« 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑪康暦の政変 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑬最後の神木と祇園社の独立 »

2014年5月17日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑫燃える天龍寺

 この政変劇の主役は言うまでもなく、細川頼之から管領の地位を奪い取った斯波義将です。とはいっても、彼一人の力ではクーデターの成立は期し難かったでしょう。彼は長い時間をかけて様々な人々を味方につけました。この政変劇においては、武力行使もしないで大和国に駐留し、最終局面では突然室町第を包囲するなど自らも駒として動いております。とするならば、駒を動かす黒幕に目を向けないわけにはいきません。  その人物は、すなわち春屋妙葩でした。  斯波義将がクーデターを起こすや、丹波国の雲門寺に籠もっていた春屋妙葩は上京し、天龍寺雲居庵に入りました。その時、京で臨済宗を統べていたのは龍湫周沢でした。彼は甲斐守護武田氏の血族で甲斐国出身の夢窓疎石の弟子でもありました。夢窓疎石が甲斐国に建てた恵林寺の住持もしていたことがあります。彼は仏画が得意で後世に不動明王の図画を残しております。不動明王は禅宗というよりは、真言宗等の密教系の寺院で崇められる神格であり、蘭渓道隆以後の純粋禅を求め続けた宗派の流れからは多少離れたところに龍湫周沢はおりました。おそらくはそういうところが春屋妙葩とそりが合わなかったところでしょう。南禅寺山門事件で細川頼之との関係が破たんした春屋妙葩が丹波国に引きこもった後、細川頼之は春屋妙葩の後継に龍湫周沢を選びました。細川頼之は臨済宗を篤く信仰しておりましたが、他宗派的なものに対して排他的な方向性を打ち出されるよりも、龍湫周沢の寛容さの方を好んだようです。それは興福寺や延暦寺に対する妥協的な態度にも表れておりました。そんな細川頼之が失脚したことは、龍湫周沢に自らの潮時を悟るに十分なことでした。彼は春寧院というところに隠棲することを選びます。  そして、それから間もなく、将軍足利義満は天竜寺雲居庵にいる春屋妙葩を訪ねます。この時点で春屋妙葩は天龍寺の住持でもなんでもないので、将軍が妙葩に用があれば御所に呼びつけてもよかったわけですが、斯波義将のアドバイスを入れて政策ブレーンとして迎えるために自ら出向いたということでありましょう。ここで今後の方針について話し合われたものと思われます。  真っ先に議題に上がったのは関東の不穏な情勢でしょう。それは斯波義将が火をつけたことではありますが、関東管領が自害したり、挙兵して西上の途についたものの引き返したりするなどとグダグダな状況となっておりました。政変が起こって振り上げた拳のおろしどころが見えなくなっていたのですね。解決の糸口となったのは、関東公方が送り込んだ謝罪使でした。名を古天周誓と言います。春屋妙葩と同じ夢窓派の僧で、鎌倉の瑞泉寺の住持をしておりました。鎌倉公方はすんなり許されます。その背景として春屋妙葩ら夢窓派のネットワークがあったことは言うまでもありません。これに感謝した鎌倉公方足利氏満は下総国葛飾郡馬橋にあった真言律宗の大日寺を萬満寺と号を改め、臨済宗寺院に宗旨替えさせるべく古天周誓に与えました。寺号は義満と氏満の「満」の字をもらったそのことです。  春屋妙葩も僧禄司という地位を得ることになりました。これは元々中国にあった官職で洪武帝が仏教寺院を統制させるために権限強化して設置したのを、日本でも導入したものです。それまでは禅宗・律宗の訴訟ごとには幕府は禅律方という役所で公家や武家に裁かせておりましたが、訴訟に加えて禅宗寺院の寺格決定や人事に至るまで禅宗のことは全て春屋妙葩に委ねられたということになります。僧禄に禅宗寺院を統括させるというアイデアは康暦の政変の前年に明国から帰国した同じ夢窓派の絶海中津あたりの入れ知恵かもしれません。彼自身、後に春屋妙葩の後任の僧禄となりました。  僧禄となった春屋妙葩は早速人事権を発動して、関東にいた義堂周信を京に呼び寄せます。彼は足利尊氏の死の直前に天龍寺が焼けて以後、関東に下って鎌倉公方足利基氏の元に寓居しておりました。春屋妙葩は権力掌握と同時にブレーンの充実が必要となり、明国帰りの絶海中津に関東にいた義堂周信に白羽の矢を立てたのでした。  春屋妙葩を中心とする夢窓派が大きく動いている最中、夢窓派の拠点である天龍寺がまたしても焼けてしまいました。この時の火災では公文書が悉く焼けたとのことです。真相は不明ですが、春屋妙葩の躍進に対する龍湫周沢派もしくは、他宗派の干渉によるものかもしれません。しかし、この時の夢窓主流派はこの事態をも活用するようになります。天龍寺の再建は以前と同様進められましたが、同時進行で室町殿の隣接地に新寺院を建立することとなったのでした。  この発想自体は三条坊門第に等持寺が建てられたものと同様ではありましたが、最大の違いはこの寺の開山が夢想疎石とされたことです。夢窓疎石自身は観応の擾乱の最中、1351年(観応二年)に亡くなっており、洛北寺院建立構想など夢想すらしていなかったはずです。本来は春屋妙葩が開山となるはずだったのですが、彼はこれを固辞した結果、彼の師である夢窓疎石を開山として自らは二代目住持となる形をとりました。禅宗寺院では実際に寺を開いた僧侶自らが開山を名乗ることを辞退して、師を開山として自らは二代目住持として入山することは珍しいことではないのですね。但し、既に鬼籍にいる夢想疎石を開山とする意味は、室町殿の膝下にもう一つの天龍寺を作ることでもありました。創建に十年を費やした巨大寺院となったのです。寺号は萬年山相国承天禅寺、通称相国寺と言います。相国は当時の足利義満の官職である左大臣の唐名であり、寺号の使用を後円融天皇に奏上して承認を得たことから、承天の号が加わりました。これをもって春屋妙葩は南禅寺山門事件の鬱憤を晴らしたと言えるでしょう。

Photo_3

|

« 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑪康暦の政変 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑬最後の神木と祇園社の独立 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/59623200

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑫燃える天龍寺:

« 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑪康暦の政変 | トップページ | 中漠:洛中幕府編Ⅲ⑬最後の神木と祇園社の独立 »