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2015年1月25日 (日)

中漠:東亜動乱編④日明交易と禅宗の変質

 日明断交は洪武帝の死後、建文帝の代において足利義満が派遣した肥富の日本使節を明朝廷が受け入れることで終わります。但し、この建文帝政権は弱体で、北京あたりを支配していた燕王朱棣に反乱を起こされて倒されます。朱棣は建文帝の叔父にあたり、帝位を簒奪して永楽帝を名乗り、首都を北京に移します。足利義満はこの永楽帝と改めて話をつけて、冊封を受け、勘合貿易が始まるのです。その時までには足利義満は実質上日本の支配権を手にしており、明皇帝が求めた倭寇取り締まりの要請を受ける実力をつけておりました。足利義満自身も、朝廷に依らない権力基盤の強化を画策しており、貿易がもたらす利とともに、明帝国を後ろ盾にする益を得ようとしたのです。

 但し、勘合貿易においては、日本使節に行動の自由はかなり制限されてしまったようです。宋、元のころは僧侶が使節に便乗して、大陸上陸後は中国寺院に入って修行をし、修行が終わったころに別の日本使節の船便に便乗して帰国するのが当たり前で、自ら中国の高僧に直接印可を受けたことを自慢する帰国僧はごろごろいましたが、日明交易の枠組みの中では使節団は明国によって徹底的に管理されておりました。なので、日本使節に便乗した留学僧は中国の寺院に表敬訪問をすることはできても、使節を抜け出して中国の高僧に教えを乞うことなど不可能になっていたのでした。
 宋代においては、南宋五山の禅宗寺院システムが直接日本にもたらされて、師から弟子へその教えが、不立文字の形でダイレクトにつながる非常に濃厚な関係が築かれておりました。これが元代に入ると、一応五山は尊重されましたが、五山に対する皇帝の庇護が薄まると同時に独占もなくなりましたので、日本からの留学僧達は五山に留まらず、中国全土に散らばって修行するようになったわけです。その過程で純粋禅とはやや趣を異なる偈(げ)と呼ばれる詩文や水墨画が日本に入ってきてこれに留学僧が血道を上げるようになります。
 そして、明代においては、明皇帝は僧録司という仏教寺院を統制する役職を新たに作り、日本使節とは管理貿易を行うようになりました。それによって日本僧と中国寺院との濃厚な接点はなくなり、日本臨済宗は偈(げ)の研究が大いに発達するようになりました。この精華が五山文学と呼ばれるものです。足利幕府も明の制度を真似て絶海中津を僧録に任じて禅宗寺院を統制させましたが、中国寺院との直接の関係が持てなくなったことから、禅宗教団は中国の直接の影響下から独自性を模索するようになります。

 また、叢林においては十方住持制度というものが導入されました。優秀と認められた僧であれば、法系が異なっても住持なれる制度です。これは禅宗教団全体のレベルを上げることには資しましたが、蘭渓道隆以来の不純物を廃し、中国臨済宗の宗祖臨済の法灯を受け継ぎつつ、不立文字を掲げて師弟関係を育む場としての寺院ではなくなることも意味しました。例えば、天龍寺に教えを乞うたとしても、十方住持の制度によって、例えば南浦紹明系の住持がたまさかそこにいれば、夢想疎石の法灯を継いだことにならないことになります。もとをたどればみな、臨済につながるとは言え、その住持も年季が明ければ、別系統の住持に替わってしまうわけです。師との関係が法灯の証と必ずしもならず、併せて中国からの最新情報も直接深く学ぶことができないということになれば、教学の深化を望む学僧達が血道を上げるのは詩文以外になくなっていたわけです。勘合貿易下の叢林の臨済僧達はいつの間にか日本達磨宗の能忍のように文字に記されたものの中に宗教的真理を探すしかなくなっていたわけです。

 曹洞宗や南浦紹明系の大徳寺・妙心寺等の林下派はその情勢下で奇跡的に法灯の維持ができておりました。これらの寺院は幕府の統制から離れた為、教団としての純粋性を保てていたのです。大徳寺派の一休宗純はこの頃の僧侶を堕落の極みと口を限りに罵っておりましたが、その背景には南宋、元、明にいたる東亜の政治情勢の変化に基づくパラダイムシフトがあったのだと言えるでしょう。

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2015年1月18日 (日)

中漠:東亜動乱編③朱元璋の内部粛清

 冊封使を送った二年後の1374年に、洪武帝は方針転換します。それまでは明国も元と同様私貿易は認めており、市舶司という役所に取り締まらせていたのですが、洪武帝はこの市舶司を廃止し、海上ルートの貿易を公的貿易に限り私貿易を禁止しました。海禁政策の開始です。但し、港を塞いでも倭寇や方国珍の残党が消えてなくなるわけではありませんでした。自らに海上へ進出する力がない以上、それは問題の先送り以外の何物でもありません。

 海外政策を先送りにした代わりに、洪武帝がやったことは汚職打破を名分とした清官運動と功臣の弾圧です。これは現代の中華人民共和国でも行われている伝統的政策でこれによって、中央集権の強化を図ろうとしました。
 その最初の大物が胡惟庸という右腕でした。史書は彼のことを悪く書いておりますが、実際はどうだったのかはわかりません。洪武帝がやったことは二十世紀において、林彪や劉少奇を処罰した毛沢東とあまり変わらないようです。
 その時たまたま日本国王良懐の使節が来明していたと、明の史書にあります。国書を持参したのですが、その国書の内容があまりに無礼で、なおかつ倭寇は海禁にも関わらず跳梁跋扈していたため、洪武帝は怒ってしまってこれを雲南に流罪にしたらしい。おまけにこの使節は四百名もの兵を伴っていたとも書かれています。実際問題、この時の懐良親王にそんな使節を送る余力はありませんでした。なので、この話自体があったかどうかも怪しいのですが、胡惟庸処分の六年後にこの日本使節処罰のシナリオが活用されます。粛清の対象となったのは寧波衛指揮使の林賢でした。寧波は日本と中国との交易を行う玄関口で、林賢はその港の守備を司っておりました。林賢が実際にどのようなことをしでかしたのかは、不明ですが、彼にかぶせられた容疑は次のようなものです。
 1376年、林賢は日本使節(兵四百とは別物)を襲った罪で、役職を免ぜられ三年間日本に流罪になっていた。三年後復職したが、それは胡惟庸の意を受けて、日本兵を率いて反逆するためだった。ということなのですね。日本の使節を襲ったのに、なぜ日本に流されるのかもわけわかりません。日本人が抗議して犯人として引き渡されたと言うのならまだ理解できますが、三年後に明に戻ってなおかつ、胡惟庸の意を受けて日本兵を渡海させることができる立場にいたという容疑が意味不明です。なおかつ、その当時の日本(特に九州)は南北朝の内乱期の政府に海を渡って胡惟庸に加担したいと思った勢力主体がいたとは考えられません。
 結局の所、林賢を処罰した本当の狙いは日明断交を宣言することにあったとしか思えないのですね。処分の二年前に浙江沿岸部の住民を強制移住させて日本海商(彼らの言う所の倭寇)との接触ができないようにしました。林賢の処罰はその延長線にあり、寧波に地盤を持つ林賢を除くことで、貿易統制を徹底できるようにすることにあったのでしょう。
 洪武帝がおそれていたのは、方国珍の残党が日本と結んで逆襲に転じることでした。方国珍が地盤とした浙江寺院と日本との関係を断ち切りたかったのでしょう。1386年に洪武帝は日本との断交を宣言しました。

 その傾向は洪武帝自身の僧時代の経験と重なったのではないかと思われます。彼は僧ではありましたが、そのまま愚連隊化して異民族のモンゴル人に対抗する反乱軍を率いて天下を取った人間ですので、異民族である日本人の仏教勢力が自らの政権を脅かすかもしれないという脳内ループを止められなかったようです。
 そういった発想は別の所でやはり、疑獄事件を起こしております。いわゆる文字の獄と呼ばれる弾圧事件で彼は自らが托鉢僧出身であることを黒歴史とし、「僧」、「光」、「禿」などの文字の使用を禁じておりました。ところが1381年に公文書にそれらの文字がつかわれていたとして、長年つかえてくれていた功臣を撲殺刑に処しました。これを文字の獄と言います。功臣を見せしめに処刑することで権力強化を図るのはこの国ではよくつかわれる手口ですから、弾圧の口実は何でもよかったとは思われますが、この事件は太祖自身の仏教観がよくわかる事件と言えるかもしれません。

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2015年1月11日 (日)

中漠:東亜動乱編②朱元璋の外交政策

 南宋滅亡後の元朝の支配体制はあまり強力なものではありませんでした。なおかつ、漢族に対する統治は不十分なものでありました。旧南宋人は南人と呼ばれてモンゴル人から二等市民扱いされたと言われておりますが、現代の中国人のふるまいを見る限りにおいて、多少の割り引きをしておいた方が、より事実に近いような気がします。現に元朝期においては、大陸に上陸した以後に官憲の取り締まりは多少はあったものの、僧侶の交流自体は密かに続いておりました。それが天龍寺船他の寺社造営船であったわけです。しかし、これらは南宋滅亡後は国家間の交易という枠組みは失われ、元帝国から見れば私貿易以外の何物でもありませんでした。大陸の覇者モンゴルもさすがに海を渡るのは難しかったようです。
 併せて大モンゴルもチンギスハーン没後は内訌が続いて分裂を重ねておりました。元帝国そのものが、モンゴル帝国が分裂して出来上がったものです。歴代皇帝は南人統治よりも、シルクロードの向こうにいる親戚の帝国ばかりに視線が向いていたようです。そのため、旧南宋版図において、反乱軍が勃興するのを止めることはできませんでした。

 最初に反旗を翻したのは当時の中国における土着仏教である白蓮教徒達でした。弥勒菩薩を奉じる人々はそれぞれ同志であることを確認するために目印として頭に赤い布をつけたことに由来します。黄巾の乱と同じ形をとっていたわけですね。この弥勒信仰は阿弥陀信仰が転じたものと見なせますので、日本で言うところの一向一揆のような結社と言ってよいでしょう。
 時に1351年、日本では観応の擾乱が巻き起こっているさなかでした。この反乱は1366年まで続きます。日本では貞治の変が起きて足利尾張守高経が失脚したころに当たります。
 この反乱軍は一時は元の首都である大都を脅かす程でしたが、元軍も反撃に出てこれを打ち破ることに成功します。しかし、その結果出来上がったのは、軍閥による割拠状態でした。
 紅巾を含めてその割拠状態を描写すると、まず浙江に方国珍、蘇州に張士誠、応天府(南京)に朱元璋、徐州に韓林児といった具合です。韓林児が紅巾の首領なのですが、元軍に敗れて追い詰められておりました。朱元璋も紅巾系で韓林児を自らの根拠地にかくまおうとしますが、韓林児はその途上で暗殺されてしまいます。その死は朱元璋による暗殺ではないかと、言われております。朱元璋はその後、張士誠を討ち、方国珍を降伏させた後、北伐の軍を起こして元帝国を北方に追いやることに成功しました。そして、皇帝に即位して洪武帝を名乗ります。明の太祖とも呼ばれております。

 彼は貧農の子で、皇覚寺という寺に拾われて托鉢僧をして糊口をしのいでいたのですが、白蓮教徒の乱に身を投じ、首魁の自滅前に独立勢力として自立するに至ります。日本で言うところの豊臣秀吉にその人生が被るところはあり、天下人としての器量を有する人物でありました。その皇帝としての人生の後半に粛清を行ったことも秀吉とかぶるでしょう。彼は権力奪取の過程で白蓮教とは袂を分かち、逆にこれを邪教として弾圧するようになりました。

 発足間もない帝国の皇帝としては、内憂外患を一つずつ潰してゆく必要がありました。浙江の方国珍は朱元璋に降りましたが、その残党は海上に蟠踞しておりました。元寇が失敗して以来、日本国は政府としての大陸反攻は行っておりませんでしたが、民間船に乗り込み、時に報復行為も行っておりました。天龍寺船を含む元政権下で行われた日元交易は私貿易に他ならず、時に海賊行為も働いていたのです。しかも、観応の擾乱以来、日本は内乱期に再び入ってしまい、私交易を統制する主体はなかったのです。浙江省・蘇州には日本からの渡来僧が数多くおりました。旧南宋の五山がここにあったからですが、元朝は南京に龍翔寺という寺を建て、五山之上という格式を与えております。ここにも日本僧は参内していたそうです。洪武帝がまず考えたのは、日本を手なずけられれば、反明の海上勢力は駆逐できるだろうということでした。

 洪武帝はまず、帝国首都の南京にある五山之上龍翔寺の寺号を大天界寺と改め、そこに善世院という機関を置きました。善世院は後に僧録司と改称される国内仏教寺院を統括する役職です。その上で日本に使者を送り。倭寇の統制と引き換えに国交樹立を呼びかけました。ところが、その当時日本国は南北朝の内乱がまだ続いていた時期でした。明国の使節は九州に入ったのですが、その当時九州を牛耳っていたのが南朝方の懐良親王でした。使節が洪武帝の本来の使命を達するためには、都まで行って天皇に逢えるよう要求すべきでしたが、懐良親王は問答無用でこの使節を殺害してしまいます。洪武帝は懲りずに使節を送り、懐良親王はようやく明帝国の国書を受けとり、話がついたようです。但し、懐良親王はその国書を都には送らなかったようです。無論、北朝の天皇がいる京に送ることはありえませんし、この時点日本国で南朝方のまとまった自立勢力は懐良親王しかいない状況でした。吉野もそれどころではなかったのか、その国書についての記録は現存していません。結局、懐良親王は自分の判断で、国書に返事をよこしたようです。
 明帝国のロジックでは国書に返事をし、交易するということはその人が明帝国の冊封を受けるという意味になります。懐良親王にとっては、九州の勢力維持のために明帝国の威光を利用しようとしたのかもしれません。しかし、その時九州には今川了俊という強力な北朝方の武将が派遣されており、彼が守る大宰府は風前の灯火状態でした。なので、倭寇の統制など夢のまた夢の状況でありました。
 1372年洪武帝は懐良親王に良懐名義で日本国王に冊封するための冊封使を派遣しますが、その年の正月に南朝方の拠点であった大宰府は今川了俊によって失陥されておりました。懐良親王は菊池氏の拠点の肥後国に逼塞します。

 結果として洪武帝のもくろみは失敗に終わりました。要するに最初の交渉相手を間違えたのです。おまけに良懐を日本国王に封じてしまったせいで、良懐以外の日本使節は受け付けられなくなってしまいました。もちろん、懐良親王には倭寇を統制する意思も実力もありませんでしたので、中国・朝鮮沿岸には倭寇があいも変わらず跳梁していたのです。スプーンで耳の穴をほじるような豪快な失敗とも言えます。

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2015年1月 4日 (日)

中漠:東亜動乱編①禅と宋王朝

 今まで臨済宗を中心に日本仏教の流れを追ってきましたが、本編においては中国仏教の動静について触れてゆきたいと思います。そもそも、日本における臨済宗は留学僧栄西が宋に渡って持ち帰ってきたことに端を発します。宋は税金さえ払えば渡航は自由でした。平清盛の時代に朝廷の意向とは別に宋との貿易を始めて以来、仏教を学びに宋へ自費留学をする者が後を絶ちませんでした。栄西が初めて宋に渡ったのも、平氏の肝煎りによるものです。日中関係の交易は遣唐使を菅原道真が廃止して以降、途絶えた中での渡宋でしたから、彼が求めたものは最新の仏教動向そのものでした。南宋は唐が滅び、五代十国の時代を経て趙匡胤が北宋を建てたものが、満州人の金国に敗れて江南を根拠地とした、いわば徳俵に足のかかった帝国でした。その動乱の中で天台宗は衰えており、隆盛を極めていたのは禅宗、とりわけ臨済宗でした。栄西の帰国の後、即位した南宋の寧宗は有力な五つの禅宗寺院を選び、五山として中国の仏教の中心に据えることになります。栄西はそれを日本に持ち込もうとしたのです。
 既に日本国では能忍らが中国の最新の仏教について研究を進めていましたが、当時の中国の仏教は書物などを通して文字で学ぶものではなく、師弟の関係性の中で体得してゆくことが指向されておりました。これを不立文字と言います。
 洋行帰りの栄西は能忍らの研究を認めず、そのせいで能忍たちは叡山の弾圧の矢面に立たされることになります。叡山は栄西の持ち帰った臨済宗にも疑義を唱えますが、禅密兼修を唱えてその非難をかわし、鎌倉に降って北条政子に取り入るなど、巧みに世間を渡り切りました。

 洋行帰りの禅修行者には他に円璽がいて、禅密兼修などと妥協的な態度を取らずに、純粋禅を日本に根付かせることを夢見ておりました。彼は径山万寿寺の無準師範を師としておりました。径山万寿寺は南宋皇帝が認めた五山の一角の寺院です。中国の禅宗が不立文字を唱えたのは、中国の禅宗が修行者を教育して禅僧として育て上げるシステムが出来上がっていたためです。円璽もそこで学び帰国したのですが、何とかして叡山の干渉を跳ね返して禅院のシステムを日本に根付かせようと企んだのでした。その切り札として、日本に送り込まれたのが蘭渓道隆です。彼は徹底的に空気を読まない人間でした。
 行く先々の日本の寺院で、これは仏教ではないと唱えながらその寺を純粋禅の寺に変えていったのです。円璽はそんな蘭渓道隆に延暦寺からの害が及ぶ前に、鎌倉幕府の得宗北条時頼に引き合わせ、帰依させたのでした。この頃の鎌倉幕府は最盛期にありましたが、相も変わらぬ政争の連続に北条時頼は疲れ果てておりました。仏教に魂の救済を求めようにも、日本の仏教寺院そのものが、生臭く利権を要求してくるために、安らぐ暇はありませんでした。
 蘭渓道隆とその背後にある円璽を含む径山万寿寺指導層にも、切迫した事情がありました。彼らの故国である南宋が、モンゴル帝国の圧迫にあい、滅亡の危機に瀕していたからです。北条時頼と蘭渓道隆の利害は一致しておりました。蘭渓道隆はその過激な言動のせいで何度か流罪の目にあいましたが、これは幕府が彼を罰したというよりも、元の間諜疑惑や他宗による弾圧から保護をしたと言った方が正しいでしょう。径山と鎌倉の間に絆は結ばれました。円璽はこのパイプを利用して兀庵普寧、無学祖元らを来日させ、日本における臨済宗教団形成を成功させたのでした。

 そうこうしているうちに、南宋は滅亡し、径山を初めとする五山寺院は庇護者を失ってしまいました。南宋を滅ぼした勢いで日本に遠征軍を送ったために、日中の外交パイプは完全に喪失してしまいました。元寇後、元帝国は日本との国交を求めて使者を建てましたが、その悉くが討たれております。征服戦争を仕掛けた直後なので、止むを得ざるところでありましょう。但し、施設の中にいた一山一寧禅僧は殺しも帰国もさせず、日本の禅院でスター扱いされて生涯を終えることになります。彼は径山とは別の五山の一つ、阿育王山で法を継いでいたためです。中国とは断交しているものの、中国禅宗の余韻を嗅ぎたかったということではないでしょうか。

 この時期、元帝国の海上の統制は緩く、私的留学僧は大陸に数多く渡っております。但し、かつての五山に昔日の面影はなく、一山一寧から中国語を学んだ雪村友梅などは官憲に逮捕されるという事件もあったためでもありますが、中国全土を放浪する運命をたどっております。
 足利尊氏・直義兄弟が帰依した夢窓疎石は無学祖元⇒高峰顕日の法を継いでおりましたので、天龍寺造営のための資金を求めて中国に船を出した時に、目指した先は元帝国の帝都である大都(北京)ではなく、径山のある杭州でありました。
 ここから先、中国は動乱の時代に入ります。元帝国の国威は衰え、反乱が頻発し混乱の時代に入りました。日本においても、観応の擾乱で混乱した余波により九州地方が南朝の懐良親王の勢力下に入ったために、足利幕府と中国との直接のパイプが途切れてしまいました。
 次稿において、その後の中国の情勢について素描いたします。

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