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2014年5月 8日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑧細川政権

 佐々木導誉が亡くなった1373年(応安六年)、その同じ年に天龍寺は火災にあいます。有力者の死などで政局が動いた時に火災にあうのは、これで三度目になります。一度目は足利尊氏が死んだ1358年(延文三年)、二度目は足利義詮、足利尾張守高経、足利基氏が亡くなった1367年(貞治六年)です。二度あることは三度あると言うか、しかも四度目もあったりしますが、それは後の話。

 しかも、この時京にはまたしても興福寺の神木が京に動座されておりました。と言っても、興福寺の神木動座は導誉の死の二年前、1371年(応安四年)に始まって、帰座するのは導誉の死の翌年1374年(応安七年)になりますので、直接の関係は無さそうです。春日神木は足利尾張守高経・義将親子の時も無視されておりましたので、扱いとしてはその程度のものだったのかもしれません。
 この時の強訴内容というのは、興福寺内の一乗院門跡と大乗院門跡間でもめ事があって、両門跡を交替させよとの要求で、本来であれば内々で解決させるべきことでしたが、内輪もめに摂関家である九条家がからんでいた為に、強訴に及んだ次第です。三年放置された後で、延暦寺が日吉大社の神輿修繕の約束が果たされていないことを名目に再強訴されるに及んで、門跡交替と修繕費拠出がなされた解決されるわけですが、細川頼之には寺社勢力の取り押さえ方が理解されておらず、事態を悪化させるだけ悪化させて(それでも全体の影響から見れば微々たるものだったのでしょう。細川的には)その場しのぎの妥協を繰り返していたのです。

 その一方で、細川頼之が派遣した九州探題今川了俊はその期待に応えて、肥前国蜷打で、南朝方の菊池武朝、阿蘇惟武らを撃破し、着々と征服の実をあげておりました。それまで九州探題には尾州足利氏経(足利尾張守高経の息子)、渋川義行(足利義詮夫人渋川幸子の甥)と相次いで政界の大物が自分の身内を派遣しては、失敗を繰り返しておりましたが、ついに今川了俊がその悪循環を断ち切ったのでした。同じ足利一門衆ではありましたが、今川了俊の才能を見込んで九州探題に抜擢した細川頼之はその功のみでも、十二分に慧眼の持ち主とたたえられるべきです。

 要するに、細川頼之は政策執行の優先順位が明確で、よほどのことがなければその順序を変えることはない、極めて几帳面なキャラクターであったわけですね。彼は自らの役割を南朝の打倒に据えてその方針に基づいて最短距離の手を打ってきました。楠木正儀は南北朝の争いの趨勢は既に決まったことを悟り、幕府に降伏しました。細川頼之はそんな正儀を和泉・河内両国守護に補することによって、北朝の優勢は決して覆らないことを知らしめました。残存勢力の九州も今川了俊が順調に懐良親王を追い詰めております。時間が必要な戦略ですが、着々と手を進めておりました。仏教勢力とのいざこざも、斯波義将を中心とする反対勢力も幼君を掌中に収めている間は無視することが可能だったわけですね。

 結果として細川頼之の政権は1367年(貞治六年)から1379年(康暦元年)までの十二年に及びます。それ以前の幕政の中心人物たちと比べてみると次のようになります。

 足利直義:1336年(建武三年)~ 1349年(貞和五年)十三年
 仁木頼章:1351年(観応二年)~ 1359年(延文四年) 七年
 細川清氏:1359年(延文四年)~ 1360年(延文五年) 二年
 足利高経:1362年(康安二年)~ 1366年(貞治五年) 四年

 このようにしてみると、細川政権は足利直義が幕府の実権を握っていた期間に等しい時間を管領として幕政を差配しております。この長期政権をもたらした理由を考えるに、私は彼の果断さを挙げてみたいです。彼はお尋ね者となった宗家の当主を自らの手で討ち取っております。しかもその功をもって将軍家に優遇され、宗家の方は事実上没落します。
 その果断さは、それまで保護してきた禅宗の勢力に制約を加えるものも含まれておりました。頼之の価値観としては幕府は禅宗のみを保護するのでは無く、諸勢力のせめぎ合いの中でバランスを取ってゆくことを選んだのでしょう。故に丹波に引きこもった春屋妙葩に天龍寺に戻ることを懇願したりもしました。しかし、そのような頼之のあり方は春屋妙葩には受け入れがたいものでした、これが遺恨となって頼之は墓穴を掘るに至ります。

 このような思い違い、失脚の伏線となるような地雷を頼之はいくつも踏んでゆきました。その中でもひときわ大きかったのが、六角家のお家騒動です。1377年(永和三年)に六角家の当主佐々木高経は、先代六角氏頼の遺児、亀寿丸を担いだ先代の遺臣たちから反京極クーデターを受けたのでした。六角亀寿丸は氏頼の晩年の子と言われておりますが、一説に実は足利義詮の遺児、つまり現将軍義満の弟という説もあります。もし、亀寿丸が氏頼の本当の子だとすれば、たとえ赤子であろうと当主の座について、養子である高経は後見という形になったのでは無いでしょうか。それが当主の座が高経に委ねられたということは、高経は亀寿丸の存在を認識していなかったのでは無いかと思っております。
 そして、細川頼之は亀寿丸、元服して六角満高を近江守護に据えます。十歳に満たない童子の守護相続でした。これが認められるのなら、別段赤子の時に認められてもよかったはず。それが、後になって名乗られた説を支持する理由です。細川頼之が六角満高を近江守護に据えた理由は、父親の京極高秀ともどもうるさい存在だったからでしょう。導誉が生きている頃はさすがに手はだせないが、子供なら何とかできると踏んだのでしょう。結果、京極高秀・高経(改名して高詮)は立場を反細川頼之にあらためます。
 それだけだと大した話にはならないのですが、もう一つ、致命的な失策がありました。長期政権出あった為に、そのやりようを将軍に見られてしまったという問題です。これが最大の墓穴となります。それは幼主の成長です。細川頼之はここまで管領としてほぼ独裁的な政治的裁量を手中に収めておりましたが、その前提となるのが主君が幼く、政治的判断を執り行うに十分な経験を積んでいないということにありました。しかし、頼之が管領についた折にはわずか十歳の童子は既に二十歳を超える若武者に成長しておりました。細川頼之はこの若き将軍の成長という要素を見落としていたのです。

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