞を討たれたり、戦場で息子を戦死させたりしておりますが、導誉は尊氏や高師直の信頼をつかむことに成功します。
 その一方で足利幕府が担ぐ北朝は南朝に対して決定的な勝利を収めてしまいます。楠木正行の戦死と南朝の賀名生逼塞です。鎌倉幕府の事例を見るにこのままでは佐々木一門は、往時の非北条御家人と同じ憂き目にあいかねないことに気づきました。なので足利直義と高師直が対立した折には両者の仲立ちをするというよりも、高師直方に肩入れして対立を煽る方にまわったのです。
 結果として高師直と足利直義が死に、直義党は南朝に与したことで、風前の灯火だった南朝は息を吹き返し、北朝の皇族全員を賀名生に拉致するに至ります。この時、導誉は出家寸前だった皇子を即位させる工作を行いました。皇位継承には立太子の儀式などを初めとする色々と複雑な手続きが必要なのですが、この時の導誉は北朝の貴族に働きかけてかなり強引に先例の無い手法を用いさせております。この果断な働きで北朝も幕府もその命脈をぎりぎりのところで繋ぎました。

 尊氏の後を継いだ義詮は天皇・上皇拉致の尻拭いを導誉にやってもらった関係で導誉には頭が上がらなくなっておりました。それ以後、導誉は将軍執事の選定と罷免に大きな影響力を持つキング・メーカーになります。その任期の長さは導誉との相性によってきまりました。細川清氏と足利尾張守高経は彼が手ずから執事の座から引きずり下ろしました。清氏には反撃を食らって一時的に京を占領されたりしました。高経の時にはあわや、観応の擾乱の再現となりかけましたが、都合の良いタイミングで当事者が次々と亡くなったせいです。その間、旧直義派武将の取り込みを行いましたが、これは直冬や清氏らが一時的にでも京を占領したことに鑑み、南朝を強くしすぎるよりも、内部の対立にとどめ置いた方が良いと学んだせいでありましょう。導誉はすでに対立を内部に引き入れてもびくともしないくらいの根っこを幕府内に生やしておりました。すでに義詮はこの世になく、神輿に掲げるのは幼主義満のみでした。相棒に選んだ管領は最前線司令官としては有能かも知れませんが、京で政治を行うには経験不足な若造でした。延暦寺対策の失敗を横目に自らは六角家を取りに行きます。それは六角氏の嫡男義信が死んだ時から周到な準備を重ねてきた結果であり、その最後の仕上げとして、導誉は孫の高経を六角家に押し込むことに成功します。事実上の導誉の勝利であり、わが世の春を謳歌したに違いありません。しかし、導誉は最後に一つ見落としをしていました。細川頼之の正体についてです。
 彼の相棒は政治に向かぬただの武辺者などではなく、自らの手で宗家当主を討ち取る胆力の持ち主でもありました。それは導誉には結局できなかったことでもあります。導誉本人は裏切り、寝返りを常とする人物ではありましたが、宗家当主を殺して自らがそれになり替わるというやり口はまねのできないことでした。
 細川頼之のしっぺ返しは佐々木江導誉の死後に炸裂することになります。

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