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2014年5月10日 (土)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑨洛中幕府移転

 細川頼之の対南朝の政治構想は前代の足利尾張守高経のそれを引き継いで、真綿で締め上げるように南朝の勢力圏を削りながら、南朝の降伏を促すものでした。高経は九州攻めに失敗しますが、頼之は今川了俊の起用によって九州征服の目途をつけることに成功します。それにより、南朝の降伏後の扱いをどうするかという問題が現実味を帯びてきます。
 足利尾張守高経の政権構想は彼が足利直義を天龍寺に祀ったように、直義の方針を引き継いだものでした。彼の治世においても興福寺は神木を京に持ち込んだりして、旧仏教勢力は敵対しておりましたが、高経はこれを完全に無視しました。興福寺がその要求を遂げるのは高経の失脚後です。直義は鎮護国家の宗旨として禅宗を選んでおりましたし、延暦寺に対抗して法華宗を第二天台宗の位置づけで洛内に寺院を建てることをゆるしております。
 それに対して、細川頼之が旧仏教勢力に対して妥協的であったのは、いずれ南朝を京に迎えることを考えていたためではないかと思うのです。その時の政治体制はどうなるかと考えるならば、落としどころとしては皇統を大覚寺統と持明院統の双方から交替で出す文保の和談形式しかありえませんでした。正統を自認する南朝にとっては、これがプライドを維持できるギリギリの線です。それ以上の条件を突きつけるならば、南朝はこれを受け入れることはないでしょうし、結果としては南朝を滅ぼすことになるでしょう。
 それでも南朝は幕府をなかなか信用しませんでした。結果を見るにそれは全く正しい判断です。しかし、細川頼之としては、長い時間をかけて南朝の信頼を得る努力をすることを選びました。むろん、武力で九州を攻めながらです。反面、興福寺や延暦寺に対して強硬姿勢をとることは控えました。禅宗界では重鎮の春屋妙葩を手放して龍湫周沢を据えました。いわば、夢窓派を春屋派と龍湫派に分けたようなもので、その勢いは確実に削がれておりました。興福寺や延暦寺が引き起こす騒擾は平和のコストとして甘受し、一方で武力で兵糧断ちをしつつ、南朝の軟化を待ち続けていたのでした。細川頼之にとっては南朝という巨大な異物を呑みこむにあたって、旧仏教勢力の騒擾は小骨にすぎなかったのです。

 そんな最中の1378年(永和四年)三月、将軍足利義満は、洛北の地に将軍御所の建設を命じました。この土地はもともと室町季顕が所有していた花亭とよばれる邸宅で、これを先代将軍の足利義詮が買い上げて崇光上皇の御所にしました。崇光上皇は在位時において南朝に拉致されて皇位を失ったという経歴の持ち主です。帰京後の住居として花亭があてがわれ、それにちなんで花の御所と呼ばれておりました。彼は自身の第一皇子である伏見宮栄仁親王を後光厳天皇(崇光天皇の弟)の後継とすることを望んだのですが、細川頼之がこれを突っぱねて後光厳天皇の皇子である緒仁親王(即位して後円融天皇)が立太子されました。そんなこともあって、崇光上皇は花の御所を離れ、花の御所も1377年(永和三年)には火事で焼けてしまって廃墟となっておりました。花の御所の隣は菊亭と称される今出川公直の館でしたが、足利義満は花の御所の焼け跡に加えて菊亭の土地を取得して自らの新居とすることに決めたのです。

 足利義満は細川頼之の政治を見て育ちました。それが必ずしも肯定的なものにならなかったのは、彼の母親と一門衆筆頭の影響下にあった為と言えるかもしれません。彼の母親は渋川幸子といい、彼女の姉が足利直義の妻になります。一門衆筆頭とは斯波義将であり、彼の父も足利一門衆代表として観応の擾乱においては足利直義派についておりました。直義は理念先行型の政治家であり、理念遂行のための抵抗勢力は力づくでも押しつぶしてしまいがちでした。それが彼自身や彼の後継を任じる尾張守高経の失脚を招いたりするのですが、禅宗に帰依しこれを篤く保護する一方で、延暦寺の反発をなにするものぞと天龍寺を建てさせたりしております。
 渋川幸子や斯波義将にしてみれば、細川頼之のやり方は迂遠であり、その効果は疑問符がつくものでした。細川頼之は決して禅宗をないがしろにしていたわけではないのですが、春屋妙葩の信頼を決定的に失ってしまったことは大きかったと言わざるを得ません。

 義満は母や斯波義将から足利幕府がいかにあるべきかを聞き、細川頼之からは南北朝合一後の体制設計という政治課題があることを知りました。花の御所建造はその為の布石であったのです。
 花の御所は今出川室町にあり、これは平安京の都市区画としては洛外にあたる地にあります。足利尊氏が三条坊門高倉に幕府を開いたのは前代未聞の事でした。尊氏自身はその後洛中・洛外に自宅を転々としましたが、政務をとっていた直義はずっと三条坊門第で政務をとり続けておりました。二代将軍義詮は直義に替ってここに入り、政務をとりました。三条坊門第は幕府として機能し続けております。
 洛内は本来は帝のおわすところで、武家の政庁があってよい場所ではないのですが、そこは空気を読まない直義の真骨頂でもありました。幕府も三代続くと、それが何を意味しているのかは流石に理解します。足利義満の御所移転は洛中幕府という異常状況の解消をもたらすものと言えました。
 しかしながらこの北小路室町第の建造は、さらに大きな政治構想の一角でしかなく、京都の伝統という観点から見るならば、直義の洛中幕府構想よりもなお性質の悪いものでした。それはおいおい語ってゆきたいと思います。

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