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2015年1月 4日 (日)

中漠:東亜動乱編①禅と宋王朝

 今まで臨済宗を中心に日本仏教の流れを追ってきましたが、本編においては中国仏教の動静について触れてゆきたいと思います。そもそも、日本における臨済宗は留学僧栄西が宋に渡って持ち帰ってきたことに端を発します。宋は税金さえ払えば渡航は自由でした。平清盛の時代に朝廷の意向とは別に宋との貿易を始めて以来、仏教を学びに宋へ自費留学をする者が後を絶ちませんでした。栄西が初めて宋に渡ったのも、平氏の肝煎りによるものです。日中関係の交易は遣唐使を菅原道真が廃止して以降、途絶えた中での渡宋でしたから、彼が求めたものは最新の仏教動向そのものでした。南宋は唐が滅び、五代十国の時代を経て趙匡胤が北宋を建てたものが、満州人の金国に敗れて江南を根拠地とした、いわば徳俵に足のかかった帝国でした。その動乱の中で天台宗は衰えており、隆盛を極めていたのは禅宗、とりわけ臨済宗でした。栄西の帰国の後、即位した南宋の寧宗は有力な五つの禅宗寺院を選び、五山として中国の仏教の中心に据えることになります。栄西はそれを日本に持ち込もうとしたのです。
 既に日本国では能忍らが中国の最新の仏教について研究を進めていましたが、当時の中国の仏教は書物などを通して文字で学ぶものではなく、師弟の関係性の中で体得してゆくことが指向されておりました。これを不立文字と言います。
 洋行帰りの栄西は能忍らの研究を認めず、そのせいで能忍たちは叡山の弾圧の矢面に立たされることになります。叡山は栄西の持ち帰った臨済宗にも疑義を唱えますが、禅密兼修を唱えてその非難をかわし、鎌倉に降って北条政子に取り入るなど、巧みに世間を渡り切りました。

 洋行帰りの禅修行者には他に円璽がいて、禅密兼修などと妥協的な態度を取らずに、純粋禅を日本に根付かせることを夢見ておりました。彼は径山万寿寺の無準師範を師としておりました。径山万寿寺は南宋皇帝が認めた五山の一角の寺院です。中国の禅宗が不立文字を唱えたのは、中国の禅宗が修行者を教育して禅僧として育て上げるシステムが出来上がっていたためです。円璽もそこで学び帰国したのですが、何とかして叡山の干渉を跳ね返して禅院のシステムを日本に根付かせようと企んだのでした。その切り札として、日本に送り込まれたのが蘭渓道隆です。彼は徹底的に空気を読まない人間でした。
 行く先々の日本の寺院で、これは仏教ではないと唱えながらその寺を純粋禅の寺に変えていったのです。円璽はそんな蘭渓道隆に延暦寺からの害が及ぶ前に、鎌倉幕府の得宗北条時頼に引き合わせ、帰依させたのでした。この頃の鎌倉幕府は最盛期にありましたが、相も変わらぬ政争の連続に北条時頼は疲れ果てておりました。仏教に魂の救済を求めようにも、日本の仏教寺院そのものが、生臭く利権を要求してくるために、安らぐ暇はありませんでした。
 蘭渓道隆とその背後にある円璽を含む径山万寿寺指導層にも、切迫した事情がありました。彼らの故国である南宋が、モンゴル帝国の圧迫にあい、滅亡の危機に瀕していたからです。北条時頼と蘭渓道隆の利害は一致しておりました。蘭渓道隆はその過激な言動のせいで何度か流罪の目にあいましたが、これは幕府が彼を罰したというよりも、元の間諜疑惑や他宗による弾圧から保護をしたと言った方が正しいでしょう。径山と鎌倉の間に絆は結ばれました。円璽はこのパイプを利用して兀庵普寧、無学祖元らを来日させ、日本における臨済宗教団形成を成功させたのでした。

 そうこうしているうちに、南宋は滅亡し、径山を初めとする五山寺院は庇護者を失ってしまいました。南宋を滅ぼした勢いで日本に遠征軍を送ったために、日中の外交パイプは完全に喪失してしまいました。元寇後、元帝国は日本との国交を求めて使者を建てましたが、その悉くが討たれております。征服戦争を仕掛けた直後なので、止むを得ざるところでありましょう。但し、施設の中にいた一山一寧禅僧は殺しも帰国もさせず、日本の禅院でスター扱いされて生涯を終えることになります。彼は径山とは別の五山の一つ、阿育王山で法を継いでいたためです。中国とは断交しているものの、中国禅宗の余韻を嗅ぎたかったということではないでしょうか。

 この時期、元帝国の海上の統制は緩く、私的留学僧は大陸に数多く渡っております。但し、かつての五山に昔日の面影はなく、一山一寧から中国語を学んだ雪村友梅などは官憲に逮捕されるという事件もあったためでもありますが、中国全土を放浪する運命をたどっております。
 足利尊氏・直義兄弟が帰依した夢窓疎石は無学祖元⇒高峰顕日の法を継いでおりましたので、天龍寺造営のための資金を求めて中国に船を出した時に、目指した先は元帝国の帝都である大都(北京)ではなく、径山のある杭州でありました。
 ここから先、中国は動乱の時代に入ります。元帝国の国威は衰え、反乱が頻発し混乱の時代に入りました。日本においても、観応の擾乱で混乱した余波により九州地方が南朝の懐良親王の勢力下に入ったために、足利幕府と中国との直接のパイプが途切れてしまいました。
 次稿において、その後の中国の情勢について素描いたします。

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