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2015年1月11日 (日)

中漠:東亜動乱編②朱元璋の外交政策

 南宋滅亡後の元朝の支配体制はあまり強力なものではありませんでした。なおかつ、漢族に対する統治は不十分なものでありました。旧南宋人は南人と呼ばれてモンゴル人から二等市民扱いされたと言われておりますが、現代の中国人のふるまいを見る限りにおいて、多少の割り引きをしておいた方が、より事実に近いような気がします。現に元朝期においては、大陸に上陸した以後に官憲の取り締まりは多少はあったものの、僧侶の交流自体は密かに続いておりました。それが天龍寺船他の寺社造営船であったわけです。しかし、これらは南宋滅亡後は国家間の交易という枠組みは失われ、元帝国から見れば私貿易以外の何物でもありませんでした。大陸の覇者モンゴルもさすがに海を渡るのは難しかったようです。
 併せて大モンゴルもチンギスハーン没後は内訌が続いて分裂を重ねておりました。元帝国そのものが、モンゴル帝国が分裂して出来上がったものです。歴代皇帝は南人統治よりも、シルクロードの向こうにいる親戚の帝国ばかりに視線が向いていたようです。そのため、旧南宋版図において、反乱軍が勃興するのを止めることはできませんでした。

 最初に反旗を翻したのは当時の中国における土着仏教である白蓮教徒達でした。弥勒菩薩を奉じる人々はそれぞれ同志であることを確認するために目印として頭に赤い布をつけたことに由来します。黄巾の乱と同じ形をとっていたわけですね。この弥勒信仰は阿弥陀信仰が転じたものと見なせますので、日本で言うところの一向一揆のような結社と言ってよいでしょう。
 時に1351年、日本では観応の擾乱が巻き起こっているさなかでした。この反乱は1366年まで続きます。日本では貞治の変が起きて足利尾張守高経が失脚したころに当たります。
 この反乱軍は一時は元の首都である大都を脅かす程でしたが、元軍も反撃に出てこれを打ち破ることに成功します。しかし、その結果出来上がったのは、軍閥による割拠状態でした。
 紅巾を含めてその割拠状態を描写すると、まず浙江に方国珍、蘇州に張士誠、応天府(南京)に朱元璋、徐州に韓林児といった具合です。韓林児が紅巾の首領なのですが、元軍に敗れて追い詰められておりました。朱元璋も紅巾系で韓林児を自らの根拠地にかくまおうとしますが、韓林児はその途上で暗殺されてしまいます。その死は朱元璋による暗殺ではないかと、言われております。朱元璋はその後、張士誠を討ち、方国珍を降伏させた後、北伐の軍を起こして元帝国を北方に追いやることに成功しました。そして、皇帝に即位して洪武帝を名乗ります。明の太祖とも呼ばれております。

 彼は貧農の子で、皇覚寺という寺に拾われて托鉢僧をして糊口をしのいでいたのですが、白蓮教徒の乱に身を投じ、首魁の自滅前に独立勢力として自立するに至ります。日本で言うところの豊臣秀吉にその人生が被るところはあり、天下人としての器量を有する人物でありました。その皇帝としての人生の後半に粛清を行ったことも秀吉とかぶるでしょう。彼は権力奪取の過程で白蓮教とは袂を分かち、逆にこれを邪教として弾圧するようになりました。

 発足間もない帝国の皇帝としては、内憂外患を一つずつ潰してゆく必要がありました。浙江の方国珍は朱元璋に降りましたが、その残党は海上に蟠踞しておりました。元寇が失敗して以来、日本国は政府としての大陸反攻は行っておりませんでしたが、民間船に乗り込み、時に報復行為も行っておりました。天龍寺船を含む元政権下で行われた日元交易は私貿易に他ならず、時に海賊行為も働いていたのです。しかも、観応の擾乱以来、日本は内乱期に再び入ってしまい、私交易を統制する主体はなかったのです。浙江省・蘇州には日本からの渡来僧が数多くおりました。旧南宋の五山がここにあったからですが、元朝は南京に龍翔寺という寺を建て、五山之上という格式を与えております。ここにも日本僧は参内していたそうです。洪武帝がまず考えたのは、日本を手なずけられれば、反明の海上勢力は駆逐できるだろうということでした。

 洪武帝はまず、帝国首都の南京にある五山之上龍翔寺の寺号を大天界寺と改め、そこに善世院という機関を置きました。善世院は後に僧録司と改称される国内仏教寺院を統括する役職です。その上で日本に使者を送り。倭寇の統制と引き換えに国交樹立を呼びかけました。ところが、その当時日本国は南北朝の内乱がまだ続いていた時期でした。明国の使節は九州に入ったのですが、その当時九州を牛耳っていたのが南朝方の懐良親王でした。使節が洪武帝の本来の使命を達するためには、都まで行って天皇に逢えるよう要求すべきでしたが、懐良親王は問答無用でこの使節を殺害してしまいます。洪武帝は懲りずに使節を送り、懐良親王はようやく明帝国の国書を受けとり、話がついたようです。但し、懐良親王はその国書を都には送らなかったようです。無論、北朝の天皇がいる京に送ることはありえませんし、この時点日本国で南朝方のまとまった自立勢力は懐良親王しかいない状況でした。吉野もそれどころではなかったのか、その国書についての記録は現存していません。結局、懐良親王は自分の判断で、国書に返事をよこしたようです。
 明帝国のロジックでは国書に返事をし、交易するということはその人が明帝国の冊封を受けるという意味になります。懐良親王にとっては、九州の勢力維持のために明帝国の威光を利用しようとしたのかもしれません。しかし、その時九州には今川了俊という強力な北朝方の武将が派遣されており、彼が守る大宰府は風前の灯火状態でした。なので、倭寇の統制など夢のまた夢の状況でありました。
 1372年洪武帝は懐良親王に良懐名義で日本国王に冊封するための冊封使を派遣しますが、その年の正月に南朝方の拠点であった大宰府は今川了俊によって失陥されておりました。懐良親王は菊池氏の拠点の肥後国に逼塞します。

 結果として洪武帝のもくろみは失敗に終わりました。要するに最初の交渉相手を間違えたのです。おまけに良懐を日本国王に封じてしまったせいで、良懐以外の日本使節は受け付けられなくなってしまいました。もちろん、懐良親王には倭寇を統制する意思も実力もありませんでしたので、中国・朝鮮沿岸には倭寇があいも変わらず跳梁していたのです。スプーンで耳の穴をほじるような豪快な失敗とも言えます。

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