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2014年5月 1日 (木)

中漠:洛中幕府編Ⅲ⑤妙葩隠遁と六角処分、付けたり九州探題の事

 ここに至って、細川頼之は完全に手詰まりになりました。頼之を支持して管領につけた佐々木導誉が早々と引退してしまっては、幕府と朝廷・寺社とをつなぐ人間がいなくなってしまいます。彼の得意分野は軍事関係であって、こういう京風の駆け引き合戦は全くの不得意分野でした。それでも思い切りの良い所が、細川頼之の特徴です。
 彼はもう一段の妥協を決めます。すなわち、延暦寺の要求の二番目、南禅寺楼門の取り壊しを呑んだのです。楼門の破壊は礎石まで壊す徹底的なものだったそうです。細川頼之はこれで幕引きがされることを天にも祈るつもりであったでしょうが、彼以外の誰もそこが落としどころとは考えておりません。

 もちろん、延暦寺の三番目の要求対象である春屋妙葩もその一人でした。彼は師である夢窓疎石と同郷の甲斐国出身者ではありますが、師について京・鎌倉を往還しながら齢を重ねてきただけあって、細川頼之のやり方がどれだけ甘いものなのかを熟知しておりました。定山祖禅が処罰され、南禅寺の楼門が破却した後、標的になるのは春屋妙葩であることは確定です。幕府の態度を見るに、山門の圧力に十二分に抗しきれるようには全く見えませんでした。春屋妙葩から見て、細川頼之は全く頼りがいのない、「豎子、ともに謀るに足らず!」と范増の如く罵るべき軽輩に成り下がったのでした。

 春屋妙葩は攻撃の矛先が自分に向く前に、天龍寺の住持を辞して阿波の光勝院に隠遁します。光勝院は夢窓疎石が細川頼之の父、頼春の菩提を弔う為に建てた寺です。妙葩は幕府が流罪の命を下す前に、自らに流刑を課したのです。但し、これもまた細川頼之の苦手な京風の駆け引きの一環でした。実はこの時阿波に隠棲したのは妙葩だけではなく、京都五山にいて妙葩を支持する弟子達はこぞって寺を抜けて妙葩に付き従いました。一応これに満足して延暦寺は日吉大社の神輿を引き揚げます。幕府はその放置された期間中に毀損した神輿の修理費用を出す約束までしていたのでした。頼之はその上で春屋妙葩に帰京を促しますが、妙葩はそれに従わず、頼之の領国である阿波を離れて丹後国の雲門寺に弟子を引き連れて移ってしまいました。

 細川頼之は安易に妥協を重ねることによって、それまでずっと幕府が守ってきた臨済宗教団を敵に回してしまったのです。やむを得ず、頼之は京に残った臨済僧龍湫周沢を起用して体裁を繕いました。龍湫周沢は春屋妙葩と同じ夢窓疎石の弟子で、春屋妙葩は兄弟子に当たります。細川頼之は春屋妙葩と彼に従って京を離れた宗徒達の僧籍を剥奪しました。これによって細川頼之は春屋派を完全に敵に回してしまったわけです。

 宗門との争いはこれでけりをつけたつもりの細川頼之は、体制固めと攻勢に出ます。
 まずは懸案の近江守護ですが、1370年(応安三年)六月七日に六角氏頼が死去し、猶子につけた京極佐々木高経(後の高詮、導誉の孫)が近江守護になります。とはいっても、その前年に氏頼の実子亀寿が誕生している為、亀寿が成人し、近江国守護を相続するまでの後見人という立場としての相続です。実はこのあたりの事情は複雑な要素がからんでいる節があり、一説に亀寿は六角氏頼の子ではなく、足利義詮の子(だとすれば生誕年は応安三年ではなく、義詮の生前もしくは死の前後ということになります)と言われているのです。導誉の死後に六角の遺臣達が亀寿を担いで当主高経とそのと父親高秀を近江国から放逐する挙に出ますが、亀寿誕生の翌年に父親が死んだり、足利義詮父親説が出たりするような胡散臭さが付きまとうのは、『後見』という建前自体なかった結果ではないかという気がします。すなわち、クーデターの為に、六角氏頼の遺児が探し出されたのではないかということです。無論これは推測にすぎませんが、1370年(応安三年)に京極佐々木出身の高経が近江守護を継いだことは事実です。近江国は事実上佐々木導誉の手中に落ちました。同じ年、畿内における南朝の最有力武将である楠木正儀が幕府に降ります。これにより南朝は詰んだ形になって、残る南朝勢力の拠点はほぼ九州のみになりました。これで九州征伐に注力できる環境が整ったのです。九州制圧については、尾州足利、渋川氏から九州探題を補任するという試みがなされましたが、ことごとく失敗に終わっております。
 細川頼之はその轍を踏むことがないよう、家門の高さではなく、軍略の確かなものを選んで派遣することにしました。それが、遠江、駿河を領する今川家の次男了俊でした。了俊は頼之の期待にたがわぬ大活躍をしてのけますが、それはまた別稿で述べさせていただきます。

 細川頼之が悪戦苦闘の日々を送ったこの期間中に二人の有力者が亡くなりました。一人は山名時氏、そして佐々木導誉です。佐々木導誉は今までたびたび述べてきたとおり、幕府に隠然とした影響力を保ち続け、いつ終わってもおかしくなかった幕府の命脈をつないだ人物です。細川頼之の後ろ盾でもありました。これにより、反頼之勢力はにわかに勢いづくことになります。

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