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2014年5月13日 (火)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑩四面楚歌

 1378年(永和四年)十一月、紀伊の豪族、橋本正督は南朝に与して挙兵し、和泉国守護の細川頼元の軍を打ち破ってしまいました。この時の細川家は西国最強の軍事力を有しておりましす。四国を平らげた後、中国探題となって足利直冬勢を叩きのめし、今川貞世の九州征服に道を拓いたのは細川頼之とその軍団に他なりません。もっとも、楠木正行の挙兵時には細川顕氏が天王寺・住吉浜の戦いで大敗北を蒙っております。
 もっとも細川軍が強いと言っても負ける時は負けるし、頼之の長い治世の間に油断も生じていたのでしょう。細川頼元は軍を退き、代打として山名義理・氏清兄弟が起用されます。彼らの父である時氏は細川顕氏とともに天王寺・住吉浜の戦いに参加して敗北しております。しかしながら、今回はさほどの苦もなく橋本正督の撃退に成功します。

 細川頼之の不敗伝説に終止符が打たれた瞬間でした。しかも、この時別の軍隊が大和国に駐屯していたのです。軍を率いる対象は斯波義将。彼にとってこの出陣は面白いものではありませんでした。此度の出兵は興福寺の依頼に基づくものだったからです。興福寺は大和国守護であり、その領地は地元豪族上がりの法相宗衆徒によって荘園経営がされておりました。十市遠康も大和国十市郡を治める衆徒でしたが、十市氏は南朝に与します。興福寺自体も北朝方の一条院門跡派と南朝方の大乗院門跡派に分かれてあい争っていたのです。細川頼之は春屋妙葩の面子を潰してさえも興福寺を立てたのは、大和国守護である興福寺を味方につけて大和路から吉野に入るルートを確保するという意味もあったのですね。その興福寺から吉野に向かう途上に十市遠康の領地がありました。そして、彼は南朝に味方して、興福寺領を次々に私領化しておりました。業を煮やした興福寺は幕府に討伐を依頼したのです。
 斯波義将にとって興福寺は愉快な存在ではありませんでした。何しろ、彼の父足利尾張守高経を春日神木の霊威をもって失脚させ死に至らしめたと吹聴していたのですから。事実は逆で高経は春日神木をガン無視しておりました。彼の失脚は神木の神威などではなく、佐々木導誉との政争に負けた結果にすぎなかったのです。興福寺は春日神木を京に置くとそのまま放置し、失脚するまでじっと待ち続けました。何年も月日がたち、高経が失脚すると意気揚々とそれまで放置していた神木を担いで大和国へ帰って行ったのです。政権が細川頼之に移って幕府は延暦寺と興福寺ら寺社の要求に屈するようになりました。その挙げ句の果てに、興福寺の要求による出兵です。先の執事(管領)としては、内心忸怩たるものであったことでしょう。幕府軍が大和の豪族を討伐するくらいのことは極めて簡単なことでしたが、それをしたところで興福寺の大和国における支配が強化されるだけで幕府にとっては何の益もないことのように義将には見えたのです。十市遠康の所領が吉野に向かうルート途上にあったとしても、そこに至る為には興福寺に便宜を図ってもらうよう頼まなければならないのです。それは今後も春日神木が京に上洛し続けることを意味しておりました。故に斯波義将率いる幕府軍は十市氏討伐を行うことなく、兵を大和国に留めました。

 そもそも何故こんな微妙な命令を下されることになったかと思えば、細川頼之が最初からこのような出兵を目論んでいたとは到底考えられません。成長し政治参画への意欲を示し始めた足利義満との妥協によるものであったと思われます。もし、斯波義将が義満の命令を全うして興福寺の要請による出兵を引き受け、十市遠康を討伐したなら、それは斯波義将が細川頼之の方針を支持することを意味します。断ったならば斯波義将とその背後にいる野党勢力を将軍の名をもって締め上げる材料に使えます。そのような判断から渋々将軍の指示に従ったということのようです。
 しかし、この妥協は細川頼之にとって最悪の形で跳ね返ってきました。斯波義将は大和まで進軍したところで兵を留め、十市討伐を行うことはなかったのです。斯波義将の傍には土岐頼康ら有力守護達が兵を伴ってつき従っておりました。足利直義が失脚した時と同じ、幕府に敵対する勢力が近国で大兵力をもってにらみ合いをする情勢ができあがっておりました。細川頼之はこの情勢において二つの手をうちます。一つは大和駐留軍の土岐頼康の討伐命令です。同時に土岐頼康と佐々木高秀の京屋敷を破却しました。直接斯波義将本人を命令違反者として敵対するのではなく、付属する武将を名指して罰することにより大和駐留軍の分断を策したのでした。そして、斯波義将には京への帰還命令を下したのです。

 土岐頼康は美濃に帰り、斯波義将は京に戻りましたが、不穏な状況は収まりません。
近江国では京極佐々木高秀が六角佐々木亀寿丸にたいして戦を仕掛けます。もともとは、養子に出していた佐々木高経(改名して高詮)が当主だったのですが幕府の意向で六角家から放逐されていたのです。政局の混乱に乗じて失地回復に乗り出したのでした。
 混乱は関東にも波及します。三月七日に関東管領の上杉憲春が鎌倉公方足利氏満に対して諌死をします。鎌倉幕府が反幕府の挙兵を計画していたようで、その計画阻止の為に命を主君にささげたのでした。
 この憲春は先代能憲の弟で、能憲には子がおらず、関東管領の座を憲春にゆずり、上杉家家督を別の弟の憲方に分割相続させてしまっていたのです。憲春は関東管領とはいっても、基盤となる所領は兄弟の方に与えられてしまって、その座は名目的なものとなっておりました。そんな折に京の政局不安に付け込んだ足利氏満は挙兵を目論んだわけです。
 客観的に見て暴挙であり、憲春は猛反対して押し留めようとしますが、彼にはそれを貫き通す力がなかったのでした。
 彼の死は幕府にも伝わり、鎌倉公方の謀反の計画もばれてしまいました。状況の収集をしないと混乱には拍車がかかる一方です。
 この間、細川頼之は辞意を表明し続け、そのたびに足利義満が慰留し続けておりました。細川頼之にはこの状況の落としどころが自らの下野しかないことを経験から知っておりました。足利直義からはじまって、仁木義長、細川清氏、尾州足利高経・義将親子といずれも同じようなパターンで失脚しております。
 足利義満はそれでもくいさがり、土岐頼康、佐々木高秀ら反乱勢力を許して取り込みを図ろうとしました。その主人の行動を脇で見て細川頼之は四面楚歌する情景を思い描かざるをえなかったのです。

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