« 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑤妙葩隠遁と六角処分、付けたり九州探題の事 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑦トリックスターのおわり »

2014年5月 3日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑥山名時氏

 1371年(応安四年)三月二十八日に山名時氏が死去しました。観応の擾乱で直義が死んで以降、政局を引っ掻き回していたのは佐々木導誉と足利尾張守高経と桃井直常、そしてこの山名時氏の四人であったと言って過言ではないでしょう。そしてこの四人がけん制し合って入れ代わり立ち代わり政局を動かすことによって、鎌倉幕府における北条氏のような、一門で全てを牛耳る勢力になることが防がれたわけです。没落した桃井氏を除く三家は三管四職の家格にして足利幕府の支える柱石として後代に続くことになります。

 導誉と高経は一通り取り上げましたし、桃井直常のために一稿もうけたりもしましたので、今回は山名時氏のために費やしたいと思います。
 山名氏は足利一門衆ではなく、新田一族の出です。鎌倉幕府滅亡の折、新田軍に参陣しましたが、中先代の乱で落とされた鎌倉の回復のために足利尊氏が勅許も得ずに出陣すると、新田一門であるにもかかわらず、山名時氏はそれにつきあって鎌倉に向かいます。この時尊氏が引き連れていったのは建武の親政に多かれ少なかれ不満をもっていた連中でしたので、山名時氏もその一人でした。ちなみに、山名時氏の母は上杉氏の出で、足利尊氏・直義兄弟の母である上杉清子の伯母にあたります。このころの新田義貞は絶頂期にありましたが、それでも尊氏を選んだのは彼自身に博打打ちの性分があったためでした。これ以後、山名時氏率いる山名軍は足利尊氏と行動をともにし、湊川では目覚ましい働きをしたと言います。その功績で山名時氏には名和長年が治めていた伯耆国があてがわれました。
 さて、その隣国出雲国は佐々木一族の塩冶高貞が守護をしておりました。塩冶高貞は高師直に謀反の嫌疑をかけられて、京から逃亡します。これを討ったのが山名時氏でした。彼はこの功績をもって塩冶高貞の出雲国守護そして、隠岐国守護を兼務することになりました。この二ヶ国は鎌倉時代からの佐々木一門の勢力下にあった土地でした。なので、出雲国は1343年(康永二年)に佐々木導誉に取り返されます。以後長く続く佐々木導誉戸の確執はここから始まります。
 楠木正行が和泉河内でゲリラ戦を展開した折、緒戦に敗れた細川清氏の援軍に赴きますが、突出しすぎて各個撃破の餌食になりました。この時はさらに高師直がフォローをして、楠木正行を打ち破ってついでに吉野の南朝を賀名生にまで追いました。
 その直後に足利直義は西国遠征に備えて過激な政策を推し進めます。足利直冬を長門探題に据えて、長門・周防・備前守護を直冬とその配下に与えたのでした。長門探題という役職は中国地方の軍事動員権をもつ強力な役職です。山名時氏にしてみれば、幕府の意向で鉢植えを挿げ替えられるように守護が入れ替えられるのも、幕府と守護の間に長門探題が入ってしまうことも認められませんでした。なので、その不満を聞きつつ幕府に抵抗した高師直が反直義クーデターを起こした時に、足利尊氏の邸宅を囲むことに参加したのです。
 ただ、同じ陣営に佐々木導誉がいたことは気に食わなかったらしく、一時失脚した直義が尊氏と高師直に反旗を翻した時には直義方に鞍替えします。変転する戦局の中彼は常に勝ち馬に乗り続けようとしますが、正平一統で後村上天皇が一時的に京都を制圧した時点で南朝方にいたことは失敗でした。京はすぐに奪回され、出雲国は佐々木導誉の手に落ちました。
 時氏としては、挽回のためにデモンストレーションをする必要に迫られていました。その頃、足利直冬が九州から中国に流れてきたので、時氏はこれを保護、旧直義派の桃井直常、足利尾張守高経と語らって京都の占領に成功します。しかし、この時も戦線を維持できなかったこともあったのですが、肝心な時に総大将の直冬が実の父親とは戦えないとばかりに戦意を喪失してしまって、京都占領軍は霧散するに至ります。
 プライドの高い足利尾張守高経は早々に直冬を見限り、桃井は幕府に降った高経相手の戦争を始めますが、時氏は直冬を手元に置き続け、保護しました。結果、直冬は政争とは関係のない所で生涯を全うすることに成功するに至ります。
 山名の惣領たる時氏にはそういうことはできません。佐々木導誉や赤松則祐と争いながら着実に地盤を固めてゆきました。そんな折、一時は袂を分かった足利尾張守高経とその子息義将が幕府の実権を握ることに成功します。時氏はこれをチャンスと周防の大内弘世と語らって、幕府に降伏します。それは自らの領土を全うした降伏でした。
 彼を許した足利尾張守高経が失脚したおりには、導誉の子の佐々木高秀、赤松、土岐、畠山らと一緒に息子の氏冬が高経の籠もる越前国杣山城を包囲します。そのまま、高経は亡くなり、以後反細川派の一角を占めるに至ります。その時点で時氏を含む山名一族は伯耆・丹波・丹後・因幡・美作の五ヶ国を得ておりました。山名氏は清和源氏と言っても、鎌倉時代には冷遇されていた新田氏の氏族です。それが対立する両陣営を行き来する間に五ヶ国の太守にまで成りあがったのですから、その戦略眼は鬼神の域にあると言っても差し支えないでしょう。難太平記によると、大きくしすぎた勢力が敵視されることを恐れて、自ら身を慎み、己が過去に憧れて肩で風を切る同族たちを憂いていたと言います。彼がこれほどまで大きな勢力を率いることができるようになったのかについては、その戦略眼だけとは言い難い部分はあります。世の中が乱れに乱れていたせいとも言えるでしょう。世の乱れは絶対的強者を生み出さない故、乱れています。その中で相対的に強いものにつき続け、自らの勢力を不断に育てていったからこそ、ここまで大きくなれたのです。では世の乱れの根源は何か。その一端に関わる者それこそが――佐々木導誉でした。

|

« 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑤妙葩隠遁と六角処分、付けたり九州探題の事 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑦トリックスターのおわり »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/59549823

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑥山名時氏:

« 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑤妙葩隠遁と六角処分、付けたり九州探題の事 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑦トリックスターのおわり »